第二章13

 蓮は薄目を開けた。

 自分がどんな状態にあるのか、すぐにはわからなかった。

 帰ってくると聞いて机の前に座って景之亮の帰りを待っていたのだ。会えることが嬉しくて、昨日から眠れずにいたのだ。夕暮れ間近の空を眺めて、景之亮の帰りはまだだろうか、遅いと思っていた……ところまでは覚えているけど。

 蓮は飛び起きた。自分の体が横になっていた。枕をして、寝ていたのだ。

 蓮は自分の左右を見回した。自分の体がどうしてここまで移動しているのか。自分で這って、来たのかしら、と蓮は思った。

 窓がある右側を見ると、外は薄暗い。夜明け頃だろうか。

 景之亮様は……まだ帰っていないのかしら。

 蓮は左側に目を移すと、そこには大きな体が横たわっていた。

「か……」

 景之亮様!

 大きな声を出しそうになったが、眠っている景之亮を起こしてはいけないと、心の中に留めた。

 ああ、やっとお帰りになったのね。

 景之亮は旅の衣装を少し解いただけの姿で、横になっている。

 蓮は景之亮の体に手を伸ばして、触ろうとした時に、景之亮の目が開いた。

「蓮」

 景之亮は素早き起き上がり、妻の名を呼んだ。

「景之亮様!」

 蓮はたまらず景之亮の胸の中に倒れ込んだ。

「会いたかった」

 蓮はかすれた声で言った。

「私もだ。やっと帰って来られたよ」

 蓮は頭を、背中を撫でられ、ぎゅっときつく抱き締められた。

「私……肝心なところで寝てしまったのね。みんな起こしてくれればよかったのに」 

「私が止めたんだよ。曜から聞いたよ。私がいつ帰って来てもいいように、夜も寝ずに待っていてくれたそうじゃないか」

「でも、それも景之亮様がお邸に着いたときにすぐにお顔をみたかったからなのよ。それなのに、寝てしまったなんて……恥ずかしいわ」 

 景之亮は声なく笑い顔を作って、蓮の髪を撫ぜた。

 景之亮が邸に戻って来たのは、陽が落ちた戌刻(午後八時)だ。

 兵士たちを引き連れて都に入ったのは酉刻(午後六時)。宮廷に入って、帰還の儀式を終えてから、帰って来たのだった。都に入るのに時間がかかったのは、途中、増水した川の水が引くのを待ったためだった。

 儀式も終わって、宮廷の門を出ると景之亮は急いで帰って来たの。邸の者たちは皆、仕事の手を止めて出迎えてくれたが、肝心の蓮は現れない。景之亮は夫婦の部屋に向かうと、蓮を呼びに行った曜が蓮の肩をゆっくりと揺すっているところだった。

「曜、無理に起こさなくてもいい」

 曜は振り返って言った。

「昨夜からいつ景之亮様が帰って来てもいいように寝ずに待っていらしたのですよ」

「待ちくたびれてしまったかな……」

 机の上に突っ伏して眠っている蓮の隣に座ってその手を取った。それでも蓮は起きる気配はない。背中と膝の下に手を通して抱き上げて寝所へと運んだ。

 遅れてやって来た丸が景之亮に訊ねた。

「蓮様、旦那様にあれやこれやと食べていただきたいと、お料理を用意されていたのですよ。どうしましょうか?」

「うん……少し腹は減っているけど、蓮が用意してくれたものは蓮と一緒に食べたいなぁ。粥はあるか。お前たちの夕餉が残っていないか」

 景之亮は丸が持って来た使用人たちの夕餉の粥を食べて、旅の装いを解くと蓮の隣で寝たのだった。

 一生懸命の蓮は加減を知らないのだ。だから、自分の限界など考えずに思うままに突き進む。実に蓮らしいと景之亮は思った。

 久しぶりに見る寝顔は幼く、可愛らしい。景之亮が顔を近づけて覗き込んでも、深い眠りについている蓮に目覚める様子はない。

 蓮の髪を撫でて景之亮は隣に横たわり、同じ衾を掛けて寝たのだった。

 翌朝、人の動きですぐに目が覚める習性が着いている景之亮は、蓮が起き上がった時にすぐに気づいたということだった。

「日が暮れてから帰って来たんだ。だから、あなたの顔はよく見えてなかったから見せておくれよ」

 景之亮のお願いに蓮は景之亮の胸から顔を上げて、真っすぐに景之亮を見上げた。

「……私は変わったかしら?……景之亮様は……少しお痩せになったかしら?やはり、尾張というところまで行くのは大変だったの?向こうでの暮らしはどうだったの?」

 次々に蓮は心配していたことを尋ねて、景之亮の両頬に手を置いた。

 旅上では髭を剃ることもままならないようで、景之亮の頬は今までで一番剛い髭に覆われていた。蓮はその久しぶりの感触に内心愛しさを感じながら、その下の頬がこけたように見える景之亮を心配した。

「別れた時と同じ蓮だ。変わりなくてよかった」

 蓮は嬉しさに笑みを見せて、背中に手を回して景之亮の体に抱きついた。

「体も、少し細くなったよう。……たんと栄養のあるものを食べていただきたいわ。景之亮様が好きなものを用意するように話していたのよ」

「今日は、午後から宮廷に行けばいいのだ。それまで蓮に労ってもらおう」

「もちろんよ」

 蓮はぱっと景之亮の胸から顔を上げて笑顔を見せた。

「お召し物は?」

「脱いでそこらへんに散らかしているよ」

「曜!」

 大きな声を出すと、すぐに几帳の陰に曜がやって来た。

「お目覚めですか?」

「湯浴みと朝餉の用意を」

「はい。丸殿がすでに準備されています。用意ができたらすぐに」

 蓮は庇の間に用意させた盥を使って、景之亮の手や足、体を洗い、拭き終わると、景之亮のために用意した特別な食事を二人で食べた。

 丸は一途に景之亮を大切に思う蓮の気持ちを目の当たりにした。汚れた手足体をきれいに洗って拭いて、清潔な衣服を着せる姿。夜通し寝ずに待ったことで、待ちに待った景之亮がこの邸に帰って来た時には、疲れて眠ってしまったことは、その一生懸命な姿の現れだ。景之亮も愛しく思ったのだろう。優しく抱き上げて、一緒に褥に上がってそのまま添って眠ってしまった。

 丸は息子のように思っている景之亮にはよい妻が来てくれたと、心の底から喜んだのだった。

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