仕事

 谷汲名草は会社員だ。

 すっかりアルコールの抜けた彼女は、真面目に仕事をしている。

 谷汲は地元の会社で事務員をしていた。高校を卒業して働き始めた、今年で二年目の新人である。といっても、仕事をこなす量は十年選手の先輩とたいして変わらない。それだけ谷汲は器量が良く、そして他人から頼まれた仕事を断れないお人好しだった。

 今日も今日とて、彼女はパソコンと向き合っていた。無表情のまま、カタカタとキードーボを叩き続ける。現場の作業者が持ってきた資料と、パソコンのディスプレイとを交互に眺めながら資料を作成していく。

 一区切りがついたところで、谷汲は小さく息を吐いた。

「ぷふう。疲れた」

「頑張れ、名草ちゃん。どこまで終わった?」

「先週の水曜分……ですかね」

「うわっ、早いね。もう半分出来たんだ」

「私の特技ですから。早打ちするの」

 先輩の女性社員に褒められて気をよくした谷汲は、再び仕事に取り掛かる。まだ十数枚に及ぶ資料が、彼女の机に控えていた。

 今日の谷汲は、普段の事務仕事を一時中断して別の作業をしていた。製品の加工データを集計して、出来ばえに変化傾向がないかを調べるための資料を作成している。作業者によって読みやすさに天地の差がある文字列を読み解きながら、彼女はテンキーを叩き続けた。

 本来なら調べる必要もない数値だ。規格内だし、顧客からの要件は完璧に満たしている。それでも抜き取り検査の欠点として、不良品が排出される可能性があった。顧客は、それが許せないらしい。ならば全数検査にしてしまえばよいのだが、コストやら何やら、大人の事情とやらで揉めているようだ。

 これが、請負会社の悲哀ってものである。

 資料をめくって、次のページへ移る。

 ふと思い出して、谷汲は隣で作業をする先輩社員へと声を掛けた。

「課長さん、大丈夫ですかね」

「ん? なんで?」

「朝礼でも、随分と体調悪そうでしたけど」

「まぁ、いつものことじゃん」

 あっけらかんと笑った先輩の隣で、谷汲は肩をすくめた。

 彼女の脳裏に浮かぶのは、目にクマを作ってふらついていた課長の姿である。妻子を持つ中年男性で、人当たりの良いおじさんだった。最近は顧客からパワハラまがいの要求をされていて、最憔悴した姿を見ることが多い。工場が24時間稼働しているのもあって、深夜帯に電話が掛かってくることも多いようだ。彼のように心身を削って働く人がいなくても社会が回っていけばいいのに、と谷汲は少しだけ寂しい気持ちになった。

 考え事をしながらも、谷汲は仕事の手を止めない。

 もう一枚、と資料を捲ったところで提出期限を聞いていないのを思い出した。

「これ、期限は……あれ……?」

「おっ。名草ちゃん、何か問題あった?」

「先輩、この資料の提出期限っていつでしたっけ」

「書いてないの? ははーん、課長のミスだな」

 事務室に置かれた受話器を取って、先輩がどこかへと電話を掛ける。少し話した後、彼女は事務室を出て行ってしまった。半開きになった事務室の扉へと時折視線を送りつつ、谷汲は自分の作業を続けた。ぺらりと資料をめくったところで、事務室の扉が勢いよく押し開けられる。先輩が帰ってきたようだ。その手には数枚の紙が握られていて、席に着くと同時に谷汲へと差し出してきた。

「聞いてきたよ。資料は月曜日までに欲しいんだって。あと、これ追加ね」

「ありがとうございます、先輩」

「どういたしまして。締切、名草ちゃんなら余裕でしょ?」

「ふふっ。任せてくださいよ。今日中に仕上げますから」

 指でハートを作って、先輩にウィンクを飛ばす。

 谷汲の自信満々なポーズを見た彼女は肩を揺すって笑った。先輩が笑うと、薬指にはめた指輪が微かに光を反射する。綺麗だな、と思った。

 名草の先輩は、伸ばした黒髪がよく似合う美人さんだった。サバサバした性格の持ち主で、今日みたいに谷汲が困っていたら手を差し伸べてくる。彼女がこの先輩に懐いているのも、至極当然の話だった。

「……よしっ。頑張ろう」

 カタカタとキーボードを叩く。

 打ち込んだ数値をもとにグラフを作成すると、製品の加工データには一律の傾向が出ていた。加工部の定期メンテナンスが入ってから、次のメンテナンスまでの間で、徐々に精度が悪化していくのだ。これは予測の範疇だろうが、顧客からはどんなツッコミが入るのだろう。部品が劣化するのは当然の摂理だけど、なぜ劣化するの? とか普通に聞いてくるらしいし。数字しか見ない奴らめ、と課長は谷汲の知らないお客さんに向けて怨嗟をこぼしていた。

 まぁ、これも仕事である。

「このデータは……っと」

 谷汲は慣れた手つきでパソコンを操作して、メールにファイルを添付した。必要事項を記入して、課長へ向けて送信する。情報の共有も必要だろうと、係長や現場の主任にもCCで同時にメールを送る。課長から受け取った加工データの紙束を整理していたら、メールに返信がついていた。お辞儀をする顔文字とに、「早いね! いつもありがとうございます」の一言が添えられている。仕事なんだから別にいいのに、と思いつつも谷汲は心が満たされていくのを感じた。

「……ふふ」

「お? 終わったのかね」

「はい。完璧です」

 得意げに胸を張る谷汲を見て、先輩社員は微笑んだ。

 昼休みになるまで別件の作業をして、食堂が混雑しない時間帯を見計らって席を立った。広い工場だ。休憩スペースはいくつかあるが、食堂はひとつしかない。作業者が全員で押し掛ければパンクしてしまうから、時間を適宜ずらしてご飯を食べに行かなければ座ることも出来なかった。

 食堂入口から様子を窺う。どこもかしこもおじさんだらけの、華々しさとは縁遠い空間だ。でも、最繁期と比べれば余裕がある。自由な席に座れそうだった。

 ふたりは手を洗ってから、それぞれの昼食を準備しに向かった。

 食堂に備え付けられた電子レンジでお弁当を温めに行った先輩を見送り、谷汲は定食の列に並ぶ。今日は生姜焼き定食らしい。男性が多く、力仕事も多い職場だ。食費の補助もあって、お値段の割に量が多いのが嬉しかった。トレーに定食を受け取って、谷汲は電子レンジの方へと向かう。ちょうど温め終わった先輩と同流して、人気の少ない場所を探して食堂を歩いた。

 やや遠いが、窓際、空調機の側が空いている。

 ふたりは横並びの席について、いただきますと手を合わせた。谷汲は味噌汁を口に含んで、ほぅと息を吐く。まだ肌寒い時期が続いていることもあって、温かい食べ物が美味しい。日和が家で作ってくれる味噌汁は合わせ味噌だから、食堂の赤味噌は珍しさもあって気に入っていた。

 生姜焼きを食べながら、先輩のお弁当を覗き込む。可愛いお弁当だった。小さなハンバーグにタコさんウインナー、卵焼きにブロッコリーとプチトマト。彩豊かだけど、レンジで温めることも考慮しておかずを分けてある。かしこい、と谷汲は小学生みたいな感想を漏らした。彼女は料理が苦手なのだ。

 谷汲の視線に気付いたのか、先輩が箸を止めてこちらを見る。

 そして、自慢げにタコさんウィンナーをつまみあげた。

「どうよ。可愛いでしょ」

「意外です。普段の先輩からは想像もできません」

「ちょっと、どういう意味よ」

 素直な感想を告げると、彼女は唇を尖らせた。

 その仕草が可愛くて、谷汲は小さく笑った。先輩がウィンナーに口をつけると、ぷすっと音を立てて、タコの頭が割れた。私なら足から食べるのに、と残されたタコの下半身を眺める。

「先輩、たい焼きも頭から食べる人ですよね」

「……なんで分かるの?」

「教えませーん。怒られるので」

「逆に気になるんだけど。まぁ、許してあげる」

 ひょい、と残っていたタコを頬張ってご飯へと箸を伸ばした。

 先輩は大雑把な人だ。自分の世界を持っている、と表現した方が適切だろうか。昔は内向的な少女だったと公言しているけれど、その割には他人の領域へ踏み込むことを躊躇しない。課長が相手だろうと構わず電話を掛け、資料を請求し、自分の仕事を進めていく事務のプロフェッショナルだ。分からないところを聞けば教えてくれるし、困ったことがあれば助けてくれる。とても頼れる先輩だった。

 生姜焼きのタレで味のついたキャベツを食べながら、谷汲は話を続ける。

「そのお弁当って、旦那さんにも作っているんですよね?」

「うん。そうだけど」

「先輩の旦那さんって、どんな仕事をしているんですか」

「秘密よ。あまり他人には教えられない仕事だから」

「犯罪っすか」

 テンポよく返した谷汲の背中に、先輩から平手打ちが飛んできた。痛みはなく、ただ軽快な音だけが響く。派手な音に振り返った近くの中年男性へ、なんでもないよと手を振って誤魔化す。男性は少し怪しげに眉を寄せたが、すぐに興味をなくして食事に戻った。

「吃驚するじゃないですか」

 谷汲は小声で先輩を咎める。彼女は悪戯っぽく笑って、ごめんと謝った。

 他愛のないやり取りをしていると、不意に、谷汲の携帯電話が震える。日和からメールが来ていた。今日の晩御飯は何が食べたいかを尋ねられて、寿司と天ぷらと返す。頬を膨らませたお餅のスタンプが送られてきた。ダメだったらしい。妥協案として谷汲が提案したメニューは、 天ぷらうどんだった。和食が食べたい気分だが、衣のついた何かも食べたい。トンカツでも良いけれど、お昼ご飯が生姜焼きだから肉と肉で被ってしまう。そう考えての結論である。

 今度はニコやかに笑うくまちゃんのスタンプが送られてきた。谷汲の提案は通ったようだ。ほっと胸を撫でおろして箸を握り直した谷汲に、先輩が話しかけてくる。

「彼女?」

「幼馴染です。恋人じゃないので」

「あら。まだ進展してないの」

「……はーっ、私は先輩とは違うんで」

 先輩と旦那さんの馴れ初めは、少しだけなら聞いたことがある。高校の入学式を一日間違えたとかで、誰もいない体育館で出会ったのだ。運命的な失敗だったと口述する先輩は、それでも緩む口元を隠さない。

「先輩、旦那さんのこと好きですよねぇ」

「……まぁ、一目惚れの相手だし」

「うわっ、また惚気られた」

「名草ちゃんが悪いのよ。私に旦那の話を振ったから」

 ニヤついた顔で揶揄う素振りを隠さない先輩に、谷汲は舌と反抗心を向けた。

 あれやこれやと喋りながら、楽しい昼休みは過ぎていく。時折、先輩の薬指にはめられた結婚指輪を眺めながら、谷汲は不意に浮かぶ羨望を手放せなかった。

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