発芽

 土曜日の正午だった。

 先輩が集合場所に選んだのは、駅前から続く商店街だ。谷汲の住むアパートからは駅を挟んで逆方向にあたる。この辺りに足を運ぶのは久しぶりで、周囲をキョロキョロと見渡してしまう。同じ街に住みながらも、おのぼりさんになった気分だ。

 いつも家にいるせいもあって、休日に人通りの多い道を歩くのは新鮮だった。知らない間に増えていた店舗、改装中の老舗などを横目に、待ち合わせ場所へと向かう。指定の場所に到着した谷汲は、先輩の姿を探した。

 先輩はすぐに見つかった。

 ひらひらと手を振りながら近づく名草を、先輩が柔和な笑みで出迎えてくれる。

「どーもー」

「おはよう、名草。遅刻しないなんて、偉いわね」

「集合時間くらい守りますよ」

 先輩の谷汲評が気になるところではあるが、目下の目的は先輩とのデート……と、その際に交わされる相談事にあった。

 だが、その前に言わねばならない。

「先輩、綺麗ですね」

「あら、どうも」

「大人の女性って感じです!」

「そりゃ、あんたより年上だしね」

 慣れたように先輩は笑う。

 谷汲も、お世辞のつもりはない。会社の外で先輩と会うのは初めてだった。シンプルなワンピースにカーディガンを重ね、足元にはヒールの低いパンプスを履いている。それでも背の高い先輩は、すらりとしたシルエットを崩していない。

 いつものオフィスカジュアルよりもお洒落で、ずっと眺めていたいくらいだ。先輩って美人だよな、と改めて思った。

 浮かれて近付く谷汲に、先輩がぴっと指を立てる。警戒して、谷汲も立ち止まった。

「名草に確認しておきたいんだけど」

「はい、どうしましたか」

「……クルマで来てないわよね?」

「もちろん。バスで来ましたけど」

 今日は集合場所の他に、集合する方法にも指定があった。

 徒歩か、公共交通機関を使うこと。その指定から導き出される答えは、ひとつ。

「先輩、昼間から飲むつもりですか?」

「えぇ、当然」

「わーお……」

「たまにはいいじゃない。羽目を外しても」

 爽やかに笑う先輩だったが、谷汲としては不安が残る。

 会社の飲み会など、滅多なことでは参加しない。ご時世もあるし、居酒屋の賑やかと言うには些か騒がしい雰囲気が苦手なのだ。それに加えて、谷汲は酒癖が悪い。酒を飲み始めてから知ったことだが、彼女は酒と相性が良すぎる。自制できない自分の姿が目に浮かぶし、酔いどれ天使となった自分が先輩に対して粗相を働かない自信がない。

 だけど先輩が誘ってきた以上、断るわけにもいかないのだ。谷汲は諦めて、先輩の後についていくことにした。

「どこ行くんです?」

「お酒の飲めるとこ」

「えっ、居酒屋ですか……?」

「心配しなくてもいいわよ。よく行くところだし」

「私、あんまりに賑やかなところは……」

「静かなところよ。大船に乗った気分で構えてなさい。ウチの旦那も、煩いの苦手だから」

 おっかなびっくり、先輩の後ろについていく。どうやら先輩が贔屓にしているお店があるようだ。

 先輩は商店街のアーケードを迷うことなく進んでいく。シャッターが目立つ通りを歩いて、先輩が路地に折れていく。立ち止まったのは喫茶店の前だった。

 ふむ、と首を傾げて谷汲は思う。実は谷汲が想像するようなお酒なんか出てこなくて、アルコールを含むお洒落なドリンクが評判のお店かもしれない。仕事をバリバリにこなす先輩が休日の昼間から酒を飲むはずがない、その一点だけで谷汲は喫茶店のドアをくぐる。薄暗いながらも瀟洒な雰囲気の漂う店内にはコーヒーの香りがした。

 案内に出てきたのは初老のおじさんだ。

 彼は先輩を一目見るなり相好を崩し、谷汲に気付くと驚いたように身構えた。

「おや、珍しい。浮気かい?」

「んなわけないでしょ、店長。会社の後輩よ」

「そうか。あの子以外を連れてくるとは思わなくて……」

「いいから。個室使わせて」

「ふふっ、分かったよ。君はお得意様だからね」

 親しげに会話を交わすふたりに取り残される形になって、谷汲は店内へと視線を巡らせる。分かりにくい場所にある店舗だったが、お客さんはそこそこ入っているようだ。落ち着いた店内にはやや音量を抑えてジャズが流れている。

 店長に促されて、先輩が慣れた様子で席まで誘導してくれた。先輩に押し込まれるように、谷汲は個室の奥側へと座る。どうやらハナからふたり掛けの席らしい。先輩は慣れた手つきでメニューを眺め、早々に注文するものを決めてしまったようだ。

「はい、名草」

「ども」

「……どれにする?」

「うーん。迷いますね」

 メニューを渡されたはいいけれど、谷汲は困ってしまった。何を頼めば良いのか分からないのだ。谷汲が眉間にシワを寄せていると、先輩がくすくすと肩をすくめて笑った。

「ウチの旦那と似てるわね、名草の困り顔」

「旦那さんとは、よく来るんですか?」

「えぇ。ここ、お気に入りの店なの」

「……先輩のオススメを飲みたいです」

 優柔不断に悩まされた谷汲は、慣れているらしい先輩に選んでもらうことにした。

 先輩は悩む素振りもなく、これとこれを頼むとメニューを指差す。谷汲がそれに了承して、先輩が呼び出しボタンを押した。程なくしてやってきた店員がオーダーを取ってくれる。

 不明に対する恐怖は、谷汲のなかでも上位を占めるらしい。同様に不明に対する関心も高い彼女の心内を理解するのは、十年の付き合いがある幼馴染みでも難しいだろう。

 先輩が頼んだお酒は、谷汲が飲んだことのないお酒だった。運ばれてきたグラスに鼻を近づけ、まずは匂いを嗅いでみる。良い香りだ。

 しゅわりとした口当たりも悪くないし、フルーティな香りが癖になる。美味しいです、と谷汲が感想を述べると先輩は嬉しそうな顔をした。

 料理が来るまでの間、谷汲はずっと考えていたことを口にする。

「友達と暮らすの、変なことですかね」

「いえ。"よくあること"でしょ」

「ですよねぇ」

 先輩の返事を聞いて、谷汲も頷いてしまう。

 きっと、ありふれた出来事なのだろう。仲の良い友達と同じ屋根の下に暮らしていて、いつの日にか、互いに必要だと感じたから別々の生活に戻る。

 普通のことなのだ。

 でも、納得は出来なかった。

 日和なりに悩むこともあるだろう。でも、ふたりの生活はうまく回っていた気がする。急に仕事を始めようと意気込む日和の身に、何かあったのでは、と勘繰ってしまう。例えば、谷汲の知らないところで嫌な思いをしたとか。

 日和について心ない言葉をこぼした、元恩師の顔がよぎる。先輩に相談したいのは日和についての話だった。

「話しましょ。時間もあるのだし」

「……そうですね」

 落ち込み気味の気分でも、美味しいものは美味しい。谷汲が全幅の信頼を置く先輩の選んだ料理は、どれも驚くほど美味しかった。

 小洒落た雰囲気に、がっつりと食べる店ではない、と勝手な決めつけをしていたのだが意外にも量が多い。お腹いっぱいになるまで食べてしまいそうだ。そんなことを思いながら、谷汲はちらと先輩の様子を窺う。彼女は黙々とフォークを動かしていた。

「悩んでいるのは、幼馴染みのことで」

「えぇ」

「……私が捨てられるかも、しれなくて」

 日和が仕事を始めようとしている旨を説明した。先輩は相槌を打ちつつ、時折質問を挟んでくる。その声音は優しくて、谷汲は安心して相談することができた。

 谷汲の部屋に日和が転がり込んできた、あの日。最初に谷汲の胸中に浮かんだ感情を、今でもはっきりと覚えている。

「幼馴染と一緒に住み始めたのは、私が仕事を始めてすぐの頃でした」

「うん」

「日和が私の部屋に来たとき、私は、わたし、は」

 超えてはいけない一線に足を掛けた気がした。それでも、ここを乗り越えなければ日和と一緒には進めない気がして、谷汲は解決策を探る。唯一、身辺で頼れる先輩になら助力を求められた。ぐっと飲みほした酒の力を借りて、胸の奥に沈殿していた感情を言葉にする。

「やった、と喜びました」

 先輩からの返事はない。谷汲は気にせず続ける。

「これで一緒に暮らせる、と。ふたりきりになれる、と」

「……」

「最低でしょう? 困っているはずの幼馴染を相手に、まず考えたのは”どうすればこの子をずっと閉じ込められるか”、でした」

 本当は助けるべき相手だと、谷汲も分かっている。

 でも、それを言葉にしなかった。日和が抱えている問題を解決してしまったら、彼女は谷汲の元から離れて行ってしまうだろう。進学したはずの日和が、学校にも行かず谷汲の部屋へ引きこもっているのだ。幼馴染だし、彼女の両親とも面識がある。日和が学校に行っていないことを、本当ならば伝えるべきなのだろう。でも、言えなかった。

「最近になって、日和が仕事を始めるって言いだしたんです」

「普通なら喜ばしい。だけど、嫌なのね」

「はい。私、いらなくなっちゃうので」

 谷汲がいなくとも生活していくだけの基盤があれば、日和は一人で暮らしていくことになるだろう。谷汲は捨てられてしまう。そう思った。

 家事の巧拙は些末な問題だ。いまや、ずっとふたりでいることが当たり前になったあの部屋で、ひとりになることに谷汲は耐えられない。だから、と谷汲は悪辣と分かっていても問いかける。

「先輩。どうやったら日和を閉じ込めておけますか」

「……くくっ。ふはははっ!」

「笑い事じゃないですよ」

「バカね。笑わずにはいられないわ。あなたのそれは独占欲よ。それも、とびっきり幼稚な」

「…………でも」

「まず、あんたがやることはひとつ。日和ちゃんに家出の原因を聞くこと」

 それが出来れば苦労はしない、と谷汲がくしゃりと顔を歪めた。

 先輩は谷汲が抱える不安を見透かしたように笑っている。そして、谷汲の手を握った。先輩の指は細く、ひんやりとしている。少しだけ湿っていて、柔らかい。

 先輩は言った。

「私は相談を聞く。愚痴も聞く。でも、日和ちゃんとの間柄をどうこう出来るのは、名草しかいないのよ。分かる? 分からないなら、前後不覚になるまで飲みなさい」

「……でも、お酒は身体に悪いんですよ」

「黙って飲め。……それから、日和ちゃんと話をしなさい」

 谷汲は黙り込むしかなかった。

 先輩に煽られるまま酒を飲む。

 何もかも分からなくなれば、この不安を脱ぎ捨てて幼馴染と話が出来るのだろうか。飲む、飲む、飲み続ける。この日初めて、谷汲は酔っ払うことの本質を垣間見た気がした。

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