中華語り
仕事中の昼休み。
スマホを眺めていた谷汲に衝撃が走った。
「先輩、これ見て」
「なに? ……なに?」
「ですよね。すごいショックです」
「待ちなさい。今、どこで通じ合ったと思ったの」
虚空に向かって何度も頷く谷汲は、先輩にもう一度スマホの画面を向けた。
そこには谷汲が高校時代の友人、大野とやり取りしていたメッセージが表示されている。大野から送信された写真が、谷汲にショックを与えた原因らしい。お弁当を食べる手を止めて、先輩がじっと画面を見つめる。その写真をアップにすると、どうやら中華料理店の軒先に張り紙がしてあるらしい。ややピントのぼやけた文字を読み解いて、先輩が呟いた。
「閉店……?」
「そうです。お店って、本当に潰れるんですね」
「栄枯盛衰ってやつよね。
「高校の頃、友達とよく行った場所だったので」
「なるほど。それでショックだったと」
ようやく理解できた、と先輩が安堵の息を漏らした。
大野に誘われて、谷汲が何度も訪れた店舗だった。学校から程々に近くて、料理も濃い目の味付けで美味しかった。量の割に値段もリーズナブルだし、居心地の良い店だった。時間帯によっては、近所の大学の運動部でごった返していることもあったけれど、あれも良い思い出だ。外から眺めている分には賑やかで面白いし。
学生の財布に優しい店として重宝していたが、時代の流れには逆らえないのだろうか。思い出の場所がひとつずつ消えていく。それが、大人になると言うことなのかもしれない。
「なんだかショックですけど、最近は行ってなかったんですよね……」
「そうなの。趨勢なら諦めるしかないでしょうね」
「はー。ここのレバニラ美味しかったのになぁ……」
食堂の麻婆丼にレンゲを突っ込んで、谷汲が愚痴を零した。
食堂のご飯だって、特別に不味くはない。悪いところを上げるのは難しく、良いところを並べるのも難しい。いわば普通のご飯である。それと比べればあのお店で食べるご飯のなんと美味しかったことか。唐揚げ定食は勿論、餃子も最高に美味しい。中華料理の定番、麻婆豆腐や青椒肉麺も文句なしの味付けだった。
「先輩は、ここ行ったことあります?」
「うーん。記憶にないわね」
「そうですか。そうなんですねぇ……」
「……そんなに美味しかったの?」
「そりゃ、もう。聞いてくださいよ」
先輩は興味を持ったことを後悔したような顔をしたが、谷汲は構うことなく喋り始める。楽しかった思い出に対して、彼女はどこまでも饒舌になるのだ。
「特に私が気に入っていたのはですね」
と前置きを挟んで、谷汲が喋り始める。
谷汲が好んで注文していたのは、レバニラと油淋鶏だ。
あの店のレバニラは、とにかく臭みがないレバーが魅力だった。下処理をよほど丁寧にやっていたのか、噛めば噛むほど肉の味わいが口に広がっていくのに、特有の臭みはどこにも感じない。野菜の火加減もバッチリで、しっかり熱が通っているのにシャキシャキと歯ごたえがあって、とにかく美味しかった。
そして、油淋鶏。鶏肉がぱりっと揚がっていて、甘酸っぱいタレがたっぷりと絡んでいる。一口食べれば、じゅわりと広がる脂の旨みがたまらない。隠す気のない隠し味として、あの店の油淋鶏はマヨネーズが掛けてあった。初めて見た時はびっくりしたけれど、元々のタレが甘めの酢を使っているのだ。酸味を持つマヨネーズが合わないわけもなく、お酒を飲めるようになった今になってみれば、アレほどビールに合うものもないだろうと思った。
「もう、とかく美味しいんですよね」
「あなた、さっきから美味しいしか言ってないわね」
「事実ですから」
笑ったはずの谷汲の顔に影が落ちる。
好きだった中華料理店が閉店する。
谷汲にとっては、結構なショックだった。社会人になってからは通っていなかったけれど、いざなくなってしまうとなると当時の味を思い出して食べたくなってしまう。思い出補正もあるだろうが、それでもなお、あのお店で食べた中華料理は美味しいものだった。
「……おっと」
思い出に浸っていた谷汲が、思い出したようにお昼ご飯を食べ始めた。喋っているうちに冷めてしまった麻婆丼は、丼椀に若干の温もりが残っている程度だ。これ以上冷めてしまう前に、と谷汲はやや慌ててレンゲを動かした。
変わっていくことも多いけれど、日々の生活は連綿と続いていく。嫌なことがあっても、嬉しいことがあっても、明日がやってくることだけは変わらないのだ。日々の生活にはお金が必要で、だから仕事をしている。それが、社会人なのだと信じることにした。
順調に食べ進めていた谷汲が、ちょっとむせる。山椒が辛かったらしい。
「うーん。どうして山椒が入っているんだろう」
「あなた、山椒が苦手なのに麻婆丼選んだのよ」
首を傾げながら食事をする谷汲を眺めながら、先輩が苦笑する。
ふと、先輩が谷汲の広げる写真へと目を向ける。潰れかかった文字は読み解くのに苦労して、早々に諦めた先輩が店の名前を自分のスマホで検索する。出てきた店舗から情報を拾うと、彼女は隣で麻婆丼を食べ終えた谷汲の肩をつついた。
「これ見て」
「……?」
「良かったわね」
「ちょ、ちょっと待って。もっとよく見せてくださいよ」
意地悪に笑う先輩からスマホを借りて、谷汲が画面を食い入るように見つめる。
先輩が調べ上げたのは、件の中華料理屋のホームページだ。どうやら、閉店に至った経緯が書かれているらしい。店舗の老朽化と、お客さんの増加によって満足のいく接客が出来なくなったことが原因らしい。トップページを飾っていた店長と、その隣にいた若い青年が頭を深々と下げている。
が、スクロールした瞬間、谷汲の目が点になった。
「なんすかコレ」
「なんでしょうね」
新店舗紹介! と
最後まで読み終えて、谷汲はほっと息を吐いた。
「店舗が移転するんですね」
「だから、古い方は閉店と。良かったじゃない」
「はい。いやー、あのレバニラがまだ食べられるんですねぇ……」
料理する人達が変わらないなら、新店舗でもあの味が食べられるだろう。ひょっとすると、もっと美味しい味になっているかもしれない。空っぽになった丼を前にして、谷汲は想像上の胃袋が空腹を訴える音を聞いた。現実の身体は満腹なのに、あの味をもう一度、と飢えた心が叫んでいるのが聞こえる。
こんどの休み、日和を誘って食べに行こう。
谷汲は、お花見の予定も忘れてそんなことを考えた。
スマホを見ていた先輩が、感心したように声をあげる。
「本当に美味しいのね。お客さんから、新店舗へのお祝いメッセージが来ているみたい。コメント欄も結構にぎわっているわね」
「あ、先輩も行きます? この前のお礼も兼ねて、私がおごりますよ」
「いいの? それじゃ甘えようかしら」
そう言いながらも、彼女は首を横に振った。
それから、いたずらっぽく笑ってこう言った。
「名草が奢ってくれた分だけ、私もあなたにご馳走するわ」
ふたりは顔を見合わせて笑い合う。
それは、とても楽しい約束だった。
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