飲酒

 この世には二種類の人間がいる。

 酒を飲める人と、そうでない人。

 そして、谷汲名草は前者だった。二十歳の誕生日に缶酎ハイを飲んで以来、彼女はアルコールに魅了されている。晩酌は日課となり、趣味のない彼女にとっては尊い楽しみのひとつになっていた。

 仕事が忙しくなれば酒の量が増え、仕事で辛いことがあれば酒の量が増える。典型的な、アルコール依存症の一歩手前の領域にまで踏み込んでいる。それでも仕事の同僚にはバレていないのが、せめてもの救いと言えるだろう。まだ飲み始めてから半年とは思えないほど、彼女は酒を楽しんでいた。

 酒を飲める人も、大きく二種類に分けられる。

 酒に溺れる人と、そうではない人。

 谷汲名草は、残念ながら前者だった。

「……あぁ、頭痛い……」

 目を覚ました瞬間、谷汲を襲ったのは鈍痛だ。

 思わずこめかみを押さえて、小さくうめく。

 ベッドのそばの棚に置いたはずの眼鏡を探して手を伸ばすと、指先に触れた何かが床へと転がっていく。昨日の夜に飲んでいた酒の空き缶だ。キウイの果汁を贅沢に使ったフルーツサワーである。目が覚めるような華やかな香りと、穏やかな気分になる爽やかな味わいが美味しかったのを覚えていた。

 ただ、同じデザインの缶が他にも数本転がっている。

 どうやら飲みすぎてしまったようだ。

「う……ぅ……」

 ベッドから起き上がった谷汲は、横に日和が寝ているのに気が付いた。せっかく別々に布団を用意してあるのに、彼女はこうして谷汲のベッドに潜り込んでくることが多い。いっそのこと日和の布団は片付けてしまえばいいとも思うのだが……。

「やめた。今は酔い覚ましが先だ」

 なんだか言い出せないまま、谷汲はベッドを降りた。

 台所へと向かった谷汲は、蛇口を捻って水を出す。勢いよく跳ねた水飛沫に文句を言いながらも、近くにあったコップで軽く水を飲んだ。蛇口に口を近づけて飲む方が楽なのだが、酔っている時に胃袋を押さえるような姿勢は避けた方がいい。それを、彼女はこの半年で学んでいた。つまりは、それだけ酒カスとしての自堕落な日々を送っているという情けない話なのだが、彼女は特に気にしていなかった。

 だって、お酒は美味しいものだから。

 特に、幼馴染と駄弁りながら飲むお酒は最高だ。

 ひょいと部屋を覗いた谷汲は、まだ幼馴染が布団にくるまっているのを確認してコップを流しに片付ける。

「日和は、まだ寝てそうだな」

 安らかな寝息を立てる幼馴染を起こさないように、谷汲はそっと部屋に戻った。

 モノが雑多に置かれた、狭い部屋だ。幼馴染が使っていたはずの布団を畳むと、谷汲はベッドに横たわる日和へと視線を向ける。静かに上下する胸元に、幼馴染の眠りが深いことを悟った。

「のんきなものだねぇ。いたずらしちゃうぞ」

 布団に手を突っ込んで、日和の手を握った。布団で温められた手の平には、僅かに汗が浮かんでいる。日和の肩に頭を預けて、彼女は幼馴染の手を握り続けた。

 谷汲が住んでいるのは、平々凡々なアパートだ。特筆することもないワンルームのアパートで、家賃は二万円。安い理由は、近場に新しいマンション群が増えたからである。駅から遠くて築年数も古いアパートは、値下げしなければ入居者を集めるのも難しいと大家のおばちゃんが嘆いていた。

 住めば都と考える谷汲にとっては、願ったり叶ったりの話だった。

「ひよちゃーん。……起きないな」

 まだ起きない幼馴染へと、谷汲はにじり寄る。

 童顔な、日和の頬に指を沈ませてみた。とても柔らかくて触り心地がいい。自分の薄い頬肉と、幼馴染の柔らかな頬っぺたの差はどこで生まれたのだろうと首を捻る。社会のストレスに日々晒される社会人と、悠々自適な自宅警備員との違いだろう、と眠り惚ける幼馴染の頬を突く。

 幼馴染へのしょうもない悪戯を続けながら、彼女はもう一方の手でスマホの電源を入れた。お気に入りの漫画のページを切り取ったホーム画面には、今日の日付と曜日が表示されている。

「今日は日曜か」

 まだ飲めるな、と思った彼女は冷蔵庫を漁ることにした。部屋を出て、鼻歌混じりに小型冷蔵庫の扉を開く。しかし、中にはお酒以外のものが入っていない。日和が毎朝飲んでいる牛乳が入っているくらいで、他には何もないようだ。つまみがなければ、お酒の楽しみも半減してしまう。

「うーん。困ったな……」

 そこまで暴飲暴食をした記憶はないが、と言い掛けたところで谷汲は口を噤む。よく考えてみれば、昨日の自分が何を食べたのかも明確に思い出せなかった。飲みすぎだ。

 確か、マシュマロを食べながら映画を観ていたような気がする。古めのアクション映画だ。究極のサッカーとやらを存分に味わうことの出来る、コメディ色の強い香港映画だった。

「ふぁあ……ダメだ。考え事すると欠伸が出る」

 気分転換に買い物でも行こうかと、谷汲は出掛ける準備を進める。着替えを済ませて、簡単に化粧をして、準備万端に玄関へと向かった。玄関脇のコルクボードに掛けてあるクルマの鍵を指先に引っ掛けて、景気よくアパートのドアを開ける。外は晴れていて、陽光が眩しかった。

「……眩しい」

 用意を済ませたはいいものの、スカっと晴れ渡った晴天に眩暈がした。あんまり天気が良すぎても、インドア派の谷汲には逆効果だ。不思議と、ドアの外へ踏み出すのが億劫になってしまう。

「……つまみなしで飲むか」

 ダメ人間の階段を更に上ろうと彼女が不穏な決意を口にしたところで、不意に背中をつつかれた。振り返ると、吸い込まれそうなほど深い欠伸で出迎えてくれる。

 日和紀保だ。

 小柄な体躯に、幼い顔立ち。髪は長い黒髪を後ろで纏めており、寝起きのまま、桃色のパジャマ姿だった。傍目には、中学生にしか見えない女の子である。

 眠そうな目元を擦って、彼女は再びの欠伸をした。

「おはよ、なっちゃん」

「……おはよう」

「どうしたの? 元気ないね?」

「……ちょっと二日酔いで」

「なっちゃん、お酒ばっかり飲んでたら、体壊しちゃうよ」

 ごめん、と呟いた谷汲の声は彼女に届いただろうか。腰に手を当てて説教を始めた日和は、その小柄な身体を精一杯に誇示していた。つらつらと流れるように台詞が出てくるものの、彼女の説教には迫力がない。優しく、諭すような口振りだった。

 本気で怒っていない証左だ。

 それが心地よくて、谷汲はつい幼馴染みに甘えてしまう。

「今回は許して」

「それ、何回目の台詞よ」

「約束する。指切りしようぜ」

「……まったく。しょーがないな」

 小指と小指を絡ませて、ふたりは指切りの歌を口ずさんだ。守れなくても構わないと交わす約束の、なんと気楽なことか。指切りを終えて、ふぅ、と息を吐いた日和が谷汲の袖を引いた。

「なっちゃん、どこ行くつもりなの」

「買い物。つま……朝ご飯を買いに」

「そうなんだ。私もお買い物ついてくから、待ってて」

「本気?」

「うん。だからステイ」

 もう一度袖を引かれて、じっと日和に見つめられる。谷汲は渋々頷いた。つまみと一緒に新しいお酒を買い込むという目論見は、これで潰えてしまったと言っていい。しょーがないな、と幼馴染の口癖を真似た谷汲は、日和が部屋へと戻っていくのを見届ける。

 玄関で腰を落ち着けた彼女は、日和が戻ってくるまでぼんやりとしていた。

「……いい天気だ」

 インドア派ではあれど、幼馴染に誘われれば外へ出るのもやぶさかではない。谷汲は、どこまでも単純な人間である。

 やがて戻ってきた日和と一緒に、近所のスーパーへと向かう。二日酔いのまま運転しようとしたら怒られて、結局、歩いてスーパーへ行くことになった。道中、日和はずっと話しかけてくる。

 平日の昼間はひとりぼっちだから、人恋しいのかもしれない。そんなことを考えるまでもなく、谷汲は幼馴染との会話を楽しんでいる。

「ねぇねぇ、今日の晩ご飯は何食べたい?」

「なんでもいい」

「そういうのが一番困るんだけど」

「だってまだ朝じゃん。10時だよ」

 どこにでもある日常だ。

 田舎町でもなく、都会でもない、普通の街をふたりで歩いていく。どちらかともなく手を握り合って、ふたりは他愛もない話に花を咲かせた。部屋でひとり、酒を飲むよりも遥かに楽しいと、谷汲は自然と目元を緩ませるのだった。

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