酒と油
谷汲名草は、日和紀保とは別の意味で人間関係が苦手だった。
相手が何を考えているのか、それを考えるのが面倒なのだ。日和との交流で随分と改善されたとはいえ、元々の性質は簡単に変わるものではない。相手の反応を見て、自分がどう動くべきか考える。その考え自体が億劫になって、谷汲はコミュニケーションを避けてきた。
小学生の頃までは、同級生の交流を無視しても良かったのだろう。イジメを受けても跳ね返せる胆力を持っていれば、それで十分だからだ。もっとも、谷汲は他人が嫌いなわけじゃない。話し掛けられれば答えるし、必要があれば誰を相手にしても向かい合える。そういう子供だった。
中学や高校でも、一人でいることに不便はなかった。話す相手もいたけれど、谷汲が積極的に働きかけて仲良くなった相手は日和ただ一人だったと思う。
コミュニケーションに難はない。
だけど、人間関係は苦手だった。
就職してからは、仕事だからと割り切って多方面とやり取りをしている。その真面目さが受けて、上司からも、先輩からも信頼されている。それでも彼女は、人間関係を得意としているわけじゃない。
日々積み重なった疲労が澱となって心の底に溜まる。その鬱憤を晴らせるのは日和だけだったし、その事実に内心では気が付き、別の依存先がないかと考えた先に出会ったのが酒だった。程よいアルコールの酩酊感は、心を解すのに一役買っている。完全に癒すことは出来なくとも、壊れるのを遅らせるくらいの役目は果たしているだろう。
そして、今日も。
谷汲は、新しいお酒を買ってきたのである。
「これ飲も」
「うわ、なにそれ」
「ワインです。アヒージョ作るって聞いたから」
絶対に合うよ、と自信満々に差し出したのは白ワインだ。
背の高いボトルに、薄緑色の液体が詰まっている。ラベルには小綺麗な、ぶとうのイラストが描かれていた。仕事からの帰り道にスーパーへ寄って買ってきたものだ。日和が誕生日を迎えたこともあって、最近はふたりで飲めるようになった。日和は毎日飲むわけじゃなくて、気分によってお茶やジュースを選ぶ日もあるけれど、今日は是非とも飲んで欲しい。
なぜなら、アヒージョにワインは鉄板だ。
そのくらい合うし、美味しいものだと聞いたから。
「んふふ。ちょっといいワイン買ったんだよ」
「へー。なんか違うの?」
「風味がね、違うの。濃いんだけど、しつこくないの」
谷汲の解説を興味深そうに聞いていた日和だったが、結局は飲んでみないと分からない。そう結論づけたらしい。
谷汲を部屋で座らせて、日和がテキパキと晩御飯の準備を進める。テーブルにアヒージョや、軽くトーストしたパンを並べ終えて、ふたりで手を合わせた。
「いただきます」
香ばしいガーリックとオリーブオイルの誘惑に耐えながら、谷汲はワインを開けた。まだアルコールに不安の残る日和は、グラスに氷を入れて僅かに薄めて飲むようだ。
フォークを手にした谷汲が、まず手を付けたのはマッシュルームだ。ニンニクの香りが移っていて、噛むとじゅわりと旨味が溢れ出す。最高だ。軽めにトーストしたパンをかじると、パンチのある味に負けない豊かな香りが楽しめた。そこにすかさずワインを含む。清々しい酸味が口の中をリセットして、次の食材の味がはっきりと分かるようになった。
美味しい。
気付けば谷汲は無言のまま、もぐもぐと口を動かしていた。じっと日和に見られていたことに気付いて、少しむせる。日和は谷汲の背を擦って、彼女の顔を覗き込んだ。
「なっちゃん、そんなにおいしい?」
「うん。すごく好き」
「……へへ。頑張った甲斐がありますなぁ」
「アヒージョって、どうやって作るの」
「簡単だよ。今度、一緒に料理しようか」
「……日和の簡単は、アテにならないからなぁ」
もぐっ、と頬張ったエビがぷりぷりしていた。
谷汲は自分で作るアヒージョを想像して、真っ黒な食材が浮かぶグロテスクなものを思い浮かべてしまう。料理が下手くそなのは相変わらず、まだ成長の途中である。
ともあれ、アヒージョの作り方は気になる。日和に色々と話を聞いてみた。
「えっとね、まずはにんにくと鷹の爪を炒めて」
説明を聞きながら、キッチンに立つ日和の姿を思い返す。
フライパンにオリーブオイルを落として、そこに刻んだニンニクと鷹の爪を放り込む。想像の日和は、油跳ねに吃驚して菜箸を取り落としていた。火が通るほどに、良い香りが漂ってくる。食欲を刺激するような匂いだ。続いて、半分に切ったマッシュルームと、剥き身のエビを投入する。日和は鼻歌を歌いつつ、フライパンに具材を投入していった。
次にブロッコリーと、ジャガイモを入れた。
「あ、当然だけど下茹でしてあるよ」
「……妄想の中では生だった」
「んじゃ修正して」
「あい」
茹でたブロッコリーとジャガイモを、煮えた油へと放り込む。下茹でが済んでいるから、温まれば食べごろだ。最後に塩で味を調えればアヒージョの完成だ。日和は説明を端折っていたけれど、恐らくエビやマッシュルームにも色々と細工をするのだろう。多分。自分が料理のイロハを知らないと自覚している谷汲は、まず幼馴染と前提となる知識量が異なっていることも分かっている。おおまかな流れは理解したけれども、細かいところは作りながら教えてもらおうと思った。
フォークを持った手を伸ばして、ジャガイモを刺す。
ホクホクした食感と、パチッとした味が調和している。これも美味しかった。
「アヒージョ、他にも具材って使える?」
「うん。色々とバリエーションもあるね」
「……例えば?」
「ウィンナーとか。イカもタコも美味しいって聞いたし、あとトマトを煮てもいいんだって!」
「フランス料理っぽい」
「違うよー。元はスペインの料理なんだよー」
谷汲の感想に、日和はけらけらと笑った。
それから暫く、日和は色々なアヒージョを教えてくれた。魚介類、肉類、キノコ類。結局は何を入れても美味しいんじゃないかとふたりで笑う。どれも興味を惹かれるけれど、谷汲はやはり最初に食べたマッシュルームが一番好きだと思った。日和は、アヒージョを作るならどんな味付けにすればいいのか、何を付け合わせればいいのか、どこでレシピを調べたのか、そういうことを嬉しそうに語ってくれる。
日和から家事の難しさや、成功の秘訣を聞くのは楽しい。こんなに楽しそうに笑えるのだから、仕事なんか探さなくてもいいのに、と谷汲は内心で思ってしまう。だけどそれが日和を傷つけるのではと考えると声を大にすることも出来ない。
喉元に出掛かった言葉をアルコールで流し込んで、笑う幼馴染へと視線を向け続ける。彼女が探していたアルバイトがどうなったのか、それを尋ねるのも嫌で、ただ幼馴染の話に耳を傾けるのだった。
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