第二章2

 実言を先頭に実津瀬、蓮、そして礼の順に並んで鷹取家の広間へと向かった。

 庇の間に入ると、几帳の向こうに座る景之亮の頭が見えた。

 前日に、宮廷から下がって来た景之亮が五条の邸を訪れた。

 明日からはずっと一緒にいられるのだから、と長居はせず庭で階を下りた蓮と向かい合って短い言葉を交わした。

「明日が楽しみだ。邸の者は皆、あなたを迎えるのを心待ちにしているんだよ」

「私も明日が待ち遠しいわ」

 そう言って顔を見合わせ、微笑み合ったのだ。

 景之亮の両親は既に他界している。景之亮には姉がいるが、父それから二年後には母が相次いで亡くなった時に夫の元に子供と共に移り住んだ。そこから、この邸は景之亮一人が、従者と侍女数人とで住んでいる。

 古びた邸を景之亮は恥じていたが、年月が経てばこうなるものだから蓮はそんなこと気にならない。しかし、景之亮は新年を迎えたら邸の補修を始めると言っている。

 父と兄に続いて、几帳の中に入った蓮の姿を見た景之亮は、はっと目を見開いた。

「さあ、景之亮殿の隣へ」

 父に促されて、蓮は景之亮の前に進み出た。即座に景之亮が手を差し伸べたので、蓮はその手に手を載せて、景之亮の隣へと座った。

 ここで、蓮は景之亮の出で立ちを頭からじっくりと見た。

 一筋の後れ毛も許さないというように、きれいに上げた髪を頭上にまとめて、濃い髭はきれいに剃って、剃り跡が青い。着物は薄い黄色の上着である。いつも青い暗い色のものを身に着けているので、明るい色は印象が違って見える。今日の晴れがましい日を意識して選んだようだ。そこに濃い蒼の帯を締めている。

 この場には知った者しかいないというのに、景之亮は緊張しているようで目がつり上がり気味だ。

 そんな様子が見えたので、逆に蓮はにこっと笑ってしまった。

 それにつられたように景之亮は目尻を下げて、口の端が左右に広げた。

 手を握り合って微笑み合う二人を父、母そして兄も温かな目で見つめている。

 景之亮には、父の代から仕えてくれている舎人の真澄と侍女の丸が部屋の端で見届けてくれている。

「私の自慢の娘をよろしく頼むよ。気が強くて自由な人だから、あなたも気苦労が絶えないかもしれない」

 と実言が言う。蓮はそんなことはないと頬を膨らませて怒ったふりをする。

「私にお任せください」

 そう言って、隣の蓮を見た。

 父の言いように怒った表情をしていたが、すぐに元に直って景之亮を見上げる。

「私は景之亮様をお助けするわ」

 祝いの膳が運び込まれて、皆で談笑しながら食事をした。実言と景之亮は酒をしこたま飲んだ。

 そして、父母と兄は帰って行った。父は酒のせいか足元が危なくて、兄に支えられて階を下りて行く。

 特段の別れの言葉はなかった。実家とここはそこまで遠くないし、蓮は母の手伝いをするために数日おきに訊ねるつもりである。だから、いつでも会えるのに、父母の背中を見送る時に慣れ親しんだ五条の邸と、いつも一緒にいた父母と兄妹たちと離れたということをしみじみと感じて、目頭が熱くなった。

 隣には夫の景之亮が立って、父母の背中が見えなくなるまで一緒に見送ってくれた。

「寂しいかい?」

 父母が消えて行った方をいつまでも見つめている蓮に景之亮は言った。

「いいえ、そんなことないわ。お父さまとお母さまに感謝していたの」

 蓮は景之亮を見上げた。

「今は景之亮様のことを考えているわ。今から、あなたと一緒」

 景之亮の腕を自分の両腕に抱いて、蓮は顔を景之亮に近づけた。

「ね!」

 景之亮は自分の右腕に巻き付いた蓮の手の上に左手を置いて、一緒に階を上がった。

 そのまま景之亮の寝室として使っている部屋へと連れて行った。

 その部屋は秋に景之亮が風邪を引いたが、治ったと聞いて蓮が夜中に押しかけた時に入った部屋だ。

 その時以来、入ることになった。

 しかし、部屋の印象が違う。

「この部屋……」

「御簾や几帳を新しいものに変えた。少しずつだが、修理をして行くよ」

 蓮は頷いた。

「昨日届いたあなたの物は丸が指示して、置き場所を決めたんだ。明日にでも、あなたの気に入るように変えたらいい」

 昨日のうちに蓮が五条の邸で使っていた机や衣装箱を運び込んでいた。机は庇の間の庭が良く見える場所に置かれていた。

「ううん。この場所がいいわ」

 二人は今日の日のために用意した豪華な衣装を脱いで、楽な格好へと着替えた。蓮は両親から受け継いだ首飾りを景之亮に外してもらうと、衣装箱の中に収めた。

 普段着に着替えた二人が寛いでいるところに、侍女の丸が蓮と一緒に岩城家から来た侍女の曜とともに膳を持ってやって来た。

「お二人ともあまり食事をとられていなかったでしょう。どうぞ」

 祝いの膳ほどの品数ではないが、焼いた魚や青菜、粥が載っている。

 蓮は別の膳に載っている酒の徳利を取り上げた。

 景之亮は祝いの膳を食べていた時も、酒は飲んだが、今こうして二人きりになって、妻が注いでくれた酒を飲むのは格別に感じた。

 傍の火桶の中の火が爆ぜた。

 気がつけば、外は夕闇となっている。近くで丸や曜が灯台に火を入れてくれ、食べた膳を下げてくれた。

 蓮は景之亮が手にしている杯に酒を注ごうとしたが、景之亮が杯を膳の上に置いた。

「もうたくさん飲んだよ」

 蓮も膳の上に徳利を置いて景之亮を見た。景之亮の顔は変わらない。灯台の明かりで見るから赤く見えるだけだ。灯台の炎が景之亮の目に映って、景之亮の目が燃えているように見える。

「奥に行こう」

 景之亮は蓮の手を握って、蓮と一緒に立ち上がった。

 一歩、二歩と景之亮の腕に手を回して歩いたが、景之亮が立ち止まる。蓮は腕から手を放したら、景之亮は蓮の背中と膝の後ろに腕を回して、横抱きに抱き上げた。

「まあ、景之亮様!」

 蓮は景之亮の素早い動きを予測できず驚いて声を上げた。

「今日は、ここまで歩いて来てくれた。疲れただろう」

 景之亮が言うと、蓮はその首に両手を回して、抱きついた。

「疲れは少しだけ。景之亮様と一緒にいられて興奮しているわ」

 蓮はそう言って、興奮しているなんて、言ってよかったのかしら……と思ったが、その後に。

「私もだ」

 景之亮が一歩一歩進むと、袴の裾の擦れる音がする。

 蓮はその音が耳に迫って来るように感じる。それほど、冬の夜の入り口は静かだった。

 几帳を越えた奥の部屋には既に寝所が整えられていて、景之亮は褥の上に上がるとしゃがんで、蓮をその上に下ろした。蓮は景之亮の首から手を放して、居住まいを正した。景之亮は着ていた上着を脱いで、蓮へと向き直った。同じように膝をそろえて座った。

 何度も向かい合い、見つめ合いをしてきた今日であるが、二人きりで向かい合うのは今が初めてである。

「れ」

「か」

 お互いの名前を呼ぼうとしたら、同時に口を開けて言おうとしたので、お互い譲り合って止まってしまった。

 お互いどちらが先に名を呼ぶか間があったが、景之亮が先に口を開いた。

「蓮…」

「はい…景之亮様」

 蓮が返事をすると、景之亮は膝の上に揃えて置いている蓮の右手を取った。蓮はまだ握られていない左手を上げて、景之亮の右手を自ら握った。

 高灯台の小さな火が揺れて、部屋の中は暗くなったり明るくなったりしてお互いの表情が見え隠れする。しかし、お互いどちらからともなく顔は近づいて、表情を見ることはできなくなった。それは、唇を重ねて目を閉じてしまったからだ。

 握り合った手を放し、景之亮が両腕を蓮の背中に回して抱き寄せた。

 高灯台の明かりが小さくなって、部屋の中は暗く褥の上の二人の影だけを映す。抱き合っていた二人が褥の上に横になる頃には、灯台の火は消えて衣擦れの音の後、吐息が聞こえるだけになった。

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