親展
谷汲の先輩は綺麗な人だった。
それでも、谷汲が抱き着くのは日和だった。その事実に安堵して、彼女は胸を撫でおろす。まだ肌寒い季節だから、と自分の手を握ったままの幼馴染に肩を寄せた。
酔いどれた谷汲は、いい気分で笑っている。日和は、そんな幼馴染を連れて無事に家へと辿り着いたところだ。送り届けてくれた先輩と、その旦那さんには谷汲に代わってお礼を告げておいた。ひらひらと手を振ってクルマに乗り込む先輩を見送ると、日和は幼馴染に肩を貸して部屋へと向かう。
玄関へと崩れ落ちた幼馴染を転がして、ようやく一息ついた。
「ふぅ。なっちゃん、飲みすぎ」
「そんな酔ってないよぅ」
「……んじゃ、ひとりで立てる?」
「むりぃ」
ぱたぱたと襟元を扇ぐ谷汲は、回る視界に混乱したのか目を閉じた。ぐでっと床に横たわったまま、日和の言葉に否定を返す。本当に足腰に力が入らないのか、甘えているのか判断が難しいところだ。
「しょーがないな。ベッドまで移動!」
「んー。手伝って」
「はい。ほら、腕を伸ばして」
だらりと伸ばしてきた谷汲の腕を掴んで、身体を引き起こす。また肩を貸して、日和は彼女をベッドまで連れて行った。昼間から飲んだ背徳感もあるのか、谷汲は随分と幸福そうな顔をしている。
「美味しかったなぁ。ひよちゃんも行こうね」
「……気が向いたらね」
「だいじょーぶ。静かなお店だったよ」
ベッドに大の字で寝転がる幼馴染の横に、こてんと日和も倒れてみる。谷汲は日和の頭を撫で回しながら、上機嫌に鼻唄を奏でていた。調子っぱずれな歌声だけど、不思議と心地よい。
酔って体温の上がった谷汲の腕枕に頭を預けて、日和はぼんやりと天井を眺めた。これまでも酒を飲んだ谷汲は性格が明るくなって、彼女に甘える傾向があった。ゲームに誘ってくれたり、映画を観ようと提案してくれたり。日和と一緒に何かをしたがるのは、多分、甘えてくれている証左なのだおる。まぁ谷汲は驚くほどゲームが下手くそだったけど、いつも楽しそうに笑っていた。
今日の谷汲は普段より更に輪をかけて陽気だ。
脈絡もなく笑い始める谷汲は、可愛いを通り越してやや不気味である。
「ひーよちゃん。んふふふ」
「……なにかあったの?」
「んー。色々? 先輩にそーだんした」
ふにゃふにゃと呂律が怪しい口調で、谷汲が答えた。
わざわざ会社の外で相談するような深刻な悩み事を抱えていたのだろうか、と日和は表情を曇らせる。谷汲の職場環境に関して見当違いな心配をしていると、谷汲が日和を引き寄せた。ぎゅうっと谷汲の胸に抱き寄せられて、彼女の柔らかさにどきりとする。谷汲は日和の髪を弄びながら、またくすくすと笑った。
「ひよちゃんのこと、好きだから」
酔っ払いの戯れ言だと聞き流せば良いはずなのに、日和の心はざわついて仕方がない。日和の動揺を知ってか知らずか、谷汲はぽつぽつと語り始めた。
「ひよちゃんはさー。働かなくてもいいよ」
「……どういうこと?」
「ずっとウチにいて欲しいから。ひよちゃん、真面目だし。仕事なんか始めたら、ウチから出ていっちゃいそうだし……」
ぎゅう、と強く抱きしめられる。
まるで駄々っ子のような仕草だった。
日和が仕事を始めることと、谷汲が心配している日和の出奔に関連性が見出せなくて、日和本人が首を傾げる。彼女が仕事を始めたいのは、ただ谷汲の負担になりたくないからだ。別に今すぐにでも谷汲の部屋を飛び出して、一人で暮らしたいと思っているわけではない。酔っ払いの支離滅裂な話かな、と谷汲の乱れた服装を整えてあげる。素肌を晒すお腹へと、布団も掛けてあげた。
日和が困惑していることを察したのか、谷汲は言い訳するように言葉を続ける。
「だって、私は家事できないし。料理下手だし、洗濯物はシワだらけになるし、部屋の掃除もやってないし……でもぉ、出来るようになるからぁ……」
ぐずぐずと日和の胸元に縋りついて、谷汲が震え始めた。
生活能力がないことを気にしていたらしい、とようやく日和も気付いた。最近になって、急に台所に立とうと努力しているのも、その一環らしい。谷汲の内心では日和が家を出ていってしまうのが確定事項みたいで、それを引き止めようと本人なりに遠回しな根回しを頑張っていたつもりのようだ。まだまだ谷汲と一緒に暮らしていく予定だった日和にとっては寝耳に水の話だ。
誤解を解く……のも、谷汲が酔っていないときにした方がよいだろう。
まずは、谷汲を休ませてあげよう。
「私、別に家事嫌いじゃないから」
「でも、日和にばっかりやらせてて、ホントごめん」
「そう思うなら、出来ることからやればいいよ」
「なにも出来ないのでぇ」
かなりの自由人だと思っていた谷汲にも、日和の知らないコンプレックスがあるようだ。それを刺激してしまったようで、谷汲は涙目になっている。
どうしたものかと悩んでいると、日和を抱き締める谷汲の腕に力が入った。巻き込んだ布団が背中に食い込んで、日和は顔をしかめた。
「ちょっと、痛いんだけどー。なっちゃん、やっぱり酔いすぎだよ」
「うぅ……ごめん……でもお酒は好きなので……」
「はい、はい。分かってますとも」
どうやって谷汲を暗い思考から引っ張り出せるだろうかと考えて、日和はひとつの案を思いつく。ご飯を食べさせよう。軽くご飯を食べて酔いを醒ませば、彼女も正気に戻るはずだ。
「晩御飯はどうする? 食べられる?」
「んー……お茶漬けがいい」
「あっさりしたものね。うん、分かった」
ぽぽん、と谷汲の額に触れると拘束が緩む。
その隙に抜け出して、日和は台所へと向かった。冷蔵庫を漁って、簡単に晩御飯を済ませてしまおうと日和が準備を始める。
抱きかかえていた温もりを失った谷汲も、ドア一枚を隔てた台所へ向かった。ハグしようと伸ばした手を弾かれて、しゅんと肩を落とす。落ち込む谷汲に何を思うのか、日和は風呂場を指差す。どうにかして谷汲の酔いを醒ましてしまいたいようだ。命令を受けたゾンビのように風呂場へ向かった谷汲は、ふらふらと服を脱ぎ散らかして浴室へと入った。
手狭なバスルームで浴槽を覗き込む。
「……湯舟、空っぽ」
そりゃそうか、と少しずつアルコールの抜けてきた頭で考える。
「お風呂は……どう入れるんだっけ……」
何か特別なスイッチでもあっただろうか、と蛇口を見つめる。
普通にお湯を出すだけでいいのか? とやや不安になりながら湯舟にお湯を張り始めた。ただ待つだけでは寒いので、さっさと髪を洗ってしまった。ついでに身体も洗って、合間に湯舟へとお湯を出し続ける。身体を洗い終わるまでに、どうにか谷汲のへそが浸かるまではお湯をためることが出来た。
いつもお風呂の準備もしてくれる日和は偉い。感心すると同時に、日和に頼りきりで何も出来ない自分を恥じた。日和が就職することに不安や文句を述べている場合ではない。自分も出来る限りの努力をして、少しでも日和が一緒に暮らしてくれるようにしなければ……と決意を新たにした。ただ、決意だけでは何も変わらない。半身浴をしている内にアルコールは抜け、頭はすっきりしてくる。反動で、日和に抱き着いていた自分を思い出して耳を赤くしてしまった。たいして熱くもないお湯なのに、のぼせてしまいそうだ。
浴室の曇りガラスの向こうに、日和が顔を出した。
谷汲が溺れていないか、心配で見に来たようだ。
「なっちゃん、遅いけど大丈夫? のぼせてない?」
「ん……うん。モーマンタイ」
「ご飯、用意できたよ。いつでも食べられるからね」
「……ありがとー」
風呂を出た谷汲は、髪を乾かすのもそこそこに日和の元へ向かう。
店で食べた料理と比べて随分と質素なメニューだが、谷汲はなぜかほっとした。何はともあれ、日和の手を握る。先輩よりも小さくて、柔らかい手の感触にややドギマギしながらも、谷汲は何とか言葉を紡いだ。
「か、家事を覚えるので。教えてください」
「えー。なっちゃん、急にやる気だね」
「いつまでも日和に頼ってられないし……」
「甘えていいのに」
「……日和だって、もっと、私に……」
もごもごと言葉にならないことを呟いて、谷汲は顔を背けてしまう。彼女がくしゃみをしたところで、下着もつけずに脱衣所から出てきたことが発覚した。風邪を引いてしまっては大変だ。替えの下着を渡した日和が、谷汲を脱衣所へと追いやる。こんな谷汲だから放っておけなくて、こんな谷汲だから一緒にいてもいいという安心感がある。
日和は、小さく笑いながら谷汲が戻ってくるのを待つのだった。
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