仕事②
午後の作業は、いつもよりスムーズに進んだ。
谷汲はパソコンに向かって帳票を作成し、先輩は書類のファイリングとスケジュールの調整をする。お互いの作業に集中していて、声を掛け合うことはない。
作業場には事務室の外から響く機械の稼働音と、キーボードの音だけが響いている。定時ぴったりに片付けが終わるよう、谷汲はギリギリまで作業をした。テキトーに仕事を終わらせて、終業前の時間を休憩所でサボって過ごす人もいる中で、谷汲はとても仕事に熱心な姿勢を見せている。それこそが、事務員でありながらも現場の主任たちから頼られる要因になっていた。
先に仕事を終え、デスクの周りを掃除していた先輩が苦笑している。
「名草ちゃんは真面目だねぇ」
「給料分は働きますので」
「ふははっ。うん、いい心構えだよ」
褒められた。谷汲は少し照れくさくなる。
先輩の片付けが終わったタイミングで、定時を知らせる鐘が鳴った。谷汲もようやく手を止めて、背筋を伸ばす。身体がバキボキッと鳴った。
「現場の人、まだ仕事あるんですよねぇ」
「私達は事務だし。今月は残業ないはずだよ」
「まぁ、後は課長さんからの依頼次第か……」
「そうだね。仕事が増えないように、お祈りしとこうか」
先輩とふたりで、事務室の隅に飾られた神社のお札を拝んだ。
直勤務で稼働しているこの工場では、定時になっても止められない設備が多い。その煽りを受けやすいのは請負会社の社員さん達だった。谷汲が管理している出退勤記録も、あまり見たくない感じの数字が並んでいる。社会が、もっと早く良くなって欲しいと彼女は切に願うのだった。
ぞろぞろと事務室に戻ってきた作業員のおじさん達がタイムカードを押して帰っていく。ほとんどが派遣さんだ。お疲れさまでした、と谷汲が掛ける声も無視して帰っていってしまう。挨拶を返してくれたのはひとりだけだった。確か、来月から契約社員になる人だ。
みんな、余裕がないのかもしれない。
「おっと。待って、名草ちゃん」
帰り支度を始めた谷汲を、先輩が呼び止めた。何事かと顔を向けると、彼女は自分の鞄を漁って白い封筒を取り出した。差し出されるままに受け取って中身を確認すると、ビール共通券が複数枚入っている。お酒が大好きな谷汲は、この日初めて目を輝かせた。表情に乏しい彼女でも喜んでいると分かりやすい顔だ。先輩は安堵したように頬を緩める。
「それ、あげるね」
「ありがとうございます!」
「ホント、名草ちゃんはお酒が好きだねぇ」
「へへっ。……あの、一応聞きますけど」
「旦那が貰った奴だから。色々送られてくるのよ、ウチ」
ようやく処分出来た、と胸を撫でおろした先輩に谷汲は何度も頭を下げる。彼女の飲兵衛生活は、この先輩からの差し入れがあってこそ成り立つと言ってもいい。先輩も家での谷汲の自堕落っぷりを知らないから、ただお酒が好きな後輩が喜んでいる、という程度にしか思っていないようだった。ウィンウィンの関係だ。ただし、互いに晒していない秘密があるだけで。
タイムカードを押して、ふたりは事務室を出る。連れ立って、更衣室を兼ねたロッカールームへ向かった。
現場の作業者と違って、事務員が制服に着替えるメリットは少ない。週に一度、帳票の補充で工場内を歩く際や、
カードキーを通してロッカールームへ入室して、自分の荷物が置いてあるロッカーへと向かう。偶然の産物によって、ふたりの個人ロッカーは近い場所にあった。
「そういえば、先輩はお酒飲まないんですか?」
「飲むわよ、普通に」
「へー。でもビール券くれるんですね」
そんなにお金持ちなのか、と谷汲は先輩を羨ましく思った。
先輩は脱いだ制服をハンガーにかけて、ロッカーの中で吊るしている。人によってはそのまま突っ込んでいるけれど、彼女は制服がシワシワになってしまうのを快く思っていないらしい。谷汲も彼女にならって、家から持ってきたハンガーに制服を吊るした。そして、急いで私服を纏う。服を着替えるこの僅かな時間でも、冷たい空気に晒されると肌がピリつく。ロッカールームにも暖房が付けばいいのに、と思った。
先輩は寒さも平気らしく、制服をすべて脱いでから私服を取り出す派だった。
「私の旦那、放っておくとずっと酒を飲んでいるのよ」
「羨ましい……。じゃなくて」
うっかり漏れた本音を隠すように、谷汲は首を横に振る。
「大丈夫なんですか? 色々と」
「そっちの方が仕事に精が出るんだって」
「うえっ。飲みながら働いているんですか」
「らしいわよ。ほんと、自由人なのよねぇ……」
肌着だけになった先輩が、遠い目をしている。どうやら彼女は、旦那さんのことを考えているらしい。サバサバしている先輩が一番優しい顔になるのが、こうして旦那さんのことを考えているときだと谷汲は知っている。
素直に、羨ましいなぁと思った。他人を正直に愛することが出来るのは、とても素敵なことだから。性格が良くてスタイルも抜群な先輩は、その内面からして谷汲には眩しい存在だった。
「いいですねぇ……」
「……えっ、なに?」
谷汲の視線を勘違いしたのか、先輩は胸元を覆った。
面白くて、訂正することもなく先輩の話に乗っかる。
「いやぁ。綺麗な人だなぁと思って」
「悪いけど、私は旦那以外とはしない主義なの」
「私が、女の子だからですか?」
「関係ないわ。私、綺麗な子は好きだもの」
それでも、浮気は絶対にしない。そう言い切った先輩は、やっぱり旦那さんのことが好きらしい。だからこそ、谷汲も安心して冗談を飛ばせるのだった。
着替えを終えた後、ふたりで駐車場まで向かう。クルマを止めていた場所は離れていたようで、適当なところで挨拶をして別れた。谷汲は駐車場の端、中古で買った軽自動車の元へと足早に向かう。
クルマに乗り込んだ谷汲は、まずエンジンを掛けた。ハンドルを握る前に、両手を擦って温める。冷えた指先がじんわりと温もりに包まれていく感覚が心地良かった。車内暖房のスイッチも入れて、木陰で冷えていた車内が少しでも温まればいいな、と帰り支度を進める。
シートベルトを付けようと身体を捻ったら、助手席に置いた携帯が震えているのに気付いた。
日和からの着信だ。
「……もしもーし」
『あ、なっちゃん』
「どうしたの、日和」
『あのね、今日、帰り遅い?』
「遅くないけど、どうして?」
電話の向こうは無言だった。
それでも、長い付き合いのある友人である。日和が何を考えているのか、谷汲には言わずとも伝わっていた。一人でいることに耐えられなくなったのだろう。
「もうすぐ帰るよ」
『分かった。待ってるね』
日和の返答を聞き届けて、谷汲は自分から通話を切った。同じタイミングで退勤した人達と事故だけは起こさないように、やや慎重に会社の駐車場を出る。今日は寄り道もせずにアパートへと帰った。
谷汲が住むアパートは駅から微妙に遠く、築年数も古い建物だった。外壁は十数年塗り直してないし、経年劣化を感じる場所が随所にあった。その絶妙に冴えない感じが、近くに出来た新造のアパート群と比較するとみすぼらしく思われるのかもしれない。谷汲が住み始めてから二年経つが、空き部屋が出るほど人気のない物件だった。
住めば都だし、家賃も安いし。そもそも荷物の少ない生活をしている谷汲は、広い部屋が必要だとも思っていないようだった。
階段を登ってすぐ、日和が待つ家へと戻る。
「ただいまー」
帰宅の挨拶をした谷汲に、返答は戻ってこない。でも、日和の靴は玄関に並んでいる。何処かへ出掛けているわけでもないようだ。
玄関からすぐの台所には準備を済ませた晩御飯の材料が並んでいる。谷汲が食べたいと言っていたのをちゃんと覚えていてくれたのか、天ぷらも買ってきてあった。仕事に持っていくリュックを下駄箱の上に乗せて、手を洗いに行く。タオルでごしごしと手を拭きながら日和が待つ部屋へと向かった。
玄関から部屋を隠すように閉められていた扉を開くと、まず視界に飛び込んできたのはこんもりと膨らんだベッドである。
「そこにいるんだな」
どうやら、日和は毛布にくるまっているらしい。眠っている、わけじゃないみたいだ。布団はもぞもぞと動いていた。
「ただいま、日和」
谷汲が声を掛けると、布団から呻き声のようなものが聞こえた。
一応、返事をする元気はあるようだ。
「お腹空いた。晩御飯作って」
「…………」
「おーい。ひよ……紀保ちゃん?」
全然、布団から出てくる気配がなかった。谷汲は日和がくるまっている毛布へと手を突っ込む。こういう時は、無理やりにでも引っ張り出さなくてはいけないのだ。
暖房は切られているけれど、日和がずっと居たことで部屋はほんのりと温まっている。二酸化炭素の量が多くなっているのかも、と谷汲は少ない科学的な知識を動員してみた。日和の手を握ろうと、谷汲は手探りを続ける。ふにっとした感触に一瞬手が止まって、怒られる前に別の場所へと手をどけた。やがて指先に温かいものが触れる。掴んでみるとそれは日和の手だったようで、そのまま引っ張ったら彼女は布団から起き上がった。
寝癖のついた日和の頭に、ぽん、と手を乗せる。
「おはよう、日和」
「…………はよ」
歯切れが悪いものの、ちゃんと返事をしてくれた。電話で声を聞いたときは不安だったが、今日はいつもに比べて元気そうだ。
肌寒いのか、それとも他の理由か、日和は胸元を隠すように腕を抱いていた。彼女の横に腰掛けた谷汲は、そのまま甘えるようにして日和を抱きしめる。僅かに抵抗した後、日和は谷汲へと全体重をかけてきた。ただの友人とは言い難い距離感だが、ふたりは付き合っているわけじゃない。それを、谷汲は内心で反芻していた。
やがて、日和がぽつりと呟く。
「……なっちゃん、おかえり」
「ん。ただいま」
「ご飯、もう食べる?」
「日和が作ってくれるならね」
慌てなくてもいいよと続けたかったが、谷汲の腹の虫が主張するのも早かった。むぅ、と頬を膨らませた谷汲とは対照的に、日和が笑顔を取り戻す。台所へと向かった日和に続いて、谷汲もベッドを立った。と言っても、谷汲は料理が出来ない。日和が料理するのを後ろで応援する係だ。今日はせっかく定時で上がれたし、と思って日和に背後から抱き着く。仕事の疲れを癒していたら、手のひらを抓られてしまった。
「痛いんですが」
「邪魔なんですけど」
「……けち」
「だぁー、もう、拗ねないの。はい、ぎゅー」
料理を始める前に、日和が谷汲をハグしてくれた。谷汲もそれに応えて、日和を抱きしめる。どちらがどちらに甘えているのか分からなくなる、不思議な時間だ。文句を言っていた日和も、谷汲が満足するまで離したりしない。谷汲だって、私がいなくて寂しかったくせに、なんて言わないのだ。お互いに分かっているからこそ、無言で抱きしめあった。
やがて、谷汲の方から腕を解いて部屋に戻る。
特に興味もないけれど、テレビの電源を入れる。ニュースでは、明日の天気予報をやっていた。することもなくなって、谷汲は部屋の隅に置いてある日本酒へと手を伸ばした。有名なものではないが、市内の酒屋で売っていた地酒である。和食なら缶酎ハイよりもこっちの方が合うだろう。抜き足差し足で台所へ行き、そっとコップを持って帰ってくる。当然、日和が気付いていないはずもない。度数も高いから一杯だけで……いや、二杯までで我慢しよう。
コップに鼻を近づける。爽やかな香りがした。
「いい匂いだ」
「それ、お酒の話? おうどんの話?」
「……どっちもだよ」
誤魔化すように告げて、谷汲は日本酒へ口を付けた。キリっとした、口当たりの良い酒だ。幼馴染が料理する姿をぼんやりと眺めていたら、すぐに晩御飯が運ばれてくる。
晩御飯は天ぷらうどんだった。
日和が買ってきた天ぷらは海老が二本と野菜のかきあげが少し。揚げたてを買ってきて上手に保管していたのか、衣はさくっとしていた。醤油や出汁を上手いこと組み合わせて作ったつゆも、谷汲の好みに合わせてある。
「日和、家事の天才だねぇ」
「なっちゃんが出来ない分、頑張るしかないもん」
「うん。よろしくね」
「…………はいはい」
何かを言い淀んだ日和を追求しない。彼女の問題は、彼女自身が一番よく分かっているはずだから。
うどんを食べ終えた後、口に残った塩味を流すように日本酒を口に含む。華やいだ香りが鼻腔を抜けていく。今日も無事に一日が終わりそうなことを谷汲はありがたく思うのだった。
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