旧知
小腹がすいた。
「でも、日和が待ってるからな」
買い食いはしないぞ、と心に決める。
今日も仕事に精を出し、谷汲はアパートへの帰路を急いでいた。そもそも財布の中には、あまりお金が入っていない。特筆、困窮しているわけでもないけれど、散財する意味もないだろう。週末に銭湯へ遊びに行ってから、お金をおろしていないだけだった。
「あ、そうだ。生活費」
お金のことを考えていたら、来月分の生活費もおろしていないことを思いだした。今日明日でお金が尽きることはないだろうけど、財布が空っぽになってから、日和に催促させるのも申し訳ない。
谷汲は帰り道を少し外れ、よく使うスーパー付近のATMへと向かった。キャッシュカードで必要なだけのお金をおろし、ついでにお酒でも買うかとスーパーに向かった。買い食いはしないけど、晩酌のためにお酒は買う。家にはまだ、買いだめしたお酒があるのに。それが、谷汲名草という人間である。
「今日の晩御飯は肉じゃがだったなー」
本人は考えてお金を使っているつもりだが、傍から見れば緩すぎる金銭感覚の持ち主だ。彼女が家計を日和に任せているのは英断という他なかった。
適当に選んだお酒をレジに通して、クルマに乗り込む。春も随分と近づいてきたのに、まだ薄着で出歩くのは寒かった。
「よし、帰ろう」
ゆっくりとクルマを発進させて、裏道から帰る。何度も曲がる必要はあるが、信号が少ない分、それなりに時間を短縮して帰れる道があるのだ。
家に帰っても、今日は料理の手伝いをすることが出来ない。煮物は時間がかかるからと、既に日和が作って待っているはずだ。今日の谷汲に手伝えることは配膳くらいのものだろう。献立を教えてもらうだけで楽しい気分になるのは、それだけ日和の料理が美味しいからだった。
苔むした側溝に沿うように、谷汲は道を進んでいく。自転車や歩行者とすれ違う度、谷汲はブレーキを深く踏んだ。後続車両はいない。車体に通行人を引っ掛けるリスクと比べれば、僅か数秒の停止時間など気にするほどのものでもない。それに、こうやって減速する時間を加味しても、この裏道を通った方が早くアパートにつくのだから。
「……ん?」
細い道を徐行していた谷汲は、ふと、見覚えのある顔を見つけた。
ぼんやりと歩いていた少女も、谷汲に気付いたらしい。全身にスポットライトを浴びたように、なんだか無駄に明るい笑顔を浮かべている。
短い髪を明るい色に染め、派手なピアスをつけた女の子だ。缶バッチをつけた鞄をぶんぶんと振り回しながら、谷汲の行く手を塞いでくる。呆れたように溜め息を吐いて、谷汲は窓を開けた。ご機嫌に声を上げながら近寄ってくる少女の表情は明るくて、まるで悩み事なんてないようだった。
相手は谷汲の旧友、大野一葉だ。
「おっす、大野。久しぶりだな」
「名草も元気してた? やー、懐かしい顔ー」
「大野の髪は相変わらずだな……ちょい待ち」
話が長くなりそうだと判断した谷汲は、近くにある駐車場へとクルマを進める。いつでもクルマを動かせるようにしたまま、谷汲は運転席の窓から肩を出した。
「あれ、ピアス増えた?」
「分かる? 分かっちゃうか―」
「そりゃ両手を耳元に構えてアピールしてくればね」
「たはー。それもそっかー!」
拡声器でも使っているのかと思うほど、大野は大きな声で笑う。
大野一葉は、谷汲が高校に通っていた頃の同級生だ。当時は、三年間に渡ってクラスメイトだった。就職した谷汲とは異なり、彼女は四年制の大学に進学していた。学業に関して言えば谷汲の方が優秀だった気もするのだが、谷汲は頼まれても大学には進学しなかっただろう。もう、テスト勉強をするのは御免だった。
「どうしたの、こんなところで」
「いや、普通に学校帰りだけど」
「駅は真逆の方向ですが」
「遠回りして帰ってるからねぇ。散歩中だよ!」
谷汲の問いかけに、大野はあっけらかんとした様子で答える。
ケタケタと笑う大野の姿は、高校時代と何も変わらないように見えた。少なくとも、谷汲の知っている彼女は変わっていない。頻度は減ったが、まだ連絡は続いている間柄なのもあって、谷汲は気楽に喋ることが出来た。人付き合いが煩わしい谷汲にとって、さっぱりした性格の大野は話しやすい相手だったのだろう。まぁ、日和ほどじゃないけど……と、谷汲は謎のフォローを入れた。
「大野、家まで送ってやろうか?」
「マジ? あー。でも、お散歩の気分だしな」
「そっか。……散歩って、楽しいのか」
「おう! 運動すると気分転換になるぜ」
ぶんぶんと痛バッグを振り回す大野は、確かに晴れやかな顔をしている。大野が頭を悩ませているのを見たことがない点を除けば、散歩というものは随分と心を晴れやかにするものらしい。帰ったら日和に勧めてみよう。
そろそろ寒くなってきた、と谷汲が窓を閉めかけたところに、大野が腕を突っ込んでくる。事故になる前に慌てて止めた谷汲に顔を近づけて、大野が問いかけてくる。
「名草、今度の週末暇?」
「いいや、残念ながら。今週は用事ありだな」
「そっか。無念じゃ。また遊びに行こうぜ」
「おう。大野から誘ってくれ」
「うわ出た、名草の面倒臭がりなとこ」
ケタケタ笑いながら、大野がするりと窓から手を抜く。そして、現れたときと同じテンションのまま路地裏へと歩み去っていく。
「また都合がいいときにあそぼー。連絡するからさ」
「おう。分かった。気を付けて帰れよ」
「あいよー。紀保っちにもよろしくー」
「ん。……って、おい」
なぜ谷汲が日和と暮らしていることを知っているのか。
それを問いかける前に大野の姿は消えていた。谷汲と日和の仲が良いことは周知の事実だった。だから人伝に話しておいてくれ、程度の話なのだろうか。それとも大野は――。
考えても埒が明かない。それに、知られたって別に悪いことじゃないはずだ。そう言い聞かせて、谷汲はクルマを家へと走らせる。くしゃみが漏れて、そろそろ花粉の季節が近づいていることを知った。
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