廻航

 谷汲が飲み会に行って、しばらく。

 彼女のアパートでは、日和が暇を持て余していた。

 せっかくの休日なのに、彼女には外出する用事がなかったのだ。仕事もなく、学校も辞めた日和にタスクと呼べるものは家事しかない。その家事すらも、毎日こまめにこなしていたら、時間を持て余す程にこなれてしまった。

 谷汲と買い物に行こうにも、彼女が職場の先輩とやらに誘われてしまっては予定を立てることも出来ない。退屈に押しつぶされて、欠伸がずっとこぼれている。

 本格的に暇だ。

 ごろごろとベッドに転がって、幼馴染の残り香を求める。枕に顔を埋めたあたりで自己嫌悪に陥った。

「いや、流石にダメでしょ……」

 そも、幼馴染が寝ているベッドへ潜り込むことも多い。今更、という話だが、日和は一線をひいておこうと思った。

「仕事探そ」

 ベッドに寝転がった日和は、スマホを充電器につないだ。就職支援サイトを巡って、自分にも出来そうな仕事を探す。この前酔っ払った幼馴染に聞いた話によれば、就職はガチャみたいなものらしい。よい上司に恵まれるか、信頼できる同僚がいるか、仕事の苦楽や忙しさ、様々な要素が複雑に絡み合うガチャだ。

 日和は考える。正直なところ、働ければどこでもいい、と思っていた。幼馴染で、親友で、大切な――谷汲の世話になってばかりではいけない、と日和は頭を悩ませる。知らない相手と会話するのが極端に苦手なのは、昔から自覚している。高校生の頃は、今ほど酷くなかった。社会と決定的な断絶を感じたのは、大学生活を始めたばかりの、僅かな期間だ。

 行き交う人々が、エイリアンに見えた。

 人間の皮を被った、別の生き物だ。同じ言葉を喋り、同じ目標を持ち、同じ空間にいる。だけど、日和は彼らに馴染むことが出来なかった。相手がこの世の春を謳歌しているような、明るい性格の子ばかりだったから? いや、そんなことはなく。日和はどこまでも、他人に馴染めない性格の持ち主だった。

 高校までは谷汲がいた。見知らぬ人に囲まれても、頼る相手がいたのだ。でも、隣に谷汲がいなくなった、あの日。

 日和は、何もかもに恐怖した。

 大学を辞めるために必要な書類は、谷汲の助けを借りて作成した。両親に申し訳ないと思う反面、谷汲の元へ転がり込んだ自分を放置しているのは容認だろうか、とも思っている。

 幼馴染が両親へ告げ口していないことも知っていた。日和は、谷汲に甘えている。弱い自分を受け入れてくれる幼馴染に依存していたのだ。

 だから、自立しなければならない。

 谷汲が安心して過ごせるように、日和が自分の足で立って歩けるように。

「……でも、難しいな」

 仕事を探し始めた日和だが、彼女の経歴や様々な要素が組み合わさって、就職活動は困難を極めた。そもそも、面接を受けるのが難しい。なにせ、まともに人と話すことが出来ないのだから。

 しかし日和は諦めない。谷汲のためだ。彼女のためならば、頑張れる気がする。

「やるぞ……!」

 日和は決意を新たに、再び求人情報を漁り始める。

 その時だった。日和の携帯に着信が入った。気付けばおやつの時間を過ぎて、晩御飯の用意を始めなくてはいけない時間だ。誰からの着信? などと考える必要もない。谷汲からの電話だ。特に考えることもなく通話ボタンを押して、スマホを耳に当てる。しかし、聞こえてきたのは知らない女性の声だった。

『もしもし。日和さんかしら』

「…………」

『あぁ、私は名草の同僚よ。ちょっと携帯を借りているの』

 なるほど、と絞り出そうとした声は相手に聞こえただろうか。

 日和が深呼吸する間に、電話口の女性は話を進めてしまう。

「酔い潰れた名草を迎えに来て欲しいのだけど』

「……ばしょ、どこ、ですか」

『位置情報を送るわ。酔い潰れたと言っても、まぁ、ウザ絡みしてくる程度なのだけど』

 名草は酔っ払うと、絡んでくるタイプなのか。日和の知る限り、谷汲が酒に飲まれた姿を見たことはない。いつもより陽気に、よく笑うくらいの変化だ。

 日和は送られてきた地図を確認して、アパートを出る準備をした。最低限の荷物を確認してアパートを出る。バスに乗るか迷ったが、歩いて向かってもたいして時間に違いはない。待つよりも身体を動かした方がいい、と極限まで他人と関わる場面を減らしたい日和は駅前まで歩くことにした。

 滅多にバスを使わない日和は、清算の仕方もよく分かっていない。乗降車の際に運転手へ確認をしなくてはいけないのに、それが心へ与えるストレスが半端じゃないと悟って諦めたのである。

 てってこと歩く。

 やがて駅舎が見え、指定された喫茶店の近くへと向かう。

 店先のベンチに、見覚えのある女性が座っていた。

「なっちゃん……!」

「ん? おー、ぴよちゃーん」

 まだ日の高い時間にもかかわらず、酔っ払った谷汲が千鳥足で近づいてくる。普段のクールで真面目な雰囲気とは打って変わって、ふにゃりと柔らかく微笑んでいた。ずっとこの顔なら、と惚けた幼馴染を全身で受け止める。酔っぱらった谷汲は酒臭かったが、抱きしめられる安堵感の方が勝った。

「んんー。んー……」

「ちょっと。なっちゃん」

「ダメそうね。名草、もう寝そうだし」

「………………」

「ごめんなさい。色々と話を聞いていたら、つい飲みすぎちゃって」

 平然とした表情の女性は、谷汲が言っていた先輩社員だろうか。彼女からは谷汲以上に酒の匂いがするけれど、酔った様子はない。喉が乾いているのか、手に持ったペットボトルを何度も傾けていた。

 陰のある美人だ。谷汲が涼し気なクールだとしたら、この人は冷たい印象のクールだ。背が高くスタイルもいいけれど、全身から滲む刺々しい雰囲気に日和はたじろいだ。抱き着いたままの幼馴染を盾にして、日和は先輩との距離を測る。日和は人付き合いが得意ではない。谷汲以外の人間には慣れていないのだ。

 先輩は日和の様子を見て、少しだけ申し訳なさそうな顔をする。

 それから、すぐに真顔に戻った。

「名草を任せて帰ろうと思ったけれど……あなた、クルマは?」

「のれません。免許、ないので」

「そっか。バスとか電車で帰れそう?」

 ふるふる、と日和は首を横に振った。

 頼みの綱の谷汲が酔いどれて使い物にならないのだ。今も先輩と日和の会話を小耳に挟みながら、「バス? お風呂?」と素っ頓狂な独り言を繰り返している。このままではバス停に着く前に眠ってしまいかねない。バスに乗った後も、果たして無事に自宅近くのバス停で降車できるだろうか。

 考え込む日和に、先輩が声を掛ける。

 それは思いも寄らない提案だった。

「旦那呼ぶけど、送らせましょうか」

「だん……な……?」

「どうせ暇しているだろうし。タクシー呼ばないでしょ?」

 こくり、と頷くことしか出来ない。

 旦那への連絡を済ませた先輩の助けを借りて、日和は場所を移動した。谷汲が飲んでいた喫茶店から少し離れた、有料の駐車場だ。イベントのない平日は空っぽに近い。ここが埋まるのは祭りの時期くらいだろう。

 ベンチに腰を下ろした後も、谷汲は日和にくっついて離れない。人前で恥ずかしいのだが、突き放したらそのまま飛んで行ってしまいそうだ。仕方なく、そう、仕方なく日和は谷汲に抱かれるままにしていた。谷汲の頭を撫でたり、背中をさすったりしてみる。彼女は気持ち良さげに目を細めて、さらに強く日和を抱き締めた。

「ふふっ」

 微かな笑い声に、日和が正気に返る。

 谷汲の先輩が、ふたりを生暖かい目で見守っていた。

「いつもは、こんなんじゃないので」

「そうでしょうね。でも、たまにはいいんじゃない?」

「……そう、でしょうか」

「えぇ。私にも、そういう相手がいたらいいんだけど」

 旦那さんにやってみれば良いのでは? と思いはしたものの言葉にはしない。まだ軽口を叩けるほど、日和は先輩と打ち解けていなかった。

 日和の胸中を察したのか、先輩はあまり話し掛けてこない。谷汲はふにゃふにゃと惚けたまま、日和に頬を摺り寄せてくる。家で飲んでいるときも、ここまで懐いてくることはなかった。先輩とのサシ飲みがよほど楽しかったのか、飲みすぎているようだった。

 しばらくして、地味な色のクルマが先輩の前に停まった。運転席の窓が開き、そこから男性が顔を覗かせる。優男風で、人当たりの良さそうな人だった。

「お待たせ。あれ、そっちの子は」

「後輩と、その連れよ。迎えに来てもらったけど、事情があって帰れないの。あんた、家まで送ってあげて」

「ん。了解」

「じゃ、日和ちゃん。乗って」

 先輩は手をひらりと振ると、自分が先だって助手席へ乗り込んだ。日和は酔った谷汲を後部座席に押し込んで、自分もその横に座る。シートベルトを締める日和に向かって、先輩の旦那さんが話しかけてきた。

「どこまで?」

「えっと……アパートがあるのは……」

 先輩の旦那さんに道を説明する。

 何度もどもったけれど、旦那さんは顔色ひとつ変えずに日和の話を聞いてくれた。説明を終えたあと、クルマがゆっくりと発進する。酔っ払い達に配慮しているのか、随分と優しい運転だった。

「そういえば、自己紹介がまだだったね」

「私の旦那です」

「ちょっと、それじゃ味気ないだろ」

 人懐っこい旦那さんだ。日和が縮こまっているのをみて緊張をほぐそうとしているのが分かる。その気遣いすらも痛くて、日和は口が苦くなる。

「僕の名前は――」

 旦那さんが口を開こうとした瞬間、けたたましいクラクションが鳴る。近くで交通事故寸前のトラブルがあったようだ。

 先輩は無表情に、クラクションのした辺りを眺めている。そして、旦那の腕に触れた。

「気をつけてね」

「はいよ。ま、僕の名前なんかどうでもいいか」

 あっけらかんと笑う旦那さんは、今の音にも動じていないようだ。これが大人というものだろうかと、日和は眠りこける幼馴染みの腕を抱きながら震えて家への到着を待つのだった。

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