おやつ
休日の朝、谷汲はいつもより早く目が覚めた。
カーテン越しに差し込んでくる光を感じながら、ゆっくりと体を起こす。ベッドの上で伸びをして、欠伸をひとつ。それから、隣にいるはずの日和を探して手を伸ばした。しかし、そこには誰もいない。ベッドに潜り込んでこなかったなら、布団で眠っているのだろうか。ひょいと顔を覗かせた谷汲は、布団が綺麗に畳まれているのを見た。
日和がいない。
きゅっと胸の奥が閉まる感覚がある。
慌てて毛布を蹴り飛ばした谷汲は、台所へと向かった。血の気の引いた顔は普段よりも青白く、緊張した感情が血走った眼球から読み取れる。
台所に飛び込んだ谷汲が目にしたのは、ボウルをキッチンペーパーで拭いている日和の姿だった。可愛い前掛けをつけて、楽しそうにボウルを磨いている。谷汲の気配を感じたのか、日和が振り返る。それよりも早く、谷汲は日和に飛びついていた。ぎゅーっと力強く抱きしめられて、日和は目を白黒させている。
「ど、どうしたの。悪い夢でも見た?」
「…………すぅー」
「ちょっと! 猫吸いみたいにしないの!」
谷汲は返事の代わりに日和の首筋に顔を埋めて、深呼吸をした。
朝起きた時に日和がいなかったから寂しかったのだ、とはとても言えない。けれど、日和がここにいるのだと確かめたくて仕方がなかった。
恥ずかしいのか、日和が谷汲を叩いて退けようとする。
ぺちぺちと頭を叩く手が、パーからグーに変わったタイミングで谷汲は身体を離した。拗ねたように尖らせた唇は、まだ日和をハグしていたかったと雄弁に語っている。そんな谷汲を宥めるように、日和はぽんと頭の上に手を置いた。そして、優しく撫で始める。
心地良さそうに瞳を細めた谷汲は、されるがままになっている。
その表情があまりにも可愛くて、日和は思わず笑ってしまった。
「もー。どうしたの」
「…………別に」
「甘えん坊さんめ」
「うるさい」
「はいはい」
日和はボウルを拭き終えて、冷蔵庫へ手を掛ける。取り出したのは牛乳だ。
谷汲が背中にくっついたまま、日和は気にすることもなく準備を進めていく。卵とバター、そしてホットケーキミックス。ここまで並べられれば、勘の悪い子でも気が付くだろう。谷汲のお腹がくぅと鳴った。フライパンを取り出そうとした日和を先回りするように、谷汲が手のを伸ばしていた。ふんす、と鼻を鳴らして胸を張る谷汲の頭を撫でて、日和は柔和に微笑んだ。
前掛けを装備した日和は、手伝いたいと顔に書いて待機する谷汲へと向き直る。
小さな軍曹殿は、今日も楽しそうに料理を始めた。
「それでは、パンケーキを作ります!」
「……ホットケーキじゃないの?」
「似たようなもんでしょ。細かいことは気にしないの」
実際のところ、分類の上では極端な差がないものである。
定義の問題について討論する間もなく、日和の料理教室が始まっていく。まず谷汲に与えられた課題は、生地作りだ。日和の指示に従って、谷汲はボウルに卵と牛乳を入れた。料理初心者の谷汲には、卵を割るのも一苦労だ。
卵を綺麗に割るコツは、ビビらず勢いよくやることだ。慎重な谷汲が割ると、かえって増えた細かいヒビから殻が混入してしまう。丁寧に殻を取り除いて、ようやく牛乳を流し入れた谷汲は既に疲労を感じ始めていた。やっぱり私に料理は……と落ち込む谷汲の腰に手を回して、日和が優しく声を掛ける。
「なっちゃん。慣れだよ、慣れ」
「……むつかしい」
「だいじょーぶ。ちゃんと殻も取ったし!」
「……これ、混ぜていいんだよね?」
「うん。どんどん行こー」
ちゃぷちゃぷと卵と牛乳を攪拌する。谷汲の腕が疲れるよりも先に、日和がホットケーキの粉を入れた。勢いよく掻き回そうとする谷汲の手を、日和ががっちりと掴む。ふるふると、彼女は首を横に振った。
「あんまり混ぜると、上手に膨らまないよ?」
「なるほど。優しく、大胆に……」
「そう! なっちゃん、センスあるね」
お世辞だと分かっている。
それでも谷汲は嬉しかった。
生地を作り終えたら、いよいよホットケーキを焼き上げる工程だ。まったくの未経験者が、知識も持たずに焼くのは難しいと判断したらしい。最初に日和がお手本を見せてくれるようだ。谷汲はわくわくしながら、幼馴染の手元を見つめている。
「いい? こうするのだ!」
ボウルからすくい上げたタネを、高い位置からフライパンへ落とす。ジュゥッと小気味よい音とともに綺麗な円が広がって、日和が少し鼻を高くした。彼女にとっても改心の一撃だったらしい。表面にぷつり、ぷつりと気泡が浮かび上がってきたところで、彼女は勢いよく生地をひっくり返した。
「おぉ……」
「いい感じのキツネ色だね」
「もう食べられる?」
「ダメです。生焼けだよー」
焦げるんじゃないかと焦れる谷汲に待てを繰り返して、日和は自信満々のタイミングで生地をくるんと回転させる。綺麗なきつね色の円盤が出来上がると、日和は満足げに笑みを浮かべた。日和がフライパンを振ると、お皿の上に吸い込まれていくようにホットケーキが乗る。おお、と拍手をした谷汲は不意にあることに気が付いて、首を斜めに傾げた。
「ひょっとして日和、おやつによく食べる?」
「……なにを?」
「ホットケーキ。なんか、やけに上手というか」
「……そんなことナイヨ?」
日和の料理上手は谷汲もよく知っている。だけど、なんだか妙に手馴れていた。
谷汲が仕事をしている間、家で暇を持て余している日和。彼女がこっそりとホットケーキを作っているとして、それを咎めるつもりは毛頭ない。ないのだけれど。
谷汲の悪戯心が、微かな火を灯した。
「私の分も作ってくれればいいのにー」
「ちょ、やめ、」
「意地悪なひよちゃんにはお仕置きしちゃうぞー」
「んみゃあああ!」
冗談交じりに伸ばした谷汲の手が、日和の腹部を擦る。
くすぐったさに身をよじった日和は、谷汲の足へと強烈な踵落としを放った。
「やめてよ! んもう!」
「ゆ、指が折れた……」
「なっちゃんの自業自得だかんね! もう料理教えてやんないぞ!」
「……ごめん。まさか、そこまで怒るとは」
ハグとかは怒らないのに、お腹を触られると怒るのか。谷汲にとっても、初めての発見だ。当たり前のように毎日一緒にいるけれど、やっぱり一線は引くべきなのか。うむむ、と谷汲は唸って頭を悩ませる。考えると深みにはまりそうで、今日は深く思いつめないことにした。
仕切り直して、今度は谷汲がフライパンを握る。一悶着あって身体を動かしたせいか、なんだか緊張も解れている。ボウルに入れたおたまで、生地をぐるっとかき混ぜた。
日和の教えを思い出しながら慎重に、ホットケーキを焼いていく。
生地は高いところから落とす。無暗につっつかない。気泡が出来たら早めにひっくり返す。ひっくり返したらじっと我慢。僅か五分程度だが、谷汲にとって手に汗握る時間だった。そっとフライパンから皿へと移すと、ふっくらとしたホットケーキが出来上がる。
僅かに立ち昇る湯気が、彼女には勲章を思わせた。
「ふぅー……」
額に浮かんだ汗を拭って、谷汲は大きく息を吐く。
上手くできた。
その達成感で胸がいっぱいになる。日和の方を見ると、彼女も同じ気持ちらしくぱちりと目が合った。ふたりで顔を見合わせて、笑い合う。ホットケーキの甘い香りに包まれて、なんとも幸福な時間だった。
「それじゃ、半分こしよ」
「えー。味は一緒だよ」
「日和とは込めた愛情の量が違うので」
「えっ。それどういう意味なの」
日和の問いかけを無視して、谷汲はナイフとフォークを用意する。日和は文句を言いながらもシロップとバターを用意した。谷汲にとっては初めての「上手に出来た料理」だ。その味が如何ほどのものか、それはもう楽しみである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます