花粉

 桜が開花するには、まだ早い。

 仕事から帰って雑事をこなし、あとは寝るだけになった谷汲がベッドに寝転がっていた。いつも通りの平々凡々な日で、特別なイベントなど起こるはずもない。暇を持て余した谷汲は、ぼんやりと考え事をしていた。

 どこかへ、遊びに行きたい。

 お花見はいつになるのやら、と谷汲はスマホのカレンダーを眺める。ぼーっとしていたら、くしゅんと可愛らしい音が聞こえた。音の発生源へと視線を向けると、日和が鼻を抑えている。続けざまにもう一度、くしゅんと日和が肩を振るわせた。

「風邪?」

「じゃないと思う。だって熱は」

 言い終わるより早く、日和がくしゃみを繰り返した。

 埃が多い部屋ではくしゃみが出やすいと聞くけれど、まさか日和が掃除をサボるはずもない。熱が出ないタイプの風邪もあるし、と谷汲が薬を取りに向かったところであることに気付いた。

 春先に特有の、くしゃみが良く出るアレである。

 てってと日和の元へと歩み寄って、鼻を擦る彼女の顔を覗き込む。顔色は悪くないし、瞳孔にも不審な感じは見受けられない。それでもくしゃみは止まらなくて、なんだか体調が悪そうだ。

 体調を崩す原因には生活環境の変化、ありていに言えばストレスなんかも挙げられるが、日和が谷汲の元に転がり込んでから随分と経っている。その線は考えなくても良いだろう。

「……日和、花粉症?」

「いや、私はなったことないよ」

「あれ、ただの体質ってわけでもないんだぜ」

「……どーいうこと?」

 首を傾げた日和のために、谷汲は説明をしてあげることにした。

 花粉症とは、アレルギー反応によって引き起こされる病気である。花粉が体内に入ることで、それを異物と判断した身体が反応を起こすのだ。免疫が働いている証左でもあるものの、くしゃみや鼻水、目のかゆみなどを伴うためありがたみは薄い。

 抗体の量によって花粉症になるか否かが決まるため、ある日突然――というパターンも決してあり得ない話ではないのだ。

 スマホを操作して直近の花粉情報を調べてみると、ここ数日で飛躍的に花粉症の主な原因となる植物の花粉が増えているらしかった。体内の抗体が増え、日和の花粉症が発症した可能性もあるだろう。まぁ、医学的には素人の谷汲が、スマホを片手に調べた情報である。より仔細で正確な情報は、医者に聞いてみなければ分からないだろう。

「日和、目は痒くないの」

「うーん、ちょっと痒いかも」

「やっぱり花粉症じゃん」

「違うって。なったことないもん」

 暖簾に腕押し、豆腐に鎹。

 日和との会話が堂々巡りを繰り返していることに気付いて、谷汲は口を噤んだ。

 谷汲の幼馴染は、妙なところで頑固ちゃんだ。くしゃみに続いて鼻水が止まらなくなってきた日和にティッシュの箱を手渡して、谷汲は頭を抱える。どうしたら、日和に自分が花粉症であることを納得させられるのだろうか。考えた末、谷汲はひとつの結論に達した。

「明日、病院に行く?」

「ヤだ」

「……だって、花粉症じゃないなら風邪だし」

「うー。それは……」

 病院に行かない言い訳を探して、日和が唸る。

 だが、解決策は生憎と見つからなかったようだ。

 しばらく悩んだ後で、観念したように日和は両手を挙げた。降参のポーズだ。

 人混みが苦手な日和は病院も得意ではない。例え寂れた病院であっても医師とのマンツーマンがあまり好きじゃないようで、極力病院に行かなくてもよい方法を探っているようだ。日々の健康に気を遣っているのも、病院に行きたくないがための努力なのかもしれない。

 鼻をかむうちにやや赤くなった鼻頭を擦って、日和が不満げな顔になる。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの、と唇を尖らせているようだ。

「花粉症って、なるものなの?」

「そうみたいだよ。ほら」

 自分の言葉だけでは信頼してもらえないだろう。

 そう判断した谷汲がスマホを手早く操作する。

 県立病院が運営しているホームページを開くと、そこには花粉症についてのあらましが掲載されていた。体内の抗体の多寡によって症状が出る、出ない。そして症状が重い、軽いの区別があるようだ。小学生の頃は抗体が少なかったために花粉症にならなかった人でも。大人になるにつれて抗体が増えていって、ある日突然にくしゃみや鼻水に悩まされる。そういうことがあるらしい。

「なんてこったい」

「……日和、だいぶん頭が回ってないね」

「うん。くしゃみのせいで酸素足りてないや」

 目も痒いのだろう。日和はしきりに目をしばたたかせている。

 すでにお酒を飲んでしまった谷汲が近所の薬局へと走るわけにもいかず、日和は痒みを我慢している。水で軽く目を洗って、やや痒みは引いたようだが、鼻水ばかりはどうしようもない。鼻うがいをする手もあったけれど、痛いのが嫌だと日和はくしゃみに耐える道を選ぶようだ。

 辛そうな幼馴染を膝にのせて甘やかした谷汲が、ふと妙なことに気付いてしまった。

「そういえば、日和って外に出るときはマスクしてるよね」

「うん。当たり前じゃない」

「マスクしてても、花粉って貫通するんだ」

「…………なっちゃん」

「ジョーク。ジョークだよ、わはは」

 マスクがあれば病原菌も花粉も、ほとんどのものがシャットダウンできると思っていた。なんてことは口が裂けても漏らしてしまわないように、谷汲は気を引き締める。

「お花見、日和を連れて行っても大丈夫かなぁ」

「……そのときは、病院でお薬貰います」

「ん。じゃ、病院には私も付き添ってあげるね」

「ひとりで行けるもんね」

 ぷい、と顔を背けてしまった日和の背を撫でる。

 くしゅん、と日和がまたくしゃみをした。弱っている日和の姿も可愛いけれど、なんだか可哀そうで、複雑な心境である。とりあえず、明日は薬局によって目薬とか諸々を買ってきてあげようと考える谷汲であった。

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