此岸の火事
漸進
谷汲名草は、自分の不器用さを自覚している。
会社では及第点以上に働いて、上司や先輩からの信頼も篤い。責任感もあれば、仕事に対する誠実性も評価されるものだろう。
しかし、家事は壊滅的だった。
洗濯物を畳もうとすればシワだらけにして、掃除をすれば余計に汚してしまう。一人暮らしを始めてすぐに日和が転がり込んできたから、スキルを磨く時間がなかったと誤魔化してもいい。だけど、それは日和に家事を丸投げしている今の自分がいる限り、通用しない言い訳だ。
日和と一緒に暮らすためには家事を覚えなければならない。
その一念で、彼女は努力をすることにした。
「それで、何をすれば……」
「うーん。難しい話だね」
仕事帰り、今日は残業があって少し遅い時間だ。
日和は晩御飯の支度をしながら、谷汲の相談を聞いてくれている。
目下の問題は、まず何から始めればいいのか、である。
「なっちゃんは休んでればいいのに」
「そうもいかない」
「仕事で疲れてるんでしょ」
「そんなでもない。元気」
「それじゃ、お仕事サボってるんだ」
「……頑張ったけど。先輩にも褒められたし」
ぷくっと頬を膨らませ、谷汲が抗議した。
日和の本心からの労いも、谷汲の耳には届かない。彼女にとって日和との時間は、何にも代えがたいものなのだ。日和が谷汲のことを想ってくれるように、谷汲も日和を大切に考えている。だからこそ、日和に楽をさせたい。負担をかけて、嫌われたくなかった。
うろうろと台所を動き回り、晩御飯の手伝いをしようとする谷汲に日和は苦笑する。彼女の好意を無碍にするのは忍びないが、谷汲には覚えるべきことがたくさんあるのだ。今すぐに料理が出来るはずもなく、下準備を終えた後では谷汲が手伝えるレベルの仕事は残っていない。
「洗い物をお願いするから。それでいい?」
「……うん」
「じゃあ、お皿出して」
「分かった」
「あとは私が作るから、なっちゃんはお酒飲んで待ってて」
それはつまり、お払い箱では?
言いたいのをぐっとこらえて、谷汲は部屋へと戻った。冷蔵庫から適当に取り出した缶酎ハイをテーブルに乗せ、日和が晩御飯の支度を終えるのを待っている。
谷汲が大人しく部屋に戻ったのを確認して、日和は食事の準備を進めていった。谷汲は日和に言われた通り、部屋で大人しく待ってている。テレビをつけているものの視線は台所で働く日和へと向いていた。
日和は自分のことをニートだと思っている。
でも、家事を一手に担う彼女は、この家に必要な柱だった。
日和が料理を運んできて、ようやく谷汲は缶のプルタブを起こす。炭酸の抜ける音が耳に心地よかった。カラフルな缶と、部屋に広がった甘酸っぱい匂いに日和も興味をそそられたらしい。いただきますと手を合わせたあとも、視線は自分の作ったご飯には向いていない。
谷汲の手元を、日和はじっと覗き込んだ。
「それ、何味なの」
「……フルーツサングリア」
「つまり?」
「んー、説明するのは難しいけど……」
口に含んで、味を表現しようと試みる。
鼻腔を抜ける爽やかな香り、舌の中ほどに感じる仄かな甘み。瞼を閉じて浮かび上がる光景は鮮やかな赤と、それを取り巻く様々な果物だ。それを説明しようと口を開いた谷汲は、自分の見たビジョンが缶のパッケージそのものだったことに気付いて慌てて口を噤む。
なんか、そのまま説明するのはダサい。でも、他に解説のしようもないし……と谷汲は簡潔な結論だけを述べた。
「フルーティなワイン」
「へー。ワインってブドウの味じゃないんだ」
「色々ある。白とか、赤とか。これとか」
とにかく美味しい、と終わらせるのも無体ない話だ。せっかくだから、と色々調べてみることにした。
フルーツサングリアとは、とスマホを弄って情報を得る。谷汲が飲んでいるのは、フレーバーワインの一種のようだ。赤ワインに果汁や香辛料を加えて、より飲みやすくしたものらしい。缶の原材料欄と、パッケージイラストを見比べて使われている果物を確かめる。
オレンジ、ぶどう、りんご、カシス。並んでいる原材料を知った上で酒を口に含んでみるけれど、ジュースみたいだ、以外の感想は出てこない。美味しいけれど、谷汲の大雑把な味覚では細かい味についての評価は難しいようだ。
谷汲に寄りかかってスマホを覗き込んでいた日和が、サングリアについてのページを更にスクロールした。家庭でも作れないことはないが、酒税法の絡みで色々と制限があるらしい。アルコール度数が20%なら……と書かれているのを見て、家で作って飲むのは諦めることにした。
「あ。普通のワインを混ぜるだけでもいいんだ」
「難しそうだけどね。味の調整」
「失敗したらなっちゃんに飲んでもらうもん」
アルコールが入っている以上、日和にはまだ飲めない。あと少しで誕生日が来るが、その日がとても待ち遠しかった。
晩御飯を食べ進めながら、谷汲は一口、また一口と酒をすする。
日和にしては珍しく、谷汲が飲む酒に興味津々のようだ。
「美味しいのかね、サングリアってやつは」
「そこそこイケるね」
「ふーん。じゃ、私もそれ飲もうかな」
「……今度、買っておくよ」
「やった! ありがと、なっちゃん」
日和の喜ぶ顔をみて、谷汲は微かな光明を得た。
料理は出来ないし、掃除も苦手だ。だけど、日和を笑顔にする手段は他にもあるはずである。家事が出来るに越したことはないが、それが出来ないなら他の方策を探すのも前向きな考え方だろう。そう思って、谷汲は日和に微笑んだ。
笑ったり、悩んだり。
今日も忙しく表情を変える谷汲に、日和は不思議そうな顔をするのだった。
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