修行

 皿洗いの修行をする。

 谷汲は、夏休みを迎えた小学生の気分になっていた。

 お母さん役を買って出たのは日和だ。彼女はお気に入りの前掛けをつけ、ふんすと腕を組んでいる。谷汲を指導する立場になったことで、かなり気合が入っているらしい。そんな日和の期待に応えるべく、谷汲もスポンジを握る手に力を込めた。

 じわりと滲む泡を眺めていたら、日和に背中を突かれる。

「まずは復習からね」

「押忍!」

「洗う順番は?」

「油汚れの少ないもの。コップとかが最初」

 次にサラダとか、スープの器。

 最後が油汚れのあるものや、魚など匂いの強いもの。

 これは何度も反復したから、よく覚えている。谷汲が答えを返すと、日和は満足そうに頷いた。ぺちん、と腰に添えられた手が谷汲を後押ししてくれる。

「よろしい。では洗浄開始!」

 ご機嫌な日和の指示を受けて、谷汲は食器を洗い始めた。

 洗剤をつけたスポンジをコップに突っ込んでくるりと回す。飲み口を丁寧に擦り、汚れが残っていないことを確かめてから流し台の隅に置く。すべてのコップを洗い終えてから、まとめて水ですすいだ。なるべく水を無駄にしないための工夫だ。泡がちゃんと落ちたか、日和にもチェックしてもらって乾燥用のカゴにしまった。

 磨き上げたコップがカチリと音を立てて仲良く並ぶ。よし、と谷汲は一歩目の前進を喜んだ。

「次は?」

「えっと……サラダボウルと、ご飯の茶碗」

「オッケー。完璧だね」

 褒められて、谷汲はむず痒い気持ちになる。

 今日の晩御飯はハンバーグだった。付け合わせに、人参のグラッセもついた豪華仕様だ。とても美味しかったけれど、谷汲が手伝えるようなレベルの料理でなかったことも確かである。今度のお休みはご飯を作るのも手伝わせてもらおう、と考えながら洗い物を続ける。洗剤で擦って、水で流して、乾燥台に置く。流れは一緒だけど、油脂が付着していたハンバーグの皿は洗うのが大変だった。

「水で落とせる汚れは、落としてから……」

 日和が教えてくれた手順を頭の中で反覆しながら、谷汲は洗い物に精を出す。

 最後の一枚が終わって、谷汲は大きく息をつく。達成感で胸がいっぱいになった。洗い物は得意ではないけれど、やり遂げたという満足感がある。チェックしていた日和も満足したのだろう、うんうんと頷いていた。

 軽く水切りをした食器を、乾燥機へと並べていく。この並べ方にも、日和なりのこだわりがあるようだ。谷汲よりも背が低い彼女は、少しだけ背伸びして乾燥機へと食器を投入するようだ。今は谷汲が食器を扱っているのに、日和はつま先立ちになっていた。

「食器は斜め向きで、お椀は下を向けてね」

「どんな意味があるの?」

「斜めの方が綺麗に乾く気がするの。あ、お椀も一緒ね」

「……なるほど。上向きだと、底に溜まるのか」

 完璧な並べ方じゃないかもしれない。でも、日和が家事をするうちに培った感覚なのだ。谷汲は先達の意見を大いに参考とすることにした。

 全ての食器を片付けた後、今度はフライパンを洗うことにした。トマトソースが少し焦げ付いている。見た感じ、時間が掛かるかも……と谷汲は気合を入れてスポンジを突っ込んだ。だが、予想に反してするりと焦げが剥けた。

 調理を終えた後、日和が水を入れてふやかしてくれていたおかげのようだ。軽くこすっただけで、ほとんどの焦げ付きが取れてしまう。下準備って大事なんだな、とスポンジでごしごしと洗いながら谷汲は感心する。料理が上手なだけでなく、後片づけのことも考えて作業できるなんて。

「日和、偉いね」

「でしょ? もっと褒めて」

 谷汲が褒めると、日和は照れくさそうにはにかんでみせた。

 調理器具も片付け終わった谷汲が、他に洗い物はないかと日和に目で問いかける。ぽむ、と日和は谷汲の肩に手を伸ばした。

「お疲れ様。洗い物はこれでお終いです」

「ん。じゃ、次は何をすればいい?」

「なっちゃんは頑張り屋さんだねー。でも、もう仕事はないよ」

「……本当に?」

「疑い深いなー。ないんだって」

 日和はぐいぐいと谷汲を押して、台所から部屋へと戻った。エプロンを台所へ向かって放り投げると、まだ仕事をしたりないとそわそわしている谷汲をテレビの前に座らせる。そして、自分は谷汲の膝の上へと座った。急に動きを制限された谷汲は、どうしたものかと途方に暮れている。ハグをすればいいのだろうか、と恐々ながら日和の胴に腕を回す。

 しかし、谷汲の手に渡されたのは、ゲームのコントローラーだった。

「やっとゲーム出来るね」

「…………」

「えっ、何? どったの」

 黙り込む谷汲に、日和は不思議そうな顔をする。

 日和が楽しそうにしているならそれで良いのだけれど、それにしてももう少し何かあっても良いのではないか。そう思った谷汲だったが、口下手な性格が災いして何も言えないままだ。もじもじと指を動かした後、日和が渡してくれたコントローラーを握る手に力を込めた。ゲームを目一杯に楽しむ覚悟を決めたらしい。その様子を見届けた日和は、満足そうに微笑んでからゲーム機を起動させた。

 日和が選んだのは一昨年に発売されたアクションゲームだ。珍しいチョイスだな、と起動画面を眺めていたら言い訳するように日和が説明を始める。

「これね、新品が投げ売りされてたの」

「……ふむ?」

「すごく攻略が難しいんだって」

「……私、ゲーム下手だよ」

「大丈夫だよ。難しいのは、一人プレイの時だけらしいから」

 日和がコンフィグを弄っている間に、谷汲はこれから遊ぶゲームのパッケージを見ておくことにした。

 いわゆる無双系のゲームだが、協力プレイが出来るタイプだ。操作説明や、説明書に書かれている簡易なストーリーを読む限りでは投げ売りになるほどつまらない作品には思えない。しかしパッケージに貼られていた値引きシールからは、この作品が未開封の新品でありながらも90%OFFという破格の値段で売られていたことが伺える。発売して一年以上が経過しているとはいえ、こんな値段で売らざるを得ないゲームとは。

 果たして、大丈夫だろうか。

「日和、やっぱり別のにしないか」

「えー。いいじゃん。やろーよ」

「……クリアできなくても、怒らないでね」

 谷汲は不安に駆られて、保険をかけておくことにした。

 その不安を蹴飛ばすように、日和が笑う。

「だいじょーぶ。なっちゃんと一緒なら、全部楽しいから」

「……日和は優しいなぁ」

 ほろ酔い気分のまま、日和に連れられて谷汲はゲームの世界に飛び込む。キャラクター選択の場面でも谷汲は悩んだ。敏捷か、堅剛か、浪漫か。初期設定から選べるキャラクターだけでも個性があって魅力的だ。最終的に谷汲が選んだのは補助スキルが使える女の子のキャラだ。小柄な魔法使いタイプで、ぴょんぴょんと跳ねる姿も愛らしい。日和が選んだのはクールな暗殺者タイプだった。打たれ弱い代わりに敏捷が高く、窮地を脱するスキルを覚えるのが早いらしい。

「詳しいね、日和」

「実況動画で、たまーに見てたんだ」

「へぇ。じゃ、先導は任せる」

「任された。ま、気楽にいこっ」

「……うん」

 始まりの街道を元気よく進んでいく暗殺者の後ろを、谷汲の操作する魔法使いが懸命に追いかけていく。

 敵と遭遇すると、日和がすかさず前に出て戦う。素早い身のこなしと流れるような動作に、谷汲は見惚れていた。日和が敵を引き受けてくれているうちに、谷汲は体力を回復させたり、魔法で攻撃したりする。回復アイテムは乏しいが、谷汲の補助魔法で少しずつ進んでいく。聞かされていた難易度よりも簡単で、拍子抜けした谷汲は肩の力を抜いた。

 ぽてっと日和の肩に顎を乗せる。

 ちょっといい匂いがした。

「……どこまで進める?」

「いけるとこまで。あ、なっちゃんは明日も仕事あるよね」

「うん。まぁ、どっちかが死ぬまでやろう」

「ダメだよ。キャラロストしちゃうから」

「……ロストすんの? なんで?」

 あれやこれやと言い合いながら、ふたりは日付が変わる寸前までゲームを続けた。

 家事を手伝うと、普段よりも少し遊ぶ時間が増えると知って、谷汲はなんだか嬉しくなった。

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