ふたりの日常
寝惚け
休みの日はのんびりしたい。
そんな日に限って、目覚まし時計が鳴ってしまう。マーフィーの法則というやつだ。スマホのアラームを止めて、気合と根性だけで上半身を起こした。少し頭痛のする頭で谷汲は考えてみる。
何か用事、あったっけ。
「……思い出せん」
忘れたのか、元々用事なんてなかったのか。
考えても、濃い霧の中を進むように手応えはなかった。
ともかく、谷汲は目が覚めてしまった。カーテンの向こう側はまだ暗く、ぼんやりとした光が浮かぶのみだ。スマホを手に取って時刻を確認すると、朝六時だった。休日にしては早い目覚めである。二度寝しても良かったが、谷汲は顔を洗うために部屋を出た。
仕事は段取りが八割という。休養もスタートダッシュで良し悪しが決まるのだろう。
「ふぁ……ん……んっぐ」
欠伸を噛み殺して洗面所へ向かう。
冷たい水を浴びるように顔を洗うと、少しずつ意識がはっきりしてきた。寒すぎて肩が震えてくる。タオルで拭いた後、鏡を見た。髪が伸びてきたようだ。そろそろ日和に切ってもらおう、と前髪に触れる。
「……右側が長いな」
やはり素人だ。と幼馴染のカッティングに文句をつける。
谷汲は美容院に行くのが億劫だった。知らない人と喋らなければいけないし、予約を取るのも面倒だし。他人ほど煩わしいものもない、と谷汲はいつもの結論で締めくくることにした。だったら、気心の知れた幼馴染に切ってもらう方が楽だった。浮いたお金でおやつを買って、楽しい時間を過ごした方がよいに決まっているのだ。
「よし」
今度にしよう、と谷汲は伸びた髪を放置することに決めた。放っておいても、日和の方から髪を切るぞと言ってくれることだろう。
部屋に戻って着替えを済ませる。
そして、もう一度布団に潜り込むことにした。
谷汲とて、人肌恋しくなる時はある。そんなとき、ちょうどいい具合に布団で眠りこけている幼馴染がいるのだ。お互いに抱き枕代わりにしているのだし、責められることもないだろう。健やかな寝顔を浮かべている幼馴染に近付いて、谷汲は声を掛ける。
「おーい、日和」
「……すぅ」
返事はない。安らかな寝息が聞こえるだけだ。
「ぴよちゃーん。……紀保?」
呼び名を変えつつ、日和の様子を窺う。完全に眠っているようだ。ふぅ、と息を吐いて谷汲は布団へと潜り込んだ。寒い部屋の空気に晒されていた彼女にとっては、幼馴染の体温で温められたベッドは極楽に等しい。ぬくもりを求めて、日和へと身を寄せる。すると、彼女の腕が谷汲へと回ってきた。寝惚けたまま抱き着かれたらしい。弱々しい抱擁ながらも、谷汲はその拘束を解けなかった。
眼前には幼馴染の童顔がある。ぷっくりと膨れた彼女の唇に、谷汲の視線は吸い寄せられていた。柔らかそうだ。
キス、したら怒られるだろうか。
「…………いやいやいや」
流石に自嘲した。
自重するまでもない。あまりにも愚かな考えだ。
日和と谷汲はただの幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない。仮にも恋人同士ならばまだしも、そうでないのだから許されるわけがない。でも、谷汲は日和の瞼が微かに動いたのを見逃さなかった。じっとりと日和に近付いていく。わざと鼻を鳴らして、日和の反応を窺う。
まだ、起きる気配はない。
日和の胸元に抱き着いて、鎖骨へ、首元へと少しずつ距離を詰めていく。あと数センチで唇が触れあう距離まで近づいたとき、日和がベッドから身体を起こした。突き飛ばされた谷汲がベッドの下へと転がったが、その顔には薄く笑みが浮かんでいる。無表情な彼女にとっては、満面の笑みとでも呼ぶべきものだった。
日和の頬は赤く上気して、鼻は興奮に膨らんでいる。
ベッドへと戻った谷汲が、楽し気に朝の挨拶をした。
「おはよ、日和」
「…………悪趣味」
「どっちの話よ」
余裕綽々に受け答えする谷汲と違って、日和は落ち着かない様子だった。
罠にはめるつもりが、却って揶揄われてしまったようだ。
頬をぷくっと膨らませた日和が、ベッドから逃げようとして躓く。咄嗟に腕で支えた谷汲が、そのまま彼女を膝の上に乗せた。猫を可愛がるように、背の低い幼馴染の頭頂部へと頬を寄せる。大型犬に懐かれた小学生みたいに、日和は身動きが取れないようだった。ぐしぐしと頬を摺り寄せた谷汲は、満足したとばかりに日和を解放する。日和は恨めしげに谷汲を見つめた。
「……なっちゃん」
「いやぁ、私は」
「意地悪。悪趣味。セクハラ魔」
散々に罵倒されて、谷汲は思わず笑ってしまった。そんな風に言われても、嫌だと思わないから不思議だ。やりすぎたかも、と反省はする。だが、日和だって谷汲が寝ているベッドへと潜り込んでくることが多々あるのだ。今更、鼻先が近づいた程度で怒られても一笑に付すことしか出来なかった。
「ね。どこから起きてたの?」
「ばーーーか」
「うわ、小学生かよ」
「なっちゃんのアホ」
「ごめんて。許してよ……あれ? ちょっと、日和?」
からかいすぎてしまったようだ。
拗ねた日和は、着替えを持って風呂場へと消えて行ってしまった。ちょっと遊ぶだけのつもりが、日和を怒らせてしまったらしい。もし風呂場から日和が戻ってこなかったら、休日は何をして過ごせばいいのだろう。趣味がない谷汲にとって、休みの日はちょっとした試練だった。日和がいなければ、映画も外食も楽しくはない。流行りの音楽も馬耳東風に聞き流し、超有名な映画もオープニングを眺めただけで飽きてしまう。美味しいものを食べても栄養価があるな、としか感想を抱けないし、酒だって酔っぱらう前に飲むのをやめてしまう。
谷汲にとって、日和がいない休日など考えられないのだ。
「……紀保、ごめん」
風呂場まで向かって、谷汲はしおしおの声を振り絞った。
浴室からはシャワーの音だけが聞こえる。返事は来ない。谷汲は意を決したように服を脱ぎ捨てた。そして、幼馴染の許可を取ることもなく浴室へと突撃する。髪を洗い終えたばかりの日和は、驚いたように胸元を隠した。
「な、何事?」
「背中流してあげるから、許して……」
「や、許すもなにも、そこまで怒っては……」
言い掛けて、日和はきりっとした表情に作り替える。
そして、谷汲の頭をぺちりと叩いた。仔猫が甘噛みするような、ちょっと張り切った一撃だ。ぷにゃぁ、と情けない声をあげて谷汲が日和にくっついた。
「いいこと、なっちゃん」
「はい」
「セクハラはダメだかんね」
「心得ました」
「……ならよろしい。背中洗って」
「仰せのままに」
コントでもするように軽快な受け答えをして、ふたりはすぐにいつもの距離感に戻った。裸の付き合いをしても、そこに湿った感情が入り込むことはない。互いに自重して、距離を測り合っているからこその安定した関係だ。だからこそ、ふたりは勘付いている。もしも私が、彼女に近付いたなら。もしも彼女が、私から距離を取ったなら。果たして私達の関係は、どんな変化をするのだろうか?
「なっちゃん、今度は私が洗ってあげる」
「痛くしないでね」
「タオルで擦るだけじゃん」
「いや、日和は気合を入れてやるからさ……」
「むっ。それじゃ、今日は緩めで行きます」
考えるほどに恐ろしい現実から目を背けるように、ふたりは互いの背中を流しあう。すっかりお酒の抜けた谷汲がクルマで出掛けることを提案して、日和がそれを了承した。
ふたりの、いつも通りの休日が始まるのだった。
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