寿司

 せっかくの休日も、やることがなければ退屈だ。

 退屈は人生の敵である。持て余した時間は思考を不満で埋め潰し、空虚な気分へと陥れる。無為な時間を浪費するくらいならば、いっそ仕事に没頭していた方がマシかもしれない。そんなことを考える程度には、谷汲は楽しい時間を欲している。

 まぁ、谷汲には日和という心強い味方がいる。これからも、これまでも、谷汲の人生は日和がいる限り楽しい時間が続くのである。

「ねぇ、準備出来た?」

「あー、待った。……よし」

 靴を履き終えた谷汲が玄関を出ると同時に、日和が部屋の鍵を閉めた。

 寝起きに少しばかりの喧嘩をした谷汲と日和だったが、すっかりと機嫌を取り戻している。ふたりにとっては、あの程度の喧嘩など数えるほどのものでもない。生まれたばかりの仔猫が、姉妹でじゃれるようなものである。着替えを済ませ、お出掛けの準備を済ませた日和が元気よく指差し呼称をしている。

「財布よし、携帯よし、戸締りよーし」

「大丈夫そうだね、日和」

「うん。今日は元気。倒れたりしないよ!」

「……それじゃ、ご飯食べに行こうか」

「どこ行くかはなっちゃんに任せるね」

「うーむ。それは難しい」

 家の鍵を握った日和が、スキップでアパートの駐車場へと向かっていく。階段のフチを器用に踏んで、妖精が躍るような足取りだった。その後ろから、腕を組んだままの谷汲がゆっくりと階段を降りていく。お昼ご飯に何を食べるか悩むのも、随分と贅沢な時間だった。

 ふたりで出掛けるのは一か月ぶりくらいだろうか。日和が外出を好まないから、かなり久しぶりだった。谷汲も積極的に外へ出る方ではないけれど、それでも、こうして一緒に出かけるのは楽しかった。

「こけるなよ、日和」

「もう。小学生じゃないんだから」

「……はしゃぎすぎじゃない?」

「だって楽しみだもーん」

 アパートを出て、駐車場へ向かう。先にクルマへ乗り込んだ谷汲がエンジンを掛けた。助手席へと乗り込んでくる日和はパーカーにジーンズといったラフな格好をしている。頭にはキャップも被って、どこか中性的だ。ボーイッシュな、と説明した方が分かりやすいかもしれない。可愛さに加えて少年特有の格好良さもあって、谷汲はしばし日和に見惚れてしまった。普段からこんな格好をしてくれればいいのだけど、家での日和は可愛いに基調を置いている。

 もっと積極的に連れ出そう。と谷汲は心に誓うのだった。

「回転ずしに行こうか」

「うむ。なっちゃんに任せるぞい」

 風呂上りのシャンプーの香りを漂わせて、日和は上機嫌に答えてくれた。

 目的地を決めて、谷汲は車を発進させる。ふたりが向かったのは、国道沿いにある回転寿司チェーンだ。真っ白な看板に、ぶっとい筆文字で店名が書かれている。開店直後に駐車場へ滑り込んだはずが、既に十台近いクルマが停まっていた。

 谷汲は、自分の腕を掴む日和を連れて入店した。案内係はおらず、タッチパネルで入店案内が完結している店だ。テーブル席かカウンター席か、どちらにしようかと日和に視線を送る。日和は迷うことなくテーブル席を選んだ。

「やっぱり、知らない人が隣だと嫌?」

「……知ってるくせに」

「ごめん。拗ねないでね」

「ふんっ、だ」

 日和が頬を膨らませて見せる。これはジョークで素振りを見せただけだ。なぜなら、可愛いだけだから。谷汲はそんな理由で、幼馴染の嘘を見破って安堵した。

 表示された案内に従って、指定のテーブル席へと向かう。回転寿司なのに、すべての皿が注文制という変わった店舗だった。女性に人気との評判通りに、谷汲はこの店を気に入っている。社会人になって初めて”あじ”を食べたのもこの店だったし、以来、旬の食材が更新されるたびに訪れている。がっしりと味のある寿司ネタが彼女のお気に入りだった。

 席に着くなり、谷汲は慣れた手つきで御手拭きを手に取る。指の間まで、入念に綺麗にした。

「日和は久しぶりだっけ、回転寿司に来るの」

「なっちゃんが勝手に出掛けるからね」

「もー……今日はマジで意地悪だな」

「ふふん。仕返しだぜい」

 刺々しい日和のジョークに、谷汲が辛うじて受け答えを返す。どうやら、本気で怒っているわけではないらしいことは谷汲も察している。ただ、日和が冗談を言うときは大抵本音を隠すときなので、油断はできなかった。

 いつもは自分で用意するお茶も、日和が世話を焼いてくれる。存分に甘えながら、谷汲はタッチパネルを操作した。あじとサーモン、それから旬の一皿を注文して日和へとタッチパネルを渡す。久しぶりの回転寿司に、日和のテンションも上がっているようだった。

「どれにしよっかなぁ」

「日和、そんなに生魚好きじゃないよね」

「でも、お寿司だと食べれそうな気分になるし」

「最悪、食べられなくても私がいるしね」

「ん。そーいうこと」

 何にしようかなぁ、と日和はタッチパネルを右へ左へとスクロールしている。小学生の姪っ子がいれば、彼女みたいな反応を示すんだろうなぁと谷汲は朧気ながら感じる。が、言葉にはしないように心掛けた。日和は意外と、自分が童顔なことにコンプレックスを抱いているタイプだ。可愛いと手放しに褒めても、それが幼い風貌に起因していると考えると素直には喜んでくれないのである。

 日和が選んだ一皿は、マグロの炙り焼き。かなり渋い注文にも思えるが、日和が生モノが苦手なだけである。ただ、お寿司そのものは好きなのだ。そこの匙加減が難しく、彼女の要望に応えてくれるのはこの店くらいだった。

「おっ。来た」

「それ、あじ?」

「うん。おっきくて脂が乗ってて、サイコーなんだよ」

「ふーん。そうなんだ」

 日和が素っ気ない視線を向ける先には、谷汲が注文したあじの握りが届いていた。

 大振りのあじの切り身は、まるで小判のような形をしている。艶やかに脂の乗った丸ごと一尾、それがシャリの上に乗っているのだ。これが僅か百円で食べられる。流石に看板商品だ、お値打ち過ぎて詐欺じゃないかと不安になってくる始末である。箸でつまみあげると、大振りのあじの身がシャリから零れ落ちそうになった。慌てて頬張ると、青魚の健やかな甘みが口いっぱいに広がる。

 最高の一言だった。

 思わず、谷汲は感動に打ち震えてしまう。

「やぁーーーー。酒が欲しい!」

「飲んだら通報するからね」

「厳しすぎる。歩いて帰ればいいじゃん」

「…………」

「冗談です。冗談だからね、ぴよちゃん」

 無言の圧力に屈しながら、谷汲はあじに舌鼓を打った。

 美味しい食事は、幸せな気持ちにしてくれる。それは、どんな料理であれ変わらない。谷汲は、日和と一緒に食事をするときが一番幸せだった。

 谷汲が注文した寿司を平らげている間に、日和が頼んだマグロの炙り焼きも届いた。上品に焼き上げたマグロが、香ばしい香りを漂わせている。季節限定のメニューらしく、谷汲はまだ味わったことがない一皿だった。静々と握り寿司を口へ運ぶ日和を、谷汲はじっと見つめる。果たして、この寿司は日和の口に合ったのだろうか。微かに走った緊張を蹴っ飛ばすように、日和が満面の笑みを浮かべる。美味しかったようだ。

 良かった、と谷汲は安堵する。

 安心感が胃袋のブレーキを壊してしまったらしく、谷汲は食べたいと思ったものを片っ端から注文した。そのどれもが美味しくて、あっという間に時間が経ってしまう。ふたりで食べると、回転寿司は本当に楽しい。

 あれやこれやと言い合いながら、それぞれに違うものを食べるのは、家では出来ない楽しみ方だった。

 会計を済ませて店を出ても、まだ午前だった。あと十五分しかないけれど。

 まだ、休日は終わらない。背伸びをして、大きく深呼吸をしている日和の脇腹をつつく。幾分か普段よりも柔らかかったような気がするけれど、それよりも谷汲には楽しみにしていることがある。ご飯を食べたら、晩御飯の買い出しだ。そして、買い出しに行くからには。

「お酒、買いに行こ!」

「……はぁーーーーーーーーー」

 肺の空気を吐き出しきるほど、日和は深い溜息を吐く。

 そして、観念したように笑った。

「しょうがないから、許してあげよう」

「やった。実は、飲んでみたいお酒があってね」

 珍しく饒舌に喋り始める谷汲の隣、助手席へと日和が乗り込む。

 まだ酒を飲んでいない谷汲が運転するクルマは、近くのスーパーへと吸い込まれていった。まだ、ふたりの休日は終わらない。まだまだ、楽しい時間は続くのである。

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