第ニ章1

それは何の前触れもなく行われたことだった。誰にも知らされず、予兆を感じさせることもなく本人の心の中だけでその計画は練られ、実行されたのだ。

「あら、蓮、何?」

見習いの者たちと薬草庫の整理をしてから戻って来た礼は、庇の間にちょこんと座っている娘の蓮の姿を見て言った。

「お母さま、私をここに置いていただけないかしら……」

蓮が小さな声でうつむきがちに言う。

「ええ、いいわよ。景之亮殿は宿直なの?」

礼は薬草庫から持って来た籠を置いて、蓮の前に座った。

「……うん……ちょっと」

娘の蓮は鷹取景之亮と結婚し、同時にこの五条の邸から出て、鷹取家で暮らしている。数日おきに、実家を訪れては、薬草の整理や異国からもたらされた本を写す手伝いをしてくれる。その延長で、この実家に泊まることもある。

礼は、今日もそれだと思った。少しばかり歯切れの悪い蓮に、違和感がありながらも。

「あれ、今日は姉さまがいる」

夕餉時に弟の宗清が広間に現れた。

十三歳になった宗清は身長も伸びて、もう蓮と同じ目線である、

「そうなのよ。ちょっと長くここにいるわ」

「そうなんだ?」

いつもは夫の邸で暮らしている姉が実家に帰って来ていることに、それほど興味はないのか、宗清はあっさりと返事をして、用意された膳の前に座った。

しばらくすると、榧と珊もやって来て、みんなで夕餉を食べた。

皆、姉が実家に泊まることに何の疑問もない。今まで何度もそんなことはあった。

しかし、本人の心の中は違う。

もうあそこには帰らないつもりだ。誰が何と言おうとも。

蓮は考えないようにしていたのだが、不意に思い出して、涙が込み上げてくる。我慢ができずに立ち上がり、庇の間に移動し、そこから簀子縁まで出た。

夏の暑い日で、簀子縁には弱い風が吹いていて、少しばかり暑さが和らいだ。

景之亮様はいつ、気づいて、ここに現れるだろうか。

その時、私はこの気持ちを貫けるだろうか。

決して、嫌いになったわけではない。ひどいことをされたわけでも、言われたわけでもない。愛想を尽かしたわけでもない。

今も、大好き……大好きよ景之亮様……。

蓮は袖で右の目尻を拭った。

「姉さま、どうしたの?」

榧が戻らない蓮を心配して簀子縁まで出てきた。

十五歳の榧は、少女らしさが抜け、大人の女人の輝きが出てきたところだ。

蓮のような活発な娘ではなく、穏やかで物静かな娘である。

蓮は自由に行動させてくれていたが、榧には制限があり、邸の一画から出ることはない。父の実言が周りの者に言い聞かせており、外に行く時も必ず複数人の侍女と従者を従えなくてはならない。蓮のように夜に勝手に外に行くことなんて考えられない。兄妹の中でも、少し扱いが違っているのだ。

「何でもないの。このところ暑くてね……食欲もないのよ」

蓮は榧と一緒に席に戻って、小くじを食べ終えた。

榧の隣の部屋に褥を用意してもらって、早々に中に入って目を閉じた。

妹弟たちといると気分もまぎれるが、一人衾を被れば心は締めつけられる。誰に強制されるわけでもない、自分で決めたことなのだが、それは自分の望むところとは違うらめ、苦しさが込み上げてくる。

しかし、あそこにいても別の苦しみが続く。

どちらの苦しみを選らんだ方がいいのか。どちらを選べば、あの人は幸せになるのか。

何度も考えた。

何通りもの選択。

自分の気持ち。

そしてたどり着いたのだ。この決断に。あとはきちんとやり切るだけだ。

それが、私たちのより良い将来のためになる。


実津瀬の妻の芹がこの五条の邸にやって来たのと入れ替わるように、蓮は夫の住まう邸へと入った。

その日は、ピリリと身が引き締まる冬の寒さだったが、上を見上げると真っ青な晴天で気持ちが良かった。

蓮はこの日のために用意した紅い衣装を着て、髪を整え、化粧をした。それが終わる頃に妹の榧と珊が母と一緒に現れた。化粧をしているものの、それ以上に今の蓮からは美しさが溢れ出していた。

「姉さま、きれい」

と二人の妹に口々に言われて、蓮は少しばかり良い気分を味わった。

今日からこの邸に寝泊まりしないだけで、蓮は数日ごとにやって来ては、今までと同じように母の手伝いや写本をするので、会えない寂しさはない。二人は明るく手を振って晴れ晴れとした表情の姉を送り出した。

五条の邸から夫になる鷹取景之亮の邸のある六条まで歩いて行った。周りには侍女が三人、前や後ろに四人の従者が付き添い、頭上には大きな笠を差して、通りを行く人に何事かとじろじろと見られて邸へと向かった。

邸に着くと、邸を取り仕切っている舎人の真澄と侍女の丸が出迎えてくれた。

蓮の姿は完成してはいないので、まだ景之亮と対面するわけにはいかない。すぐに控えの間として用意してくれた部屋に入って、化粧や髪を整える。前日までに運び込んでいた箱の中から婚礼のための上着や領巾を付けた。

そのうちに、父と母、兄の実津瀬が鷹取の邸に到着したので、仕上げの着付けと化粧が終わった姿で対面した。母が侍女に持たせていた箱を開くと、中には碧色の首飾りと腕輪があった。母は取り出してその手から着けてくれた。

「これはお父さまのお母さまから、私が受け継いだものなの。今度はあなたに引き継いでほしいわ」

「おばあさまのもの……私が受け継いでいいの?」

蓮は首飾りを着けてもらうと父と母に向き直って言った、

「もちろんだ」

と父が言う。

「もちろんよ。私がお父さまの元に来た時に、受け継いだ大切なもの。あなたにも大切にしてもらいたいわ」

「……はい」

蓮は胸の上にある首飾りの上に両手を置いて、言った。凝った装飾に美しい緑の石をはめ込んだ首飾りは、重く受け継ぐ責任を感じた。

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