楽しい休日の過ごし方
酩酊
なんてことのない金曜日だった。
谷汲が、退屈を持て余していることを除いては。
「ひーーまーーー」
「なっちゃん、飲みすぎだよ」
「たまにはいーじゃん。昨日は休肝日だっただし」
「もう呂律も回ってないじゃん……」
呆れたように肩をすくめた日和が、谷汲の頭をぽんと叩く。乗せられた手のひらに甘えるように、谷汲はくしくしと首を左右に振った。
テーブルの上には、空になった缶酎ハイが倒れている。休日前夜ということもあって、ついついお酒に手が伸びてしまった谷汲は、普段よりも酔っ払っていた。ぬへへへと不明瞭な笑い声を漏らしながら、日和へと身を寄せる。谷汲唯一の幼馴染は、困った顔をしながらも酔っ払った彼女を振りほどいたりしなかった。その優しさに甘えながら、谷汲はまだ残っているお酒をちびちびと楽しむ。
お酒は、酩酊による浮遊感を理解できる程度が一番気持ちいい。酔っぱらっていると分かっていながらも、判断力がある程度残っている具合だ。理性と感性の狭間で、良識を頼って地雷原を歩く。そんな気分だった。
「ひーよちゃん」
ぎゅー、っと小学生みたいに抱き着きながら、谷汲は日和に頬をこすりつけた。彼女の柔らかい髪の毛が鼻先に当たって、ちょっとだけむず痒い。日和は嫌がる素振りを見せず、ただ困った顔で微笑んでいるだけだ。
幼馴染だからこそ、谷汲は分かる。
今日は、甘えたい放題なのだ。
「ひよちゃーん」
間延びした声で名前を呼ぶ。返事はないが、谷汲は頭を撫でてくれる手に幼馴染の慈しみを感じた。日和の胸に顔を埋めたまま、ちらりと上目遣いで彼女の様子を窺ってみる。どうやら、谷汲がどの程度酔っているのかを見極めている最中のようだ。
「ひよちゃんもお酒飲む?」
「けっこーです」
「そっか。残念」
フラれた谷汲が肩を落とす真似をする。
日和はお酒を飲んでいない。アルコールは身体に悪いんだぞ、の一言で飲むのを我慢できる子なのだった。そんな真面目な彼女が、谷汲のために水を用意してくれた。グラスに注がれた透明な液体を一気に煽ると、谷汲は満足げに口角を上げた。今日の日和がいつにもまして優しいと感じるのは、世話を焼いてくれるからだろうか。それとも、酔いの回った谷汲の脳が幻覚を見せているだけなのだろうか。判断は出来ず、判別もつかず、それでも谷汲は日和に甘えることを決めた。
だって、この時間はきっと有限だから。
大人になるにつれて、どんどん一緒に過ごせる時間が減っていく。谷汲が働く間、日和が家事をする間、時計の針は止まることがない。ふたりで笑い合う時間ですら永遠ではなく、社会という逃れることも叶わないしがらみに囚われていた。それは仕方のないことだけれど、寂しいことに変わりはない。だから、今は存分に甘えておこうと思う。
「ね、ひよちゃん」
「どうしたの、なっちゃん」
「今度、お花見に行きたいんだけど」
「……いいね。行こうか」
日和が優しく笑ってくれる。それだけで谷汲の心は満たされた。
アルコールで溶けかかった脳みそをフル稼働させて、谷汲はお花見のプランを立てることにした。まず、目的地は家から歩いて五分ほどの距離にある堤防だ。谷汲が住むアパートの近辺では、輪中堤防と呼ばれるものが有名だった。景観を整えるためか、それとも治水のために必要だったのか、堤防には無数の桜の木が植えてあった。春になると満開の花が咲き誇り、それは見事な光景となるのだ。
しかし、今年は開花が遅れているようで、まだ蕾の状態だ。去年の今頃は見頃の時期を迎えていて、通勤途中に桜を眺めるのが谷汲の密かな楽しみだった。今年は、それを日和と一緒に楽しめたらなぁ、と思っている。
「あ。今年はひよちゃんのお弁当が欲しい」
「お外でピクニック?」
「それ~~」
「……なっちゃん、テンション高いね」
「だって、日和と予定立てるの楽しいんだもん」
ぬへへと節操のない笑みを漏らした谷汲に、日和は苦笑するばかりだ。それでも、嫌そうな素振りは見せない。むしろ嬉しそうに表情を綻ばせる。谷汲の幼馴染は、昔から変わらない。いつでも谷汲の味方でいてくれるようだ。
「んじゃ、お弁当よろしく」
「しょーがないな。分かったよ」
「んふふ。ありがと」
「リクエストはあるの?」
「んー。どうしよっかな」
日和の問いかけに、谷汲は真剣に悩むことにした。
谷汲からすれば、日和はかなりの料理上手だ。彼女の作る料理はお店に並んでいてもおかしくないくらいの腕前を持っていると、本気で思っている。
日和のお弁当を食べながら楽しむ桜並木は、どれほど美しく感じるのだろう。想像するだけで、心が弾んでいく。
「何食べようかなー。お団子? お寿司? あ、ピザとか唐揚げ食べたい!」
「後半部分は、なっちゃんが今食べたい奴?」
「うん」
「……はぁー。分かったよ。明日までに考えておくね」
ため息交じりではあるが、日和は笑顔を浮かべて了承してくれた。その優しさが嬉しくて、谷汲はますます彼女に身体を寄せる。日和は文句も言わずに受け入れてくれた。それがなんだかくすぐったくて、谷汲も自然と頬を緩めてしまう。ふわふわとした心地のまま、谷汲は考える。日和に花見を楽しんでもらうために、自分に出来ることは何だろう。
日和はいつも、谷汲のことを優先してくれる。谷汲も、日和の喜ぶことをしてあげたいと常々思っていた。彼女の腕に抱かれたまま頭を悩ませて、谷汲の頭に浮かんだのはたったひとつだけだった。
日和の頑張りを、全身全霊で受け止めよう。料理のヘタな谷汲は、お花見の準備を手伝うことも出来ない。せいぜい、買い出しを代わりにやるくらいが関の山だ。だからこそ、彼女の努力のすべてを、余すことなく受け止めたい。それが谷汲に出来る最大限の感謝であり、恩返しなのだから。
決意を固めた谷汲は、早速行動に移すことにした。
酔っぱらったフリをして、日和の身体にもたれかかる。そのまま体重をかけて、押し倒すような体勢になった。日和は抵抗しない。それどころか、谷汲の背中に手を回してくる。それが受け入れてくれた合図だと考えて、谷汲は全身全霊をかけて日和に甘える。
少しずつ酔いの醒めていく頭で、しかし谷汲は惚けたフリを続けるのだった。
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