朝餉

 翌朝、台所に立つ谷汲の姿があった。

 腰にはエプロンを巻いて、気合十分な姿だ。ただし、その手元は覚束ない。彼女に料理のスキルはなく、美味しいものを作るために努力したこともない。包丁の扱いにも慣れていない彼女は、ぷるぷると震えながらベーコンを切っていた。ようやく切り終えた不揃いなベーコンたちをフライパンの上に乗せる。火をつけた後でようやく、油を引いていないことを思いだした。

 どこまで焼けば完成なのだろう。

 じっと、谷汲はフライパンの上で丸まっていくベーコンを眺めていた。寒い台所でフライパンを暖房代わりにしていたら、日和が起きてきたようだ。寝惚け眼に同居人を探していた日和の目が驚きで見開かれていく。

「おはよ、なっちゃ……何してるの?」

「朝ご飯を作ろうとを思って」

「えー! 私が作ってあげるのに」

 パジャマ姿のまま現れた日和が、コンロの前で不動を貫いていた谷汲を押しのけた。彼女が手に持っている菜箸をもぎ取ると、フライパンに並んでいるベーコンたちをひっくり返していく。キツネ色……を通り過ぎてしまったようだ。カリカリになるまで火が通っている。

 焦げてしまったようだ。なぜ? と首を傾げた谷汲には、火を通すときにフライパンの上のものをひっくり返すという発想がなかった。片面が焦げてしまったのも、当然の話である。

「なっちゃん、卵出して」

「……はい」

「ポットに水入れて。電源入れてお湯用意して」

「……出来た」

「次は棚からコーンスープ準備」

 てきぱきと指示を出す日和に言われるまま、谷汲は動く。

 適材適所だ、と谷汲は思った。日和は何でもそつなくこなす。谷汲は日和がいなければ何も出来ない。一人暮らしを始めてすぐに日和が転がり込んできたのも、良縁の類なのだろう。日和が自立を目標に頑張るのを応援したい反面、私を捨てていくのかと頬を膨らませたくなる思いもある。だったら一人暮らしをせずに実家に戻ればよいだけの話なのだが、一度味わってしまった自由の風は手放せない。

 すっかり朝ご飯を作るのを諦めて、谷汲は卓袱台の前に座る。

 てこてこと台所を歩き回る幼馴染をぼんやりと眺めていた。

「なっちゃん、ご飯出来たよ」

「……ありがと」

「食べようか」

「うん」

 日和に促されて、谷汲が箸を握る。焦げてしまったベーコンを齧りながら、バターを塗ってもらった食パンを同時に頬張って風味と硬い食感を誤魔化していく。日和が作った目玉焼きは黄身が潰れて白身に染みていた。ベーコンを黄身に浸していたら、日和がコーンスープを持ってきてくれる。もぐもぐと朝ご飯を食べながら、谷汲は幼馴染に甘えすぎている自分に危機感を抱き始めていた。

 仕事はしている。

 それなりに優秀な社員として働いているつもりだ。だけど、谷汲は家のことを何もしていない。スキルが低すぎて、手伝わせても貰えないのだ。日和が自立して、もしも谷汲の家を出て行ってしまったなら、生活が出来るのか甚だ疑問だ。昨日、日和に見せてもらった写真の女性も素性が謎のままだし。不安要素しかない。不安を解消するために口を動かしていたら、いつの間にか食べるものがなくなっていた。

「いつもよりハイペースだね。お腹空いてたの?」

「……似たようなもの」

「それじゃ、もう一枚食べる? ジャム塗ってあげる」

「……よろしく」

 言った後で、そのくらいなら自力でやれるのでは? と谷汲に由来不明の自信が湧いてきた。焼きたてのトーストを持つ日和にずいと手を差し出すと、日和はやや不思議そうな顔をしながらも何も塗っていないパンを渡してくれた。小瓶からすくったオレンジジャムをパンに塗りつけていく。どうにも綺麗に塗れないのは、絵心の不足が原因だろうか。

「よし」

「なんかデコボコしてない?」

「食感の違いを楽しむためだよ」

「ジャムに食感も何もないでしょ」

 日和のツッコミに肩をすくめて、谷汲は食パンに口を付ける。味がまだらになっていて、なんだか統一感のないパンになってしまっていた。

 食パンにジャムを塗ることすら出来ない谷汲が一人暮らしを始めたのは、ただ格好がいいからという理由である。家事はまったく出来ないが、谷汲が時折見せる凝り性の片鱗に「大丈夫だろう」と両親も緩く送り出してくれた。

 あれから二年。日和がいないと、谷汲は朝ご飯も食べられないのだった。

 延々とジャムを塗り広げようと努力する谷汲に、日和が呆れたように笑っている。

「なっちゃんは細かいんだよ」

「日和は大雑把すぎる」

「はいはーい。ごちそうさまでした」

 日和は皿を重ねていくと、流し台の方に持っていく。時刻を確認すると、普段の朝食を食べ始める時間だった。今日は早起きをして台所に立ったこともあって、時間に余裕があるらしい。最後の一口を飲み込んだ谷汲が、コップを持って流し台へと向かう。洗い物を始めていた日和の横に立って、ぬっと腕を出した。

「私も手伝う」

「えっ。なんで」

「……そういう気分なので」

「なっちゃんは仕事の準備しなよ」

 ぐいっと押し退けられた谷汲は、不服そうな顔で日和の側に残った。

 別にすぐ出社するわけじゃない。少しくらい手伝ってもバチは当たらないはずだ。渋る日和を説得するために、谷汲は彼女の手元を見つめる。作業手順さえ守れば、誰だって食器洗いくらい出来るだろうとの考えた。皿を濡らして、スポンジで擦って、泡をすすいで、洗い終わったものをまとめる。最後にまとめて拭いて、乾燥機に突っ込めばお終いである。ヨシ、と谷汲は日和に背後から擦り寄った。

 抱き着かれた日和が、びくりと肩を震わせた。

「うわ、何?」

「やっぱり洗い物、したい」

「…………出来るの? ホントに?」

「完璧。手順覚えた」

 じっとりとした目つきになった日和が、それでも谷汲にスポンジを渡してくれた。

 腕まくりをして、気合十分の谷汲がまだ洗っていない皿に手を伸ばす。軽く水をかけて、スポンジをこすりつけようとしたところで日和に腕を掴まれた。

「はい。ストップ」

「……なぜゆえ?」

「卵が他のに移ると、匂いも映るのです」

「……どういうこと?」

 日和の言葉に、谷汲は更なる説明を求めた。

 まず、食器は汚れの少ないものから洗うのが鉄則だ。今回の朝ご飯では、食パンを乗せていた皿が一番汚れが少ない。その次にコーンスープを入れていた茶碗、ジャムに使ったスプーン、最後に卵と焦げかけのベーコンの順で洗うのだ。もし同じスポンジを使うならコップが最初になるのだが、匂い移りを気にする日和はコップと食器、そして調理器具でみっつのスポンジを使い分けていた。

 さて。

 食パンを乗せていたお皿は、もう日和が洗い終わっている。茶碗とスプーンは水を流し掛けるだけで見た目の汚れのほとんどが落ちた。日和に監修を受けながら、丁寧に洗って一所にまとめる。区切りがついたところで濯ぎを済ませ、乾燥機へと片付けた。最後に卵と油だ。

「水で流してー。掛けるだけじゃダメ。くずを流すの」

「……めんどくない?」

「ここをサボるとスポンジに食べかすが移って、大変なことになるよ」

「……ふむぅ」

 谷汲と日和では、凝り性を発揮するポイントが異なる。

 谷汲がテキトーに流そうとしたのは、日和にとってのこだわりポイントだったようだ。日和の言う通りにすると、確かに綺麗に洗えるし、スポンジも清潔に保てているような気がする。谷汲が感心していると、日和がこちらを見て微笑んだ。

 最後にフライパンも洗って片付けると、いつもの出勤準備の時間になった。エプロンを解いて荷物の用意を始めた谷汲の側で、日和が鼻歌を歌いながら掃除をしている。彼女が楽しそうなことに安心しつつ、谷汲は仕事用の鞄に制服を詰める。

 化粧台の前でメイクを始めた谷汲の隣に、ちょこんと日和が座った。

 その手には制服につけるはずの名札プレートが握られている。

「なっちゃん、名札」

「あ、忘れてた。ありがと」

「どーいたしまして」

 谷汲が急に朝ご飯を作り出したり、洗い物を手伝おうとした理由を、日和は聞こうとしなかった。互いに相手の秘密に踏み込まないまま、居心地の良い空間を探り合っているのだ。これでいいのだろうか、と微かな不安が胸中に芽生えたことに気付きながらも、どちらも言い出せないまま出勤時刻となる。

「行ってきます」

「うん。頑張ってね」

 リュックを左肩に掛けた谷汲が、振り返ることもなく玄関から出ていく。

 一人になった部屋で、残された日和は大きく背伸びをした。

「……自立、しないと」

 ぽつりと呟くと、日和は部屋に隠していたパンフレットを開く。

 ニートでも働ける場所を求めて、まずはハロワに行ってみよう。

 急に痛くなったお腹を押さえて、日和は薬を探すのだった。

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