湯舟

 お酒は楽しく飲むものだ。

 飲み過ぎないように気を付けていたのに、日和と一緒だとつい杯を重ねてしまう。谷汲はふわふわした心地のまま、ベッドに寝転がってテレビを眺めていた。日和は台所で皿洗いをしている。今日は休め、と手伝わせてくれないのだ。彼女なりの優しさでもあり、仕事を取られまいと意固地になっている部分もあるのかもしれない。

 日和も、もう少し休めばいいのに。

「ふぁ……」

「なっちゃん。寝ちゃダメだよ。お風呂まだだからね」

「んー。分かってる」

 今日はシャワーだけでも良い気分なのだが。

 思い立ったが吉日と、谷汲は着替えを持って風呂場へ向かう。皿洗いの途中だった日和が邪魔してきたが、谷汲は構わずに脱衣所で服を脱いだ。下着姿のまま浴室を洗って、湯舟へとお湯を張り始める。家事が下手な谷汲だが、お風呂掃除だけは自信がある。子供の頃に、親から手伝えと言われた唯一の家事がお風呂掃除だったからだ。

「よし、完了」

 お風呂の掃除を終えて、谷汲は下着も脱ぎ捨てた。

 髪を濡らして、丁寧に洗っていく。

 シャワーを使う必要がないときは蛇口を捻ってお湯を張り、泡を流すときは切り替える。そうして、身体を洗い終えるまでには湯舟に腰までのお湯を張ることに成功した。

 今日は半身浴だ。飲酒直後の入浴は控えるべきだが、ご飯を食べてから一時間はぼーっとしていた気がする。だから大丈夫だろう。時折、肩にお湯を掛けながら、谷汲はぼんやりと天井を見上げていた。

 身体中の疲れが溶けていくようだ。何もかもを忘れて、自我もお湯に溶けていく。

 このまま眠ってしまいたい。そんな誘惑に負けそうになった。

 不意に、ガラリと扉が開く。谷汲は一瞬だけ現実に引き戻され、それから何事もなかったかのように目を閉じた。彼女が眠っていると判断したのか、ばたばたと日和が駆け寄ってくる。本当に、心配性な幼馴染である。

「ちょっと、なっちゃん! 寝ちゃダメだよ!」

「んもー。極楽気分なだけだって」

「……しんよーできません!」

「大丈夫だって。お湯につかってからの時間もカウントしているから」

 片目を開いた谷汲は、まだ心配そうな顔をしている日和の頬をつついた。

 半身浴は長ければ良いものでもない。適切な時間があるのだ。

 谷汲が湯舟に浸かってから、まだ三分ほどしか経過していない。彼女が理想としている時間の、たった三割だ。真面目な日和には、谷汲が嘘を吐いているように聞こえるのかもしれない。酔っ払いがお風呂に入ると事故の危険もあると理解しているからこそ、過保護にも思える世話を焼いてくれるのだろう。

 だけど今日の谷汲は、我儘を貫きたかった。家事の手伝いもさせてくれないのなら、せめてお風呂は自由に入っていたいのだ。

「ひよちゃんも一緒に入ろ」

「えっ、なんで!」

「ん? 理由なんてないけど」

 ただなんとなく、そうやって揶揄うのも面白いと思っただけだ。顔を真っ赤にして、慌てふためく日和を見てみたい。きっと可愛い反応を見せてくれるだろう。そう思っただけで、別に他意はない。ただ単純に、彼女の困った顔が見たいだけだった。

 けれど日和は、少しの間を置いて首を横に振った。

「分かった。一緒に入る」

「……そう」

 思いの外真面目な表情に、谷汲の方が面食らってしまう。どうして、と尋ねるより先に、日和が服に手を掛けた。脱衣所で洗濯機に服を一式放り込んで、日和は浴室へと戻ってきた。

 瞬く間に一糸まとわぬ姿になった幼馴染を前にして、谷汲は微塵も動揺しない。生理的な欲求よりも、物珍しさの方が強かった。同性の裸体を見るのも初めてではないけれど、こうして明るい場所でまじまじと見る機会はなかったように思う。修学旅行の大浴場とか、プールの授業とか。タオルで隠している子も多かったから、そういう意味では素っ裸の同性を見るのも滅多にない経験だ。

 ぼーっと、頭を洗う日和を眺める。

 あまり外を出歩かないから、肌は白い。お腹周りには運動不足を原因とした薄いお肉がついている。谷汲は何とも思っていなくとも、日和は裸体を見られるのを恥ずかしがっているようで、その耳元は朱色に染まっていた。手早く髪と身体を洗った日和が、湯舟へと入ってくる。流石に狭い。体育座りになったふたりが向かい合わせに座る。脚が交差して、なんとも窮屈だった。

「…………」

「……なっちゃんが入れって言ったんだからね」

「そだね」

 簡単な受け答えのあと、沈黙が流れた。

 日和の身体が動くたびにお湯が揺れて、波紋が広がる。揺れる水面下で、ふたりは手を繋いだ。特に意味はない、はずだ。多分。ふたり分の体積で水面が上がって、身体が温まる速度も上がる。半身浴で済ませようとしていた谷汲も、随分と長いこと湯舟に浸かってしまった。そろそろ出ようかな、と谷汲が身体を動かす。すると、浴槽の中で足が触れ合った。

 ふにふにと、日和の指先が谷汲の太腿を押す。

 谷汲の爪先が日和のお尻に届いてしまっているのを、抗議しているようだ。

「狭いお風呂だねぇ、日和」

「元々、一人用ですから」

「それは確かに。んじゃ、私出るわ」

 断りを入れて立ち上がると、日和が慌てて顔を覆った。

 まるで中学生みたいな反応に、谷汲がくすりと笑いを漏らす。

「今更隠すこともないでしょ」

「……恥じらいを持ってよ」

「ふはは、それは難しい話だね」

 ひとりの人間として尊重してもらうのもありがたいが、同じ釜の飯を食う仲だし、血は繋がらずとも生計を共にする疑似家族だ。自分のすべてを晒すことに抵抗はないし、むしろ日和になら全てを見られても構わないと思っている。それでも彼女は頑なに、谷汲の素肌から視線を逸らしていた。……まぁ、指の隙間から覗き見ているような気もするけれど。それがなんだか、可笑しくて仕方がなかった。

 谷汲は、浴室を出る前に振り返る。

 そして、両手で目隠しをしている彼女に声を掛けた。

「日和も、のぼせないように」

 そう言い残して、脱衣所へと向かう。

 今日は長風呂で汗をかきすぎた。ちゃんと水を飲もうと、身体を拭くのもほどほどに冷蔵庫の扉を開けるのだった。

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