第一章3
今日は一族総出で実津瀬の舞を観に行くのだ。
礼と榧は車に乗って、蓮と芹は歩いて翔丘殿に向かった。多くの従者、侍女を従えているので、大きな集団になる。他の貴族たちも同じように車を使って来るので、行きしなにその集団が出会ってしまうと大変だ。どちらが道を譲るのかと、付き人達が険悪な雰囲気を醸し出し、車、牛、従者、侍女が入り乱れて、怒号が飛ぶこともある。
無用な争いを嫌う五条岩城の当主、実言は、訪れる者が集中する時間を避けるために早めに出発させた。しかし、同じようなことを考える者は他にもいて道が渋滞してします。岩城家は従者を先まで走らせて、別の通りから来る集団とぶつからないように差配をして、礼たちを立ち往生させないようにした。
翔丘殿の庭に舞の舞台が組み立てられ、観覧席となる大広間と庭を取り囲むように左右に建物が伸びている。その部屋の手前の長い廊下の左右の部屋には細かく間仕切りして見物人たちの一時的な控室になっていた。
早々に翔丘殿に着いた礼達一行は、廊下の左右の控室に通されることはなく、すぐに宮殿の中の一室に案内された。岩城一族は臣下の中では最上級なので、大広間近くの席を与えられており、すぐにその部屋へと入った。
暫くすると、本家当主の蔦高の次男にあたる鷹野が妻の房を伴って到着した。房は芹の妹である。二人は芹が実津瀬と一緒に暮らすために実家の須原邸を出てから初めての再会だったので、お互いの姿を見ると駆け寄って手を取り合った。
「姉さま、久しぶりね」
芹も嬉しそうに頷いて、二人は部屋の隅に座って話し始めた。
「やあ、実津瀬」
部屋から廊下に出た鷹野の声が聞こえた。
「鷹野、皆到着しているのかい?」
「うん、大体揃っているかな」
芹は実津瀬の声が聞こえて、その方へ顔を上げた。廊下から部屋の中に体を半分入れて中を見回している実津瀬の横顔が見えた。そして、実津瀬が部屋の隅に座ってこちらを見ている芹と目が合うと笑顔になって、部屋に中へ入り、芹の方へと歩いて来た。
実津瀬は顔に化粧を施し、後は上着を着るだけの舞の衣装姿で自分の舞を観に来た一族の様子を見に来たのだった。
「芹」
芹は呼ばれて、妹をそっちのけで立ち上がり実津瀬の傍に寄った。
「きれいだ」
実津瀬は芹の耳元に口を寄せて、芹にだけ聞こえるように言った。
突然の言葉に、芹は何を言われたのがすぐにはわからず、顔を上げた後にやっとその言葉を理解した。
嬉しいと思うとともに、恥ずかしくなってしまって芹は下を向いた。
「お母さまが衣装を用意してくださったみたい。澪が髪形や化粧をうまくしてくれたわ。……あなた、今日のこと黙っていて、酷いわ」
「ふふふ、悪かったね」
実津瀬は言った。
「あなたが身構えてしまうといけないと思ってね。内緒にしたよ」
「こんな美しい着物は初めて。化粧もしたことないから……私ではないみたい」
「いつもと違う芹も、私の好きな芹だよ。元は変わらない」
再び芹の耳元に囁いて、実津瀬は顔を上げた。
「準備は万端かい?」
実津瀬と芹の会話が終わったところを見計らって鷹野が話し掛けてきた。
「うん。私は、後は衣装を一枚着るだけだ」
「実津瀬の舞が見たいからと、邸の者たちが付き添いしたいと立候補して、誰を連れていくかを決めるのが大変だったらしいよ。実津瀬の舞は夏以来か……。皆、楽しみにしている」
「ふう、なんだか緊張してきたな。控えの間に戻るよ」
実津瀬は隣に立つ芹に向き直り言った。
「帰りは遅くなるけど、必ず帰るからね」
芹が頷くと、控えめに芹を抱き寄せてから宮殿の裏側に通じる簀子縁を歩いて行った。
「姉さま、実津瀬兄さまと仲がいいのね」
鷹野の隣に移動した房が言った。
「房、私たちの仲だっていいよ。実津瀬や芹に負けていないよ」
鷹野は房を抱き寄せて言った。
翔丘殿の庭では大王をはじめとして大后や王族たち、宴に選ばれた大勢の臣下たちは今が盛りと咲き誇っている梅の木を鑑賞し、それが終わると大王は少しばかり部屋で休憩される。その間に、日が暮れてからの舞と宴の準備を終える。
芹たちのいる部屋の中が騒がしくなったのは、梅の鑑賞を終えた岩城蔦高と実言が庭から広間の部屋の中に入って来たからだった。
陽が落ちるのに備えて、松明が用意される。舞台からは楽器の音が聞こえる。音楽隊が舞台の上や下に来て、準備を始めたのだと分かった。
芹は部屋の奥から御簾越しに見える炎を見つめた。こんな体験は初めてだ。岩城一族の男に縁づいていなければ経験できないことだろうと思った。隣に座っている房も同じことを思ったようで、お互いの目が合った。
義父の実言はこの宴の仕切り役を仰せつかっていて、準備に抜かりがないか確認するために部屋を出たり入ったりしている。
蓮の夫である鷹取景之亮がその大きな体を部屋の中に入れると、すぐに蓮が気付いた。蓮は妹の榧の手を取って、景之亮と共に部屋を出て行った。
舞台の上の太鼓が打ち鳴らされて大きな音がすると、庭に作られた舞台側の御簾が舎人の手で巻き上げられた。
部屋に戻って来た実言は、舞台の前まで行くと、振り返った。
「芹!こちらにおいで。実津瀬が舞うんだ、お前がそんなところにいてはいけないよ。しっかりと見ないと。房も初めてだろう。一緒においで」
遠慮して部屋の後ろに座っている芹と房に実言は言った。
義母の礼が手招きして、前に移動しろと言っている。芹と房は立ち上がって、人をかき分けて舞台の最前列へと座った。
「お父さま、私……」
芹は義父母の言うことに従ったが、それでよかったのかという気持ちだ。
本家当主蔦高の妻や娘の藍もいるのだから。
「皆、一度は実津瀬の舞を観たことがある者たちだからね。少々見えにくくても文句は言わないさ。それより、お前が見なかったとなると、私が実津瀬に怒られるよ」
芹は部屋から舞台を見た。
舞台正面は大王、大后、王族の席になっている。左右に連なる建物に位階を考慮しながら部屋が割り振られている。岩城一族は王族の次によい部屋を与えられており、舞台を横から見ることになるが、とても近い。
壁で仕切られた隣の部屋から蓮の声が聞こえた。
榧を連れて夫の景之亮と一緒に部屋を出て行ったが、隣の部屋に移動したのだった。
芹はこの時、なぜ蓮と景之亮が榧を連れて移動したのだろう、と思ったが笙の音の調べが聞こえて、舞台上に注目したら忘れた。
隣の部屋の最前列には榧と、そして榧と同じ歳の男子が座っていた。その後ろには、二人を見守るように蓮と景之亮が座っている。
この男子は実由羅王子という。
実言とゆかりのある王子の一人息子である。
実言と景之亮と一緒に王族の一員として庭の梅の鑑賞に参加していたのだった。
実由羅王子は榧に向かって言った。
「今日、あなたがここに来るなんて、実言から聞かされていなかったから、驚いたよ。嬉しい。会えると思っていなかったから」
そして、榧に微笑んだ。榧も王子の笑顔に笑顔で返事した。
蓮と景之亮も二人の様子に和み、お互い顔を見合わせて微笑んだ。
鉦と太鼓が打ち鳴らされた。隣同士で会話を楽しんでいた者、準備をしている者、皆が黙り手を止めて、舞台に注目した。
大王、大后は既に席に着かれ、舞を鑑賞する準備はできた。
鉦が連打されて、それに合わせて太鼓が要所でたたかれた。
それに合わせて、舞台下に準備していた舞手の二人の男が舞台上へと登ってきた。
この二人で舞う舞は、過去から何度もやっている演目で、一緒に舞うのは宮廷楽人の淡路である。淡路とは直近では昨年の夏の宴で舞っている。
実津瀬は夏以降体調がすぐれず、舞の練習ができていなかったが、この宴で舞うことが決まると前と同じ、いやそれ以上の舞が舞いたいと言って激しい練習をしてきた。それに淡路も一緒に精を出したのだ。
空はすった墨が水の中に溶け出し始めたように暗くなり始めている。
芹はそこへ、煌びやかな衣装を着けて現れた夫の姿に目を凝らした。同じ衣装を着て、同じ背格好の二人であるが、どちらが夫であるかすぐにわかった。
実津瀬!
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