先輩

 美味しいご飯、美味しいお酒。

 そして、可愛い幼馴染。

 谷汲は今の生活に満足している。もしも彼女の生活に足りないものがあるとすれば、それは。

「なんだと思いますか?」

「いや、そこは自分で考えなさいよ」

「ですよねぇ。すいません、先輩」

「……相談に乗るとは言ったけど、まさか内容が決まってないとはね」

 呆れたように、先輩が肩をすくめる。

 会社で仕事をしていた谷汲は、タスクが終了して暇を持て余していた。事務用品の整理は先日終わらせてしまったし、書類の類は触らない方がよいことも多い。事務室の掃除は、谷汲よりも先に暇になった先輩が済ませている。今は本当に、何もすることがない時間だった。休憩所に向かうのも面倒で、谷汲と先輩はデスクの前で雑談をしている。とりあえず事務室にいれば、何かあったときも素早く対応できるだろうとの判断だ。

 引き出しに入れていたチョコを齧って、先輩が腕を組む。長い髪を手櫛ですく所作も美しい。

 相変わらず、綺麗な人だった。

「でも、何かが足りないんですよね」

「言葉で説明できないなら、それは本当は必要のないものなのよ」

「おっ、格好いい台詞ですね」

「……旦那の言葉を借りただけよ」

 微妙な顔をした先輩が、齧っていたチョコを飲み込む。

 先輩の旦那さんは、先輩が隠しているせいもあって正体が不明だった。色々な噂があるけれど、谷汲にとってはビール券をくれる優しいお兄さんだ。

 どこまで踏み込んで良いものなのかも分からず、谷汲は二の足を踏んだ。結局、先輩には何も聞けないままだ。ふぅん、と興味なさげに呟いて、谷汲は机に突っ伏す。

「足りてないことだけは、分かっているんです。何が足りないのかが分からなくて」

 谷汲の生活に足りないものを考える。漠然とした不満を解消するには、悩みの種を分解するのが早いだろう。

 思考の海の水は膨大で、手酌で掬えども掬えども底が見えることはない。悩みの種がどこにあるのか、谷汲にはさっぱり分からないのだった。

「名草。身近なことから考えてみたら」

「身近……晩御飯とか?」

「まぁ、それでもいいけれど」

 先輩に促されて思索にふける。

 昨日食べた五目チャーハンは美味しかったし、日和が冷やしてくれたビールも最高だった。ご飯を食べた後はふたりでゲームをして、楽しい時間を過ごしていたように思う。

 特に不満があろうはずもないのだ。

 だけど、心には微かな隙間風が吹いている。その原因を探すのが困難で、途方もなく長い道のりなんじゃないかと不安にも思っていた。

「名草」

 先輩に話し掛けられて顔を上げる。

 先輩は、一枚の紙を持っていた。

「あなたの生活の要素を、紙に書きだしてみなさい」

「要素、ですか」

「えぇ。思いつくものを書くの」

 先輩が両手の指を立て、こめかみに当てた。ブレインストーミングの構えだ。

 言われるがまま、谷汲は紙に思いついたことを書き連ねていく。ペンが止まったところで先輩が紙を回収し、単語を要素によって分類していく。結果、生まれた項目は至極単純な谷汲の興味が現れていた。

 好きなお酒と、毎日のご飯。

 事務の仕事と、一緒に暮らす幼馴染。

「一番、比率が高いのはコレね」

「……日和、か」

「同棲している相手でしょ? 喧嘩でもしたの?」

「いや、そんなことは……」

 ない、と言い切れない自分がいた。

 ここ最近、日和と話す機会が減っている気がする。仕事が忙しくて帰宅時間が遅くなっているせいもあるけれど、日和はもっと別の理由で元気がないように見えた。谷汲が帰ってこなくて寂しいのだろうか。だとしたら申し訳ないけれど、残業も仕事のうちだしな。と、谷汲が考えていると、先輩が溜息を吐く。

「ちゃんと話しておきなさいよ」

「はい」

「無口が許されるのは中学生までだから」

「はぁ」

 曖昧な返事をすると、先輩が目を細めた。その瞳には僅かに羨望の色が浮かんでいる。

 黙っているのは良くないなと思いつつ、どう切り出したものかと考えてしまう。同棲する幼馴染みがニートなんです、と話し始めるのは気が引けた。

 先輩が偏見なく相談に乗ってくれるのは知っているけれど、それでも日和のことをバカにされたくないと思った。

 谷汲は一度、買い物中に偶然出会った元担任に日和のことを相談したことがある。しなければ良かった、と深く後悔する返答をもらって、彼女は元担任と距離を置いた。

「実は……」

 どこまで、どこから。

 その切り取りが難しくて言い淀む。

 まだ結論の出ない谷汲が口を濁らせていると事務室の電話が鳴った。それに手を掛けた先輩は、受話器をあげることなく谷汲に問う。

「ねぇ、今週末はお暇?」

「特に用事は入れてないですけど」

「あなた、近くに住んでるはずよね」

 谷汲が肯定すると同時に、先輩が受話器を上げた。五月蝿く鳴り響いていたベルが静かになる。通話口に手を当てて、先輩は小声で呟いた。

「駅前に集合ね。美味しいご飯でも食べながら話しましょ?」

「……はい。ありがとうございます」

「どうも。……あ、もしもし」

 受け答えをする先輩を眺めながら、谷汲は考える。先輩が気を遣ってくれたのだろう、と。少しだけ楽になった心を抱えて、小さく背伸びをする。

 悩みの種を、ちゃんと解決できればいいなと思った。

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