聖人

 仕事帰りの谷汲は、スーパーへと足を運んでいた。

 今日は日和の誕生日だ。

 酒の瓶が並んだ棚の前をうろついて、うんうん唸っている。通り掛かった女性から不審な目を向けられても、谷汲は悩むのを止めなかった。なぜなら、これは日和が初めて飲むお酒を選ぶ大切な儀式だからだ。

「任せる、って言われたしなぁ……」

 どうせ飲むなら美味しい方がいい。

 しかも、日和が不機嫌にならない程度のお値段で。

 日和にもお酒の楽しいところを味わってもらいたいのだが、高ければ喜んでくれるわけでもないのがポイントだ。瓶に入ったリキュールの方が風味も良いけれど、缶酎ハイの方が馴染みのある分、ポイントも高い可能性がある。

「日和はどっちのが喜ぶかなぁ……」

 先輩から貰ったビール券と、棚に並んだ酒を見比べる。最終的に、谷汲はビール券を片付けた。代わりに手に取ったのは林檎のリキュールだ。透き通る琥珀色の液体が瓶に揺れている。

 やや度数は高いが、香りも味も爽やかで飲みやすいお酒だ。

 これが日和の口に合えばいいのだが、アルコールを飲んだことのない彼女には風味が強すぎるかもしれない。割って飲むためのサイダーも持って、谷汲はレジへと向かった。買い物かごを晩御飯の材料でいっぱいにしたお客さん達と同じ列に並び、自分の番が来るのを待つ。会計を終えて、谷汲はアパートへの帰路に就いた。

 日が暮れるまでの時間が、ゆっくりと伸びていく。昨日までは暗かった帰り道にまだ夕焼けの色が残っているのを見て、谷汲は季節の移ろいを感じた。

 いつもの道を通って、住み慣れたアパートへと戻る。日和は、リビングでごろりと寝転がっていた。退屈を持て余した彼女の、世界に対する抵抗のポーズである。微笑ましくて、谷汲は仕事の疲れが吹き飛んだような気がした。

「ただいまー」

「おかえり。あ、買ってきたんだ」

「私、約束は守る女だから」

 毛布にくるまっていた日和が玄関へと駆けてくる。谷汲の持っていたスーパーのレジ袋を覗き込むと、その表情をほころばせた。お酒は身体に悪いと文句を言う日和だけれど、それは谷汲が調子に乗って飲みすぎるからだ。せっかく二十歳の誕生日を迎えたならアルコールも嗜んでみたいし、幼馴染が何を楽しんでいるのか知っておきたいと願うのも人情だろう。

 日和が、レジ袋から取り出したお酒を興味津々に眺めている。谷汲は、どかっとテーブルの前に腰掛けた。買ってきたばかりのプレゼントをテーブルに置いて、日和を近くに抱き寄せる。朝も伝えたけれど、改めて伝えておこう。やや気恥ずかしい気持ちをこらえつつ、谷汲は幼馴染の耳元へ唇を寄せた。

「日和、お誕生日おめでとう」

「ありがとー。えへへ、これで二十歳ですなー」

「あんなに小さかった日和が……早いねぇ……」

「いや同い年だから。親戚のおばちゃんかよー」

「せめてお姉さんって言ってよ」

「ごめん、ごめん。にへへ」

 笑った日和が晩御飯の準備のために立ち上がる。

 修行の身の谷汲は、彼女の後に続いて台所へと向かった。

 今日の晩御飯は、日和が腕によりをかけて作ったビーフシチューとサラダだ。デザートには近所の洋菓子店で買ってきたケーキが用意されている。普段よりも豪勢な食卓に胸を高鳴らせた谷汲だったが、自分が手伝えることが何も残っていないと気付いて肩を落とした。下手でも、下手なりに料理の楽しみが生まれつつあるようだ。配膳係となった谷汲に、日和が気を利かせて声を掛けた。

「今度のお休み、一緒にカレー作ろ!」

「えぇー。シチューとカレーでタブるじゃん……」

「ありゃ、作れれば何でもいいわけじゃないのか」

「それはそう。美味しく、楽しく食べたいし」

 配膳の完了したテーブルを前に、ふたりは立ったままでいる。

 互いに、相手が先に座るのを待っているようだ。日和がどうぞと手で合図したのを、谷汲が押し込むようにして座らせた。本日の主賓は日和である。彼女がめいっぱい楽しめるように、谷汲なりに気合を入れているようだ。

 アルコール初心者の日和にも飲みやすいよう、買ってきた林檎のリキュールをサイダーで割った。グラスの中で、琥珀色の液体が薄く儚い輝きを放っている。すんすんと匂いを嗅いだ日和は、ほへー、と頬を緩めた。

「いい匂いだねぇ」

「……それでは乾杯を」

「おっ、そうだね。んじゃグラスを持って……」

 日和の音頭に合わせて、ふたりで乾杯をした。

 ぐっとグラスを傾けた谷汲は、すきっ腹に酒を入れてはいけない、と初歩的なことを思いだした。果たして日和は大丈夫だろうかと正面に座る幼馴染に視線を向ける。彼女は猫が味見をするかのようにチロチロと飲んでいるところだった。

「……それ、味分かるの?」

「ん? んー、独特なリンゴジュースだね」

「……もっとグッと行かなきゃ」

 酒を飲むときは勢いが大事だ。谷汲の言葉を聞いた日和は、覚悟を決めてグラスを傾ける。喉の奥がカッと熱くなる感覚に驚いたのか、日和は目を白黒させた。

 慌てて水を口に含んだ日和の喉が、ごくり、と音を鳴らす。それから日和はほうっと息を吐いた。

「どう?」

「意外と美味しいね。でも、毎日は飲まないかなぁ」

「えー……なんで?」

「なっちゃんみたく、飲みすぎるの怖いから」

 にしし、と笑った日和がもう一度グラスに口を付ける。

 どうやら、酒の美味しさは分かってくれたようだ。ほっとした谷汲は、自分のペースで林檎のリキュールを飲み始めた。

 晩御飯を食べ進め、ケーキも食べる。普段よりも量が多いせいか、晩御飯を食べ終えるまでに時間がかかってしまった。その間、日和は2杯と半分のお酒を飲んだ。量としては少ない方だ。高めのアルコール度数も、谷汲が調整したことで市販の缶酎ハイと変わらない程度に薄まっている。それでも日和にふわふわとした酔いが回っているのは、彼女がアルコールに弱いせいだろうか。それとも初めての飲酒で、過剰に緊張しているだけだろうか。

 お腹いっぱいになった日和は、満足そうにお腹を擦っている。

「ぷふーっ。洗い物しなくちゃ」

「日和は休んでなよ」

「いいの。働きまーす」

「駄目だって。ほら、立っただけでふらついた」

 食器を流し台に運んだ谷汲と入れ替わりに、日和が台所へ向かおうとする。

 ぐいと手をひいて、谷汲は日和を自分の膝へと乗せた。驚いた顔の日和が、ぷくっと頬を膨らませる。その顔を両手で挟んで、谷汲は幼馴染の顔をじっと見つめた。お酒が大好きな谷汲だからこそ、酒を飲んだあとも無理に頑張ろうとする日和を放ってはおけないようだった。

「もうちょっと休憩すること」

「えー。ビーフシチューのお皿、お水に浸した?」

「うん。この前、教えてもらったから」

「それじゃ、えっとね、」

 あれやこれやと日和が洗い物の下準備について注文を付ける。

 しかし谷汲は、それをすべてこなしていた。文句のつけようもなくなってしまった日和は、その表情に影を浮かべた。幼馴染に甘えるように、その肩へと頭を寄せる。呟いた声は、確かに谷汲の耳へと届いた。

「なっちゃんが家事出来るようになったら、私はいらないね」

「……そんなことない。私には日和が必要」

「本当に? ぜーんぶの家事を覚えても、同じことが言える?」

「うん。だって、日和は……」

 何かを言い掛けた谷汲が、ぐっと言葉を飲み込む。

 日和を抱きしめる腕に力を込めた。それが答えだと示されて、安堵で日和の瞼が落ちていく。ほろ酔いの気分と、幼馴染の腕に抱かれる安心感に、日和は浅い眠りに落ちていく。お酒は飲みすぎないようにしようと、暗くなっていく視界に耐えながら日和は記憶の片隅に書きつけるのだった。

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