第五章3

 翌日、実津瀬は目が覚めた時、既に陽は高く昇っていて、部屋の蔀戸は上がっていた。

 いつもの自分ならどんな日でも夜明けには起きているものを……なぜ、こんなに寝入ってしまったのか……。昨夜は、酒を少し飲んだだけと思っていたが、思った以上に酔ってしまったのか。

 褥に上がってから、いつものように芹の帯に手を掛けて、お互いの服を脱がし合って抱き合って、横になってから話をした……。

 実津瀬が起きたのに気づいた侍女の槻が部屋に入って来て、身支度を手伝ってくれた。

「芹は……」

「お庭で淳奈様の遊び相手をされていますよ。実津瀬様のご出勤は遅いから、いつまでも寝させてあげてとおっしゃっていました。ただいま、お食事をお持ちします」

 昨夜の褥の上の会話で芹に遅出だと言ったのか……。

 覚えていないなんて、困ったものだと思いながら、実津瀬は御簾が巻き上げられた庇の間へと移った。

 庭から軽快な笛の音が聞こえる。

 芹と淳奈の護衛をしている天彦が吹いているのだ。

 笛に交じって、二人の明るい笑い声がする。

 実津瀬はそっと庇の間の前まで出て、庭を覗いた。

 昨日の雨は上がり久しぶりの青空の下、芹と淳奈が笛の音に合わせて、ぴょんぴょん飛んでいる。芹は、膝をついて淳奈と同じくらいの目線で手を振って叩きながら、右膝を立てて立ち上がる準備をし、笛の音が高鳴ると左足を踏ん張って立ち上がった。淳奈と手の振りを合わせて舞い、手を繋いでくるくると回る。立ち止まって片膝を着き、立ち上がった時の逆の動きで膝立ちに戻り、淳奈の手を取って上にあげ、横に倒してをやっている。

 なんとも大変な激しい動きだと思ったが、芹らしい奇抜な面白い踊りだとも思った。芹が膝立ちになったり立ったりすると、淳奈は同じ目線から見上げる状態に行ったり来たりすることや、自分の手の動きが変わっていくのが面白いらしく、終始笑い声を上げて、母の手を離さない。

「かあさま!」

 膝立ちの状態から立ち上がらない芹に淳奈は声を上げた。

「淳奈、もうだめ。足が痛くなっちゃったわ。少し休みましょう」

 芹は尻をついて後ろに倒れた。

 淳奈は母の胸に飛び込んで、一緒に踊ってくれないことを責めた。

 天彦が笛の音を止めなかったので、その音楽に合わせて芹の膝の上で淳奈は腕を上げて、手を動かした。

 二人とも楽しそうに踊っている。

 庇の間から様子を見ていた実津瀬に淳奈が気付いた。

「とうさま!」

 芹も邸の方に顔を向けて、実津瀬の姿を認めた。二人は立ち上がって、階を上がってきた。

「よい目覚めですか?」

 芹の言葉に実津瀬は頷いた。

「よく寝たものだ。びっくりした」

 実津瀬は淳奈の手を引いて、部屋の奥へと入った。

「最近のあなたは体を痛めつけるように舞をしていたもの。寝ても体も心も休まっていなかったのよ。時には、完全に体を休めて欲しいわ」

 侍女の槻が用意した朝餉の準備を交代して、芹が実津瀬の前に粥を注いだ椀を置いた。

「少し、痩せたわ……。たくさん食べてくださいな」

 母の膝の上に座った淳奈の手を握って、芹は実津瀬に心配そうな視線を送った。

 断片的に思い出される昨夜の記憶。

 お互いの寝衣を脱がせて、芹が自分の胸に手を置いた時、両手を背中に回した時、実津瀬の体を確かめるように触れて、あなたは自分に厳しくし過ぎよ、と言った。

 無駄なものが削ぎ落された体と、鋭くなる眼光。芹は一つの道を求めて、精進する実津瀬の姿を尊く思うが、傍で見守る者としては心配でもあった。

 実津瀬が妻と子供のことをなおざりにすることはない。いつも通りに時間を取って向き合って対話し優しく接してくれる。しかし、それ以外の時間は孤独に身を置いて、頭の中は舞のことを考えている。

 自分の知らない実津瀬に変貌していくことを、芹は恐れた。

 実津瀬は椀の粥を一口食べて、思い出していた。桂にも同じようなことを言われたことを。

 月の宴の雅楽に関して、進捗を確認しに桂が稽古場に来た。

 雅楽寮の長官である麻奈見や舞人の淡路から説明を聞き、主役の一人である朱鷺世の舞う姿を確認した。そして、稽古場の扉を出る時に、仕事が終わって稽古場に来た実津瀬と鉢合わせた。

「実津瀬!」

 桂は実津瀬を見つけて、笑顔を見せた。

「桂様、いらっしゃっていたのですか?」

「そうだ。実津瀬もいるかと思ったが……。今仕事が終わったのか」

「はい。いつもなら、もっと早くに仕事が終わるのですが、今日は手間取りまして今になりました」

「実津瀬の舞が見られず残念だ……」

 実津瀬の顔にじっと視線を当てる桂は、それからふっと笑った。

「実津瀬……顔が変わったな。いい顔になっている」

 実津瀬は頭を下げた。

「……朱鷺世の舞を観たが、やはり私の見立て通りだ。実津瀬を危うくする男になった。あの男の顔もひと月前とは全く違う」

 桂は実津瀬に挑戦的な視線を送った。

「練習で一緒に舞っていてわかるだろう。だから、実津瀬も嫌でもそんな顔つきになるのだ」

 実津瀬は一度顔を上げて、桂と視線を合わせて再び、平伏した。

「私は忖度なく、舞の巧い者を選ぶ。だから、実津瀬、一つでも二つでも高みへと進んでおくれよ」

 桂は赤い唇の両端を上げて笑い顔を見せ、稽古場を去っていった。

 自分の顔はそんなに変わったのだろうか。

 実津瀬は椀の中のものを全部食べ終わって、自分の頬に手を当てた。

「どうしたの?」

 実津瀬の動きに、芹が訊ねた。

「いや」

「……おかわりは?」

 実津瀬が椀を膳に戻した。

「いや、もういい。そろそろ支度をしよう」

 実津瀬の着替えを手伝って、芹は淳奈と一緒に宮廷に向かう実津瀬を見送った。

 中務省の館に着くと、早く出ていた者から仕事の引継ぎを受けて、仕事に没頭した。

「実津瀬!」

 自分を呼ぶ声がして顔を上げると、扉の外に本家の鷹野が立っていた。

 鷹野は刑部省に勤めていた。その館からこの中務省までやって来た。

 実津瀬は机から離れて扉へと向かった。

「鷹野、久しぶりだな」

「もう、どれくらい会っていないか。寂しかったぞ~」

 鷹野はおどけて実津瀬に抱きつこうとした。それをすんでのところで手を突き出して抑えた。

「何の用だ?」

「用がないと会いに来てはいけないのか?」

「そんなことはないが。お前も暇ではないだろう」

「暇でないと実津瀬に会いに来てはいけないのか?」

「そんなことはないが……」

 同じような会話が続いたのを実津瀬も鷹野も面白く思って笑った。

 鷹野は実津瀬の妻である芹の妹の房と結婚した。

 半年前に念願の子供が生まれて、毎日妻のいる須原家に通っているらしく、実津瀬のことなど頭にないはずである。

 房の出産に父親と折り合いの悪い芹は、この時ばかりは妹を見舞いたくて実津瀬に付き添ってもらって実家に行った。出産の疲れが残る妹の手を握って労い、生まれて数日の赤さまを淳奈と一緒に覗き込んで微笑んでいた。

 そんなことを思い出していた実津瀬は、鷹野がまとわりついて来るのに距離を取った。

「妻と子供に会いに行くのに忙しいだろうに」

「そうだな、子供はかわいいな……。それはそうだが。今夜、うちに来い。一族の軽い集まりをする。実言叔父上にも話はいっている。お前に話すのを忘れていたと聞いて、ここに寄ったのだ」

 父の実言が自分に話すのを忘れていた、というのは嘘だと思った。父が忘れるなんてことはない。きっと、声を掛けづらかったのだろうな、と想像した。

「そうか……。仕事が終わったら本家に行くよ」

 ここのところ稽古場に通いつめ、邸に帰っても庭で練習ばかりで、芹が言うように体を酷使していた。今日一日くらい休んでもいいだろうと思った。

「一緒に帰ろう。俺もまだ仕事があるから」

 鷹野が言った。

 その通りに、実津瀬の仕事が終わる頃、再び鷹野が扉の前に姿を現した。実津瀬は机の上に出していた巻物を集めて、保管場所に収めると扉の外に出た。

「待たせたな」

「いいや。実津瀬殿を待つなんてたやすいことさ。宮廷の注目人物である実津瀬殿を急かしたりしないよ」

 鷹野はからかって来る。

「やめてくれよ。注目人物なんていうのは」

「いや、皆、口には出さないが思っていることさ。実津瀬の顔もなんだか変わって、舞人らしくなっているぞ」

 あまりにも自分の顔が変わったと言われるのもいい気がしない。実津瀬は、口を結んで宮廷の門へと向かった。

 中務省の館に近い待賢門を出る時に、景之亮が勤める左近衛府の建物が見えた。

 蓮と別れてしまっても、父の実言は景之亮を頼りにしていて、表立って会うことはしていないが連絡を取っていることは知っている。実津瀬も景之亮と会えば言葉を交わし、近況を話すが、最近は会っていないな、と思った。

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