檻を織る

 日和紀保の一日は長い。

 それは、使える時間が多いという意味だ。

 谷汲の出社に合わせて起床し、料理の出来ない幼馴染のために朝ご飯を作る。谷汲が出社した後は部屋の掃除をしたり、洗濯をしたり、色々な家事を済ませてしまう。普段から掃除しているし、部屋も狭いから午前中には家事も終わってしまうのだ。

 適当にお昼を食べた後は、他にすべきこともない。日和は、谷汲が帰ってくるまでの時間を持て余していた。

「……ゲームするか」

 意を決してゲーム機の電源を入れる。

 この時点で、既にゲームを楽しめる気分でないことは分かっていた。でも、どうにか気分を上げられないかと試行錯誤してみる。結果、三十分しないうちにコントローラーを投げだしてしまった。酔っぱらった谷汲と一緒にやるパーティゲームはすごく楽しいのに、一人でやるRPGには何も魅力を感じない。

 電源を落としたテレビには日和の顔が映っている。その表情は言及の必要もないほどに曇っていた。ぷいと顔を背けて、せめてもの反抗心で背伸びをする。気分は、少しも晴れなかった。

「余暇の時間が苦痛だ……」

 一人の部屋で、日和が独白する。

 退屈しのぎの、意味もない独り言だ。幼馴染に無用な心配を与えないため、愚痴を吐くのは独りきりの時だけにしようと決めている。そうしないと、心が破裂してしまいそうだった。

 ちょこん、とベッドの縁に腰掛けた。

「何か、することさえあれば……」

 アルバイトをしよう、と思ったことがある。

 震える脚を叱咤して、日和はなんとか面接に行った。だけど、何も上手くいかなかった。緊張した日和に対して、企業の担当者はとても優しかったのを覚えている。震える日和が話しやすいように気遣ってくれていたのを、彼女も肌で感じていたのだ。それなのに、うまく喋れなかった。何を聞かれても答えられなかった。日和のコミュニケーション能力は、社会生活を営む上で致命的な欠陥を抱えている。

「高校時代は、こんなんじゃなかったのに」

 友達も普通にいたし、と日和は虚勢を張る。

 気付けば日和は、布団に潜りこんでいた。

 悩んだり考え込んだりすると、布団に逃げ込む癖があるようだ。社会に向けていた意識を睡眠によって断絶させることで、心の平穏を保つつもりらしい。

 昼間に眠るから、夜に眠れない。心が潰れるような苦しみに襲われて、呑気に眠りこける幼馴染の隣へと逃げ込んでいた。未成年の日和には、谷汲から漂うアルコールの匂いが鬱陶しく感じることもある。でも、酒を飲んで惚ける谷汲の目元や、眠っている谷汲が普段よりも温かくなっている気がして、最近は考えを改めつつあった。

 でも、お酒は身体に悪い。

 その事実に縋りつくようにして、日和は谷汲を叱るフリをしていた。

 溜め息を吐いて布団を出る。高三の頃から使っているスマホを操作して、今日の晩御飯を考える。谷汲は気分屋で、特別に好きな食べ物がないイメージがある。昨日までハンバーグが大好物だと言っていたのに、今日になって急に梅干し茶漬けが世界一美味しい、などと言い出す子だ。彼女の気分に合わせて晩御飯を作るのは不可能と言ってもいい。谷汲がお昼休みの時間を見計らって、本人に食べたい物を聞くのが最も簡単な晩御飯の決め方だった。

「……っと。送信」

 何が食べたいか、仕事中の谷汲にメールを送ってみる。

 冷蔵庫の食材を調べていたら、谷汲から返信が来ていた。

『チャーハンが食べたいです』

「分かった。具材の指定は?」

『おいしいの』

 谷汲からの返事を見て、日和は思わず微笑んでしまった。

 スプーンを持ったクマが笑顔でご飯を待っているスタンプが送られてきている。

 瞼を閉じれば、幼馴染の姿を瞼の裏にいつでも描くことが出来た。一見すると、谷汲は理知的な女性だ。艶のある黒髪に細身フレームの眼鏡をかけ、いつも落ち着いた表情を浮かべている。日和と二人で歩いている時でも、谷汲はいつもクールな顔を崩さなかった。そんな谷汲にも可愛いところはあるのだ。例えば、メールの返信にかわいいクマさんのスタンプを使ってくるところとか。

「期待しててね」

 返事をして、日和は外出の準備を始めた。

 財布と携帯、それから買い物袋。必要なものを揃えて、日和はアパートを出た。向かう先は住んでいるアパートから自転車で五分のスーパーだ。平屋建てで、デカデカと掲げられた看板少し塗装が剥げている。谷汲と一緒に暮らし始めてから、日和が毎日のように通っている店だ。駅近のショッピングセンターも品揃えはいいけれど、この店に比べてお値段が張る。同じ商品を買うなら節約できた方がいいのだ。

 店内に入ると、日和は真っ直ぐに野菜コーナーへと向かった。

 かごを持って、色とりどりの野菜たちを吟味していく。

 チャーハンが食べたいと言われたが、難易度は高い。様々な具材、味付けによって自由な構成を組むことの出来るチャーハンは、作り手によって千差万別のものが出来上がるのだ。もし日和が男子中学生だったなら、最強のチャーハンを求めて試行錯誤を繰り返したはずだ。例えば、夏休みに毎日違う種類のチャーハンを作って自由研究の代わりにするとか。本当にやっておけば良かったな、などと考える程度には日和も凝り性の女の子である。

 ただ、そろそろ二十歳を迎えるオトナのレディーがそこまでの暴挙をするわけにもいかない。谷汲に喜んで貰えるように、その上で健康面にも配慮したメニューにしなくてはならない。考えた末、日和は野菜たっぷりの五目チャーハンを作ることにした。

 吟味した野菜を買い物かごに放り込む。残った野菜を明日の晩御飯に使うことも視野にいれつつ、お得に野菜を買い揃えていく。やや割高になっていたレタスは冷蔵庫に残っているのがメモによって判明して、日和はほっと息を吐いた。

 会計を済ませて、店を後にする。

 アパートを出てから日和が発した言葉は、会計をしてくれた店員さんに向けた「お願いします」のみだった。他人との接触が心身に与えるストレスは甚大で、回避に成功した日和は足早に家へと戻る。跳ねた食材が傷つかないよう、底にスポンジを敷いた保冷バッグを自転車の前かごへ乗せる。漕ぎ始めた自転車は、行きよりも帰りの方が軽く感じるのが不思議だった。ひょっとしたらタイヤやギアが温まっているのかも、と適当な考察をする余裕もあった。

「……今日は、いないな」

 裏道を走り、住宅街を抜けていくと、小さな公園が目に入る。

 ブランコと滑り台しかない、寂れた公園だ。今日は誰もいないけど、たまにスーツ姿のお姉さんが疲れた顔をして休憩しているのを見掛ける。手に持っている缶コーヒーはいつも同じ銘柄で、社会人ってのは大変なのだなと働いたことのない日和は未知の苦労に怯えてしまう。毎朝、平然とした顔で出社していく幼馴染が随分と遠くの存在にも思えてしまった。

 帰宅するなり、日和は調理に取り掛かる。

 谷汲がドが付くほどの下手くそなので、料理は日和一人で作っている。温かいものを食べてもらいたいから、最後の仕上げは谷汲が帰ってきてからやることに決めていたけれど、下準備も含めれば日和にはやらなければならないことが山積みだ。米を炊飯器にセットして、卵を常温に戻すため冷蔵庫から取り出しておく。簡単に中華スープも作って、作り置きしてある大根ナムルも軽く味見して味がひねていないことを確認した。

 完璧だ。

 今日の晩御飯は、中華セットである。

「……なっちゃん、喜んでくれるかなぁ」

 冷蔵庫には、谷汲が買ったビールを冷やしてある。

 帰ってきた幼馴染が晩御飯を美味しそうに食べてくれるのを想像しながら、日和はただ待ち続ける。谷汲が帰ってくるまで、日和は布団に潜って体力を回復しておくことにした。

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