第二章12

 結婚して三月しか経っていないのに、景之亮が反乱を鎮めるために尾張の国に行ってしまった時、蓮は愛にはこのような試練があるものだと挑む気持ちだった。しかし、時間が経つとそのような勇ましい気持ちはしぼんで、ただただ景之亮が無事に帰ってくるのを祈るばかりだった。

 夜明け前に起きて、景之亮が向かった尾張の地の方角に向かって祈る。ちょうど東の太陽の光が山の稜線を白く浮き上がらせる時だ。

 そして、夕方、陽が西に沈む時、都の西に見える畝傍山に向かって感謝を送る。景之亮を一日見守ってくださったと。

 蓮は景之亮が旅立ってから二日に一度は五条の実家に行っていた。

「お父さま、景之亮様のこと何か伝わっていない?争いは平定されて、景之亮様がこちらに帰って来るとか」

 父である実言をつかまえて訊ねた。

「おいおい、蓮。まだ、景之亮が発って、五日だ。そろそろ尾張の地に到着する頃だ」

 と言われた。

 景之亮を見送って、五日が経ったのか。景之亮と一緒に暮らしてから、それほどの日数を離れたことがなかったので、もう恋しい。ひと月も会っていない気分である。

「そうだったかしら……」

 蓮は父の言葉に、唇を尖らせて返答したところで、母に手招きされて、部屋を出る。

「景之亮殿は、大丈夫よ。心配ないわ」

 そう言って、背中をさすられた。

 最前線に出て行って反乱者を制圧するわけではなく、本陣で状況を見ているだけだと聞いているが、いつ何時、前線に行くかわからない。蓮は不安であった。

 景之亮のことを思うと急に寂しくなり、それが態度に出てしまってみんなに慰められて、気持ちを持ちなおすということを繰り返していた。

 ひと月が過ぎた時、当初三月くらいかかると言われて落ち込んでいた蓮に、その知らせはもたらされた。

「景之亮様は尾張の地を発って、都に向かっていらっしゃいます」

 五条から使いが来て蓮に伝えた。

 蓮は真澄や丸と一緒にその知らせを聞くと、ほっとして目尻に涙を浮かべた。

 三月かかると思っていたものが、その半分の期間に縮まったのだ。

「早ければ五日ほどで都に到着されます」

 そう聞くと、蓮は五日が経つのを指折り数えて待った。

 使いが来てから四日目、夜明けとともに五条の邸に行った。

「お父さま!」

 例によって、実言は妻を隣に置いてゆっくりと朝餉を食べていた、

「なんだい?蓮、こんな朝早くから」

 目の前で止まりそうもない勢いで庇の間を抜けてきた娘に、実言は言った。

「景之亮様は明日には帰って来られますか?」

 膳の直前で止まって、すとんと座って言った。

「明日?どうして?」

「だって、五日後には都に着くと言っていたわ。この邸から遣わしてくれた使者が」

「それは早ければ、順調に進めばということだろう。まだ帰って来ないよ」

 それを聞いた蓮は誰にでもわかるほど落胆した顔をした。

 父に言われて、確かに早ければ、と言っていたかもしれない。しかし、蓮はその通りに早く帰って来られるものだと思い込んだのだ。

 私がこんなに景之亮様に会いたがっているのだから、景之亮だって同じ気持ちだろう、と。飛んで帰ってきてくれるような気持ちでいた。

「そんな顔をしないでおくれよ。待ち遠しいのはわかるが、景之亮達一団は明日はまだ都には到着はしない。そのような連絡はないよ」

 連絡はあれば、夜中であっても鷹取の邸に人をやるから、と言われて蓮は一人、妹の榧の部屋に行って慰めてもらったのだった。

 蓮は毎日行ってきた太陽が昇る時と沈む時にその方向に向かってお供えをし、祈ることをより丁寧に行った。

 道中の安全と、馬から落ちるなどの怪我をしないようにと祈った。

 明日帰って来ないの、と実家を訪ねてから四日が経った昼間に、五条から人が訪れた。

 階の下まで降りた蓮は、使者が何と言うか言葉を待った。

「先払いの使者が朝、宮廷に到着しました。その者たちの話からでは、景之亮様は夜通しかけて戻られたら、明日中には都にお入りになるでしょう」

 道の安全を見るために先に都に向かった者たちが状況を報告したところによると、景之亮たち一団はもう都の近くまで来ており、半日で都に帰還するというのだ。

 蓮は使者を送り返すと、曜と抱き合って喜んだ。

「丸、聞いた?」

「はい、聞きましたよ。よかったです」

「早ければ明日には帰ってくると……帰って来たら景之亮様には精のつくものを食べてもらいたいわ。市に人をやって、魚を買いましょう。他にも景之亮様が好きなものを用意しましょうね」

 蓮は軽やかな足取りで台所と部屋を行き来した。

 丸や曜、庭や台所にいる使用人たちは蓮の体が宙に浮いて移動しているように見えた。それほど、嬉しくて嬉しくて体が飛び上がっているからだろう。微笑ましい姿であったし、主人が帰ってくるという知らせは、使用人たちの気持ちを安心させた。

 その夜、蓮は二月近く会えなかった夫と再会することに胸が高鳴り、寝ようと目をつむっても、すぐに目が開いてしまう。

 夜明けを知らせる鶏が鳴く前に、蓮は起き上がった。

 景之亮様が帰ってくる。

 そのことを考えただけで、体が踊り出しそうだ。

 初夏の朝は、ひんやりとした空気が蓮の体を包んだ。

 朝から、景之亮に食べさせる料理の準備を進めながら、蓮は机についていつものように写本をした。

 途中、丸や曜が料理などの準備について相談や進捗を知らせに来て、時間は経ったが、景之亮が帰って来たという知らせは来ない。

 五条の邸に行けば、父から景之亮のことを教えてもらえるかもしれなかったが、五条に行っている間に景之亮が帰って来たらどうしよう、と考えて鷹取の邸を離れることができなかった。そう気を揉んでいたら、五条から人が来た。

 景之亮は都のすぐそばまで帰って来ていることを知らせに来たのだった。先頭を進んでいた兵士が都に辿り着いて、そのことが知れたようだ。

 後方にいる景之亮の都入りはまだ時間がかかるらしい。

 しかし、蓮の頭の中はそうは言っても、景之亮は目の前に見える都にゆっくりと時間をかけて戻ることはない、と思う。一刻も早く都に、この自邸に帰って来たいはずだ。

 蓮は、景之亮を待つ間、写本の続きをするが、ちっとも進まない。

 蓮の筆跡の美しさ、読みやすさを誰もが褒めてくれて、蓮もそれが自慢であるが今の蓮は集中できずにその良さを保つことができなかった。

「丸、料理の準備はできている?」

 太陽が西の畝傍山に隠れていくのを庭に出て、見つめていた蓮が言った。

 あともう少し。もう少しで景之亮様に会える。

 蓮の気持ちは止まらない。夕餉を少し食べてから月明かりの下で縫物をする。景之亮が都を発ってから、肌着を縫っていた。もうすぐ出来上がるので、得意ではないが一針一針に心を込めて縫っていた。

「蓮様、まだお休みになりませんの?」

 蔀を閉めに来た曜が言った。

「景之亮様がいつ帰ってくるかわからないもの。待っているわ」

「真澄殿、丸殿が寝ずの番をされるそうですから、蓮様はお休みくださいな。景之亮様がお帰りになれば、私たちがすぐに知らせに来ますから」

「そう?でも私、起きて待っていたいの」

 蓮の答えに、曜はそれ以上は言わなかった。

 蓮の傍に仕えて長い曜は、蓮が決めたら譲らないことはわかっていた。

「お部屋には寝所をご用意していますわ。いつでもあちらに移ってくださいね」

 曜に言われて、蓮は頷いた。

 眠くなるかしら?

 蓮はそう自分に問いかけたが、案の定、眠くなるどころか、目が冴えて仕方なかった。景之亮が帰って来たら、どんな風に迎えようか。用意した料理は満足してもらえるだろうか。長旅だからまずは汗や汚れも落とさないといけないかしら。そんな段取りを考えては、景之亮はどう思ってくれるかを想像した。喜んでくれるだろうか。料理はおいしいと言ってくれるだろうか。私に再会したことをどんな風に、表してくれるだろうか。

 そんなことを考えていたら、夜通し起きていたが、景之亮が帰ってくることはなかった。

 どの道を帰っているのだろう。都はもう目の前と聞いたのに、まだ帰って来ないなんて?

 都には入ったのかしら。そうであれば、五条から知らせが来てくれてもいいはず。無いということは、まだ都に入ってはいないということかしら。

 蓮は朝餉を食べた後、写本の続きをする。気分転換に庭を歩いて、丸や曜と話をし、夜通しやっていた縫い物の続きをした。

「蓮様、昨夜はお休みになられました?」

 曜が訊ねた。

「う、うん」

 蓮は曖昧な返事をする。曜は乱れたところのない褥を見て、蓮が褥の上にも上がらず起きていたことを知っていた。

 景之亮の帰りを今か今かと待ちわびる蓮の気持ちと現実はかけ離れていて開けた蔀から青い空と白い雲を眺めて、はやる気持ちを落ち着かせた。

 そう、落ち着いて。景之亮様はもう私のそばまで帰っていらしているはず……。

 蓮は景之亮のことを思っていたら、気が遠くなり瞼が下りたままになるのを三度抗ったが、最後には目を閉じてしまった。

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