日和紀保
陽より眩い
日和紀保はニートである。
高校を卒業して、大学へ進学したはずの彼女が谷汲の部屋へと転がり込んできたのは、谷汲が新社会人になってから僅か三日の出来事だった。初めての仕事、初めての一人暮らし、緊張と興奮で落ち着かない毎日を過ごしていた谷汲の元へ現れた日和の台詞を、谷汲は一言一句思い出せる。
『ねえ、なっちゃん。寂しくない?』
どんな言葉を返したのかは、忘れてしまった。
谷汲が覚えているのは、荷物を抱えた日和が玄関に立っている姿だ。
あれから二年近い歳月が過ぎても、谷汲は日和が家に来た理由を尋ねたことがなかった。のっぴきならない事情があったのだろう、と仔細な情報を聞かずとも納得している。
何より、谷汲に不満はない。
ふたりで一緒にご飯を食べて、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、そんな生活が過ごせる現状を満足している。家事の一切合切が出来ない彼女にとって、ハウスキーパーの役割をしてくれる日和は神様と言っても過言ではない。今日も美味しいご飯を食べさせてくれる日和に、谷汲は存分に甘えているのだった。
「今日も幸せでございます」
「急にどうしたの。もう酔った?」
「流石にそれは……あるかも」
この前の休みに買った、まだ飲んだことのないお酒を飲んでいる。バナナミルクのフレーバーが目新しい、変わった缶酎ハイだった。甘味のなかにも爽やかな風味があって、これなら風呂桶いっぱいでも飲みたいと思わせるお酒だった。
へらへらと笑いながら晩御飯を食べる谷汲を見て何を思ったか、日和がコホンと咳ばらいをした。
「あのね、なっちゃん」
「ん? なぁに」
「私、相談があるんだけど」
日和は真剣な表情を浮かべながら、惚けた顔の谷汲の前で正座をした。
仕事終わり、いつもの平凡な晩御飯時である。
缶酎ハイを傾けていた谷汲も、日和の剣幕に姿勢を正した。水道代やガス代がヤバいことになっている、とかじゃないようだ。その手の封筒が届いていたなら、晩御飯を食べる前に教えてくれているはずである。
「日和、それって大事な話?」
「……多分」
「そっか。では聞きます」
このタイミングで日和から話を切り出すのは珍しい。谷汲は少しだけ身構えて、話の続きを促した。深呼吸を挟んで、日和は一度席を立った。戻ってきた日和が差し出してきたのは、見慣れない茶封筒である。
「まずは、これを見てください」
「……ふむ」
照明に透かしても中身はよく分からない。
少しだけ、覚悟がいる部類かもしれない。
取り出してみると、封筒には一枚の写真が入っていた。谷汲の知らない、ひとりの女性の姿が映っている。やや茶色みがかった黒髪に、意志の強そうな瞳。背丈は日和と同じくらいだろうか。スーツを着こなし、携帯を片手にコーヒーを飲んでいる姿が格好いい。キャリアウーマンだ、と谷汲が呟いた声に日和が眉根を寄せている。
「一目惚れとかしないよーに」
「しないよ。ただの写真じゃん」
写真を返却した谷汲が発したのは、当然の疑問だ。
「……それ、誰?」
写真に写っている女性は、日和に似ていた。
わざわざ谷汲に見せて来たからには、相応の理由があって然るべきだ。ひょっとすると、日和の姉だろうか。長年の付き合いがあるけれど、互いに相手の家庭の事情は知らないままに過ごしていた。写真の女性が日和の姉だとしても、谷汲には全く面識がないのである。不安げに見つめる谷汲へ、日和は首を横に振った。
「まだ、言えない」
「意味深じゃん」
「……それでも、相談したいことがあるんだもん」
珍しく食い下がる日和を前に、谷汲が黙って缶酎ハイを口に含んだ。
日和がこんなにも必死になっている理由は何だろうと、谷汲は思索の海に潜る。突拍子もない話だが、もしや、この女性は日和の恋人だろうか。谷汲が仕事で家を空けている間に、見知らぬ女性と親睦を深めていた可能性もゼロではない。考えたくはないのに、そんなことを考えてしまう。
谷汲を甘やかし、谷汲に甘える。それが日和の日常だと思っていた。谷汲も、自分に出来る範囲で彼女を甘やかしているつもりだった。ぬるま湯のような生活がいつ終わっても不思議じゃないと実感した瞬間、胃袋の底がきゅぅっと締め付けられる感覚に襲われ、谷汲は首を横に振った。
「やめとこ……もう考えない……」
「なっちゃん、聞いてる?」
「うん。なんとか……」
流石に、日和の恋人ではないだろう。
そうであれば事前に紹介があっても良いはずだ。
何度も言い訳みたいな言葉を繰り返して、谷汲はようやく平静を取り戻した。谷汲の胸の奥がチクリと痛む。痛みを誤魔化すように、谷汲はもう一口、アルコールを流し込んだ。今日は酔いが回りすぎている。妄想が止まらないのも、そのせいだろう。
「私ね、今度こそ頑張ろうと思うの!」
「何を?」
「……自立する!」
日和の言葉の意味が理解出来ず、谷汲の思考回路はフリーズした。
今の写真は何? とか。
就職するの? とか。
色々言いたいことを飲み込んで、谷汲は拍手をするにとどめた。考えるべきことが多すぎて、谷汲の頭を弱い鈍痛が襲う。日和が本気で自立したがっているなら、それを止めることはない。だけど、そのために乗り越えなければならない壁があまりにも多すぎるのだ。
日和、と言い掛けて谷汲が首を横に振る。
「紀保ちゃん。具体的な目標はあるの?」
「まずは就職します」
「どこに?」
「……それは、これから決めます」
「あぁ……」
やっぱりね、と谷汲が苦笑した。この調子だと、きっと日和は社会に出るまで時間を要するのだろう。知らない女と駆け落ちして谷汲の部屋から出ていくなど、想像するだけ無駄な妄想だ。そもそも、日和が自分から出ていくなんてあり得ない。貯金もないし、人込みは苦手だし、谷汲とは別ベクトルのダメ人間なのだから。
日和が、ふふんと鼻を鳴らして得意気に微笑んでいる。
その自信に満ちた笑顔が眩しく見えて、谷汲は目を細めた。
彼女が望むのならば、谷汲はどんな協力だって惜しまないつもりだ。でも、もしも日和が自立を理由に自分の元を離れるのならば――。
「まず、私はハロワに行きます」
「転職支援サイトじゃダメなの?」
「大学中退って書くと、途端にお給料下がるので……」
「世知辛いねぇ」
日和の手伝いをする振りをしながら、谷汲の手は動かない。
自分の知らない日和が増えていくのが。堪らなく嫌なことに思えて。そんな自分が途方もなく醜い存在に思えて、谷汲は缶酎ハイに手を伸ばす。
日和の決意に水を差すような真似はしたくない。谷汲は自分にそう言い聞かせる。しかし、同時に、日和が自分の知らないところで成長していくのも耐えられない。相反する感情が思考を鈍らせて、せっかく美味しかったはずのお酒もどこか酸っぱく感じてしまう。
「日和、さっきの写真の女性は誰?」
「うーん。秘密。自立を決意した一因ではあるけれど」
「ふーん。教えてよ」
「だーめ。秘密」
普段と変わらない軽口で応える日和が。
今の谷汲には、目を瞑りたくなるほど眩しいのだった。
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