お金
静かな日だった。
メンテナンスのため、一部の設備が停止しているからだろう。
出勤した谷汲が、会社のパソコンと向き合っている。支給された制服の袖を少しまくって、気合十分に仕事をしていた。昨日は動けなくなるほど体調が悪かったが、どうにか回復したようだ。
パチパチとキーボードを叩く谷汲の横で、先輩が書類を整理していた。
「良かったわね、名草。長引かなくて」
「……まぁ、今回のは特別重かっただけなので」
「ふぅん。ま、休んだ分も働きなさいよ」
ぱし、と先輩がメモを指で叩く。
谷汲が休んでいる間に積み上げた仕事……ではない。メモの先頭には、幼馴染と仲良くなるためにやるべきことリスト、と書かれている。昨日の仕事はよほど暇だったらしい。本来なら谷汲が処理すべき仕事も、暇を持て余した先輩が代わってくれたようで今日も残業なしで帰れそうだった。
メモに書かれた内容を斜め読みして、とにかく会話、と書かれているのに気付く。顔をしかめた谷汲だったが、とりあえずお礼を言っておくことにした。メモに対してではなく、昨日休んだことについてだ。
「なんかすいません」
「いいのよ。名草は真面目すぎるから」
「……そうなんですかねぇ」
「普段から仕事を頑張っているんだし、たまの休日くらいは楽をさせてあげるわ」
「ありがとうございます」
谷汲は先輩に感謝しながら、手を動かしていく。
この前、日和との間柄を相談して以来、先輩には色々な悩みを聞いてもらっている。会社では仕事の話だけすれば十分だと思っていたが、こうして私生活の話も差し障りなく話せる相手は貴重だった。この先輩は谷汲にとって、数少ない友人のひとりになってくれそうだ。小学生時代の、他人と関わるのを面倒だと感じていた谷汲なら決して仲良くなることはなかっただろう。
日和と過ごした日々が、確かに谷汲を変質させていた。
カタ、と音が鳴って、谷汲は顔を上げる。
仕事を終えた先輩が、谷汲の手元を覗き込んでいた。仕事の邪魔にならないよう気を付けているのか、珈琲の入ったカップを傾ける彼女は谷汲とやや距離を置いている。
「先輩、暇ですか?」
「そうよ。だから休憩」
「いいですねぇ。私も
「私は午後から納品書の整理があるの」
午前中にあらかたの仕事が片付く谷汲の脚を、先輩がパシッと叩いた。
カップを置いた先輩が頬杖をつく。美人は何をやっても絵になるな、と谷汲は手を止めてしまった。仕事が一区切りついたと判断したのか、先輩が話しかけてくる。
「名草は、何のために働いているの」
「……パワハラ面談?」
「するわけないでしょ。ただの興味よ」
「お金のためですけど」
隠すこともないだろうと判断した谷汲は、仕事はお金のためにするものだと正直に答える。先輩が求めている答えではなかったようで、彼女は不満そうな顔になった。
残り少ない珈琲を覗き込んだ先輩が、カップを手に取る。そして一息で飲み干した。空になったカップを机に置いた彼女が、椅子の上で姿勢を正す。谷汲を見つめる視線に鋭さが増して、谷汲は少し身構えた。何か気に入らないことでも言ってしまっただろうか。
不安げに眉を寄せた谷汲に、先輩が言う。
「お嫁さんを貰うため、とか言いなさいよ」
「……それ、冗談ですか?」
「当然」
きっぱりと先輩が断じた。
後輩の困惑を予期していたような切り返しの速さだ。
谷汲が固まってしまったのを見て、先輩が相好を崩す。冗談と真剣の境界が曖昧な人だ。谷汲も無表情な方だし、感情の機敏が分かりにくいと言われたことがある。だが先輩のそれは、意図してやっているだけに意地悪なものだ。頬を膨らませた――と言っても、谷汲のそれは日和や、親しい友人にしか伝わらない程度のものであるが、とにかく谷汲は抗議をすることにした。
「先輩、その質問の意図が分かりません」
「何のために働いているのか、ってことね」
「そうです。先輩はお金のために仕事してないんですか」
「いいえ。給料がなければ働かないわよ」
そこは当たり前の話、前提の部分だもの。
言い切った先輩が、また谷汲をじっと見つめる。どうやら、真面目に話を聞け、ということらしい。谷汲が大人しく聞く体勢に入ると、先輩が口を開いた。
生きていくためにはお金が必要だ。日々のご飯を食べ、光熱費や水道代を払い、ガソリンや定期代のために金が消えていく。だが、そんな前提の話を蒸し返すつもりはないのだ。金が必要だから働くのは分かる。金を使う先に興味があって、先輩はあの質問をしたのだ。
「例えば、私は小説のために働いているわ」
「ほう?」
「小説が好きで、そのためにお金を使うの」
谷汲にとってはお酒みたいなものだろうか。
美味しいから飲むし、楽しいから酔ってしまう。だけどそれがなくなったからといって、生活ができなくなるわけではない。飲めなくなる、というだけだ。
けれど先輩にとっての小説は、谷汲が考えているよりもずっと深くて重い感情を抱くものらしい。
「小説がなければ私は生きていけない。私の旦那も似たようなものね」
「……そこまでの覚悟が、仕事をするには必要だと?」
「いや、そうじゃなくて。私にとっての小説は、あなたにとっての幼馴染みたいなもの、という話」
谷汲から答えを引き出すのが面倒になったのだろう。先輩は自分で温めていた答えを取り出して見せた。大切なものがあって、そのために今の生活を守らなくちゃいけない。だからオトナは、働かなくちゃいけないのだと。
つまり、谷汲が日和のことを想う気持ちと同じものを、先輩は持っているらしい。自分は日和のために働いているのだろうか、と谷汲は自問自答してみる。あんまり、そこまで考えたことはない気がした。生活するためにはお金が必要で、お金を貰うためには働かなくちゃいけない。だから仕事をするのだ。でも、じゃあ今の生活を続けていきたい理由は? と聞かれたら、そこには日和がいる。
お酒が飲めなくなってもいいけど、日和と離れるのは嫌だ。
「……先輩の質問って、奥が深いですねぇ」
「いや、浅いでしょ。言葉の表面をなぞっているだけで」
「そうですかね。先輩、文系科目得意そうだし」
「そんなことは……いや、現代文は常に満点だったわね」
「うわ、なんか分かるかも。こむつかしいから」
谷汲が冗談を飛ばすと、先輩が口元だけで笑った。
仕事の話をしているときは凛々しい印象を受けるのに、こうしてプライベートな話になると途端に柔らかくなる。きっと、この人は素の自分を出せる相手を求めているんだろうなぁ、と谷汲は何となしに思った。
事務室の電話が鳴って、先輩がそれを受ける。しばらく話した後、先輩がパソコンでファイルを開いて作業を始めた。谷汲も自分の仕事を再開しながら、それでも思い出した質問を口にしてみる。
唐突に質問してきた理由が知りたくて。
「先輩。急に、どうしたんですか」
「あなたが会社を休んだから、心配になったのよ」
「体調が悪かったからですけど。……あの質問との関連は?」
「……幼馴染ちゃんと、何かあったのかと思ったの」
杞憂だったみたいだけど、と先輩はディスプレイを見つめている。キーボードを打つ音だけが響く。いつもより少しだけ早くタイピングを終えた先輩が、顔を上げた。そして、何ともない風に呟く。
「好きな子は、大切にしなくちゃダメよ」
「……はぁ」
「私だって、大切な後輩には幸せになってもらいたいわ」
先輩はそう言って、また黙々と仕事を再開した。
谷汲も残りの作業を片付けるべく、手を動かす。区切りがついたのは、時計の針が正午を越え、長針が頭を垂れた後だった。
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