幸福の拠所

回想

 谷汲名草は静かな子供だった。

 あまり、他人と仲良くできなかったのだ。

 休み時間は教室の隅で小説を読んでいることが多かった。特別、小説が好きだったわけじゃない。他人と距離を置くための盾にしたわけでもない。彼女にとって小説はただの暇潰しの道具だった。

 退屈な毎日に息が詰まる。楽しいことがなくて苦しくなる。心に衝立を作って、他人を遠ざけていたつもりはない。話し掛ければ答えるし、用事があれば平然と、例え年上や初対面の相手だろうと声を掛けることが出来る。ただ、相手を気遣うだけの体力を持たなかった。

 谷汲名草は、自分勝手だった。

 そう言い換えてもいい。

 友達を作るのも億劫だった。楽しいことをするためには誰かと仲良くしなくちゃいけない。でも、仲良くするためには相手のことを慮らなくちゃいけない。道徳は理解していても、それを実行し続けるのは骨が折れた。だから、本を読むことで現実逃避をしたのだ。

 悪人ではなかった。

 不良でもなかった。

 それでも谷汲は、息をするのが苦しかった。

 本を読む間も、机に伏して呑気な昼寝をしている間も、彼女には周囲の声が聞こえている。クラスメイト達はみんな仲良しこよしなのに、自分だけが輪の中に入ることが出来ない。焦燥感はあったけど、無理に相手へ合わせるのも谷汲には難しくて、だったら気楽に一人で過ごそうと時間を潰す。潰して、潰して、潰して、気付いたら友達のいない子になっていた。

「ね、あそぼ?」

 そんな声を掛けられている同級生達をぼーっと眺める。そこに感情はない。

 楽しいことはしたいけど、誰かに合わせるのは苦手だ。

 息が詰まる。胸が苦しくなる。

 消えてなくなりたかった。

 ずっと笑っていたかった。

 私が私でいるために、谷汲は静かな空間を選んだのだ。

 日和は、偶然隣の席になった子だ。谷汲が煩わしくて嫌っていた人間関係を、日和は恐怖から遠ざけていたらしい。誰かの真似をして本を読む少女は、谷汲と違って他人との交流に飢えていた。谷汲が疎んでいたものに、羨望の視線を向けていた。

 それが、羨ましく思えた。

「ねぇ、ひわさん」

「……ひより、です。たにくみさん」

「ぐ。谷汲。濁るよ、私」

 谷組の返答に、ぱちくりと目をしばたたかせた日和は可愛かった。

 気紛れで話し掛けた谷汲にも、彼女は誠心誠意の答えを返してくれた。話すのはあまり上手じゃなくて、たどたどしい喋り方だったけど、それでも彼女の人柄に谷汲は興味を惹かれたのを覚えている。

 話しているうちに、もっと日和のことを知りたいと思った。お喋りをしたいと願うようになった。この子と一緒なら、息が出来る。そう感じるに至った。

 だから谷汲は、日和と友達になる道を選んだ。

「ねぇ、日和」

 谷汲が呼びかけると、日和は笑みを浮かべて顔を上げる。

 盾のように構えていた小説を閉じて、元気がないときは口元を隠しながらも目だけは出して、谷汲へと眩い視線を向けてくるのだ。休み時間にお喋りをしていたふたりが登下校を共にするようになった。毎日のように放課後も遊ぶようになって、次第に泊りがけでの交流をするまでになった。高校の頃の長期休暇は、谷汲が日和の家に連泊していたほど、仲良くなったのだ。

 谷汲と日和が仲良くなるにつれて、日和は他の子とも交流を始めた。

 知らない笑顔の増えた日和を、谷汲は影から見つめて。

 自分だけのものになればいいのに、と考えていた。

 それを今。

 夢を見たせいで、鮮明に思い出してしまった。

「…………うぅ」

 鈍痛の響く頭を抱えて、谷汲はゆっくりと身体を起こす。

 久しぶりに身体の重い日がやってきたようだ。これは、風邪をひいた時の気分に近い。頭がぼんやりとして、身体が熱っぽく怠かった。身体を動かすのも億劫で、谷汲は布団の上でぐったりとしている。

 昨日は、残っていた林檎のリキュールを日和と片付けた。もちろん、飲みすぎない程度の量だ。仕事に影響しないように、身体を悪くしないようにと配慮してくれる幼馴染に管理を受けて、谷汲はアルコールの量を制限している。

 だから、これは二日酔いじゃない。

 体の特性によって起こる、避けられない生理現象だった。

「……兆候はあったもんな」

 体温が少し高くなっていたし、薄っすらと気怠い感じもしていた。ただ、今回のがいつもよりずっと重くて辛いだけの話だ。ベッド脇で充電していた携帯を手に取って、頼りの先輩へと電話を掛けた。風邪で欠勤するなら課長への連絡でも良いけれど、少し、男性相手に相談するのは嫌な話題だ。

 何度目かのコールの後、先輩が通話口に出る。

 微かに欠伸が聞こえて、申し訳ない気持ちになった。

「おはようございます」

「おはよ、名草。どうしたの?」

「実は体調が悪くて……」

 同性の、それも信頼している先輩になら話せる。

 谷汲は素直に現状を伝えた。身体の不調を伝えると、先輩はあっけらかんと笑ってくれた。事情を正確に把握した先輩は、谷汲の有給を取得しておくよと約束してくれる。谷汲は安堵に肩の荷を下ろした。

 普段から熱心に働いている成果だろう、急に休んでも文句を言われることはない。それでも谷汲は、体調不良で休むのは気が引けた。会社として問題がなくとも、谷汲自身が罪悪感を覚えるのだ。休んだ分の仕事は、復帰した後にしっかりこなそう。

「無理しないようにね」

「一日寝てたら戻りますよ」

「……健気ねぇ、名草は」

 身体を冷やさないようにと忠告を受け、谷汲は電話を切る。

「ふぅ……しんど」

 体調が悪かったせいか、昔の夢まで見てしまった。

 まだ日和と仲良くなかった頃の夢だ。あの日、ただの気まぐれで話し掛けただけの少女に、谷汲は今も救われている。日和がずっとそばにいて欲しいと願うようになっていた。恋心とは言えない、そんな気がする。でも、独占欲かと聞かれたら、素直に首肯せざるを得ない感情だった。

「…………日和」

 まだ眠っている幼馴染へと声を掛ける。

 童顔の彼女の、もっちりした頬をつつく。

 今日も彼女は谷汲の布団へと潜り込んできていた。徐々に暖かくなる気候もあってか、日和と一緒に寝ると汗をかく。シャツをつまみ上げて、谷汲は微かに鼻を鳴らした。今日は大丈夫かな。体調不良で鼻が利かなくなっている可能性はあるけれど、谷汲はもう一度布団へと潜りこんだ。日和が目覚めたら、休みを取ったことを説明しておかなければ。寝坊した日の日和は、谷汲が遅刻するかも、と本人よりも慌ててしまうのだ。

 時計を見る。

 まだ彼女の起床予定には少しの余裕があることを確認して、幼馴染をぎゅっと抱きしめた。安らかな寝息を聞きながら、彼女の側にいたい、ずっと私だけが――。そんなことを谷汲は考えるのだった。

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