雨音
雨のせいで、お花見の予定は流れてしまった。
ふむ、とフロントガラスに垂れる雨粒を眺めながら息を吐く。谷汲にもう少しの計画性があれば、昨日のうちに天気を調べていただろう。その僅かな努力をしなかったために、寝起きの彼女が曇り空を見たときのテンションの下がり方は凄まじかった。日和もお弁当の献立を考えていてくれただけに残念だ。
とはいえ、満開開花には程遠い。
堤防の桜並木はほとんど蕾で、お花見をするには時期尚早だ。まだ春と嘯くにも肌寒い日が続いているし、花見は早くても来週くらいだろうか。それでもお出掛け気分を捨てきれず、日和を誘ってちょっと離れた銭湯へと遠出をすることにした。
運転手は谷汲。発起人も、旅先での案内人も、すべて彼女が兼任していた。
「……雨だなぁ」
「雨だねぇ。部屋干し、意外と大変なんだよなぁ」
「あの洗濯機、乾燥機能とかないの?」
「服が縮むからダメでーす」
穏やかな時間が流れる車内には、日和が気に入っているバンドの曲が流れている。谷汲には趣味がないが、日和が好きなものをオススメしてくれるおかげで彼女のまわりには娯楽と呼べるものが存在していた。
信号が青になったのを確認して、ブレーキを踏んでいた足を緩めた。逆の足でアクセルを踏み込むと、谷汲の耳にも馴染みのある曲が聞こえてくる。
「……あ、この曲好き」
「なっちゃん、趣味が分かりやすいねぇ」
「そう?」
「うん」
微かに身体を前後させている日和がボリュームを上げた。
谷汲は音楽にも興味がないから、日和の好みを理解出来ていない。日和には分かるらしい谷汲好みの曲というのも、果たしてどんなものか分からなかった。
谷汲は、幼馴染がオススメしてくるバンドから、ふんわりと好きになった曲が入ったCDを買っているだけだ。日和は普段からサブスクで音楽を聴いていて、現物を手にすることに興味がなかった。CDを買うのは、日和との絆を形にして残したい谷汲が無意識に取っている手段のひとつなのかもしれない。
音楽を聴きながら、銭湯へ向けてひた走る。
谷汲が向かったのは、家から車で十五分ほどの場所にあるスーパー銭湯だ。近くには大きな公園があって、春になると桜の名所となる。土日だからか、駐車場はやや混雑していた。車を停めて、ふたり揃って外に出る。雨が降っているのに、意外にも客足は遠のいていないようだ。
「田舎だから娯楽が少ないのだ……」
「え、急にどうしたの」
「休みの日に、日和とデートする場所が少ないことを嘆いていた」
「これデートじゃないし」
「……日和のいけずぅ」
唇を尖らせた谷汲を無視するように、日和は足を止めた。谷汲が自分の前を歩くように、歩幅を調整しているようだ。
日和は知らない人のいる場所があまり得意ではない。銭湯についてきてくれたのは、よほどお出掛けがしたかったからだろう。小さな幼馴染が心労で潰れてしまわないように、谷汲は素知らぬ顔で前を歩くことにした。
久しぶりに訪れた銭湯は、やや小綺麗に改装されていた。共用の休憩スペースも、以前より広くなっている。自動販売機の種類も増え、快適さが増したようだ。受付でお金を払った後、谷汲は真っ直ぐに浴場へと向かった。日和も彼女を追って、脱衣所に入る。貴重品と一緒に着替えをロッカーへ放り込み、久々の大浴場へと足を踏み入れる。
振り返ると、日和はまだ着替えているところだった。
やはり、人目がある場所では彼女の行動速度にマイナスの補正が掛かるようだ。
「なっちゃん、先に入ってていいよ」
「ん」
日和に促されて、谷汲は洗い場へと向かう。
シャワーで軽く汗を流してから、シャンプーに手を伸ばす。備え付けのボトルから適量を取り、掌で泡立ててから頭へと指を突っ込む。家のシャンプーとは違う、柑橘系の香りが鼻をくすぐった。いつも使っているシャンプーは、もっと穏やかな匂いがする。気がする。よく考えてみればシャンプーの補充も日和任せにしていた。日和が選んでくれるなら何を使っても問題ないだろうと思っているせいか、どんなシャンプーを使っているのかも思い出せない。
花の匂いだったような。
キシリトールみたいに爽やかだったような。
「……うむむ」
「なっちゃん、どったの?」
「シャンプーについて考えてた」
「はぁ。さいですか」
いつの間にか背後にいた日和が、不思議そうな声を出した。
谷汲が振り向くより先に、彼女は隣へと腰を下ろす。
そのまま谷汲の髪を手に取り、自分の髪と同じように洗い始めた。既に洗い終わっているのに、谷汲は日和のなすがままにされていた。
「……日和は私に甘いね」
「だって、なっちゃんの世話焼かないと生きていけないもん」
「逆じゃない? 私が、世話焼いてもらわないと死ぬのでは」
「どっちも一緒でしょ」
「むむむ。そういうものかな」
日和に髪を洗ってもらいながら、谷汲は自分の手を見る。
日和よりも大きなはずのこの手だが、幼馴染よりも不得意なことが多すぎる。果たして日和は、ずっとこの手を握り返してくれるのだろうか。僅かに浮かんだ疑問を掻き消すべく、自分の髪を洗ってもらった後に日和の髪を洗わせてもらうことにした。
髪を洗う時のコツは、まずちゃんと濡らすこと。それから、丁寧に泡立てること。最後に、しっかりと洗い流すことだ。同じシャンプーとリンスを使っているはずなのに、日和の髪の毛はふわふわで、谷汲の髪は少し硬い。体質の差なのだろうけれど、なんだか不思議な感じもする。
ふわふわが過ぎて、谷汲は力加減を間違えてしまいそうだった。
「痛くない?」
「大丈夫だよー」
「日和は、もう少し強めの方が好き?」
「いや、今がちょーどいい」
「そっか」
会話が途切れて、谷汲が黙々と髪を洗い続ける。
泡を残さず洗い流してから、今度は身体を洗ってもらうことにした。少し離れた位置にいたおばさんが、ふたりへと物珍しそうな視線を向けている。姉妹だと思われているのかもしれない。日和が谷汲の身体を洗っている間、谷汲はぼんやりと銭湯の内装に視線を向けていた。昔と変わったなぁ、なんて感想を抱きながら。
古ぼけていた壁面は真っ白に塗り替えられていて、タイルの継ぎ目も綺麗になっている。天井の照明もLEDに変わったのか、昔よりも明るくなっている気がした。周囲にいるお客さんの年齢層が上がったのは、谷汲の視界が広がったからだろうか。それとも、街の住民が高齢化しているのか。分からないし、分からなくてもいいかと思った。
「なっちゃん、身体冷たいねぇ」
「冷え性だからなぁ……」
あれやこれやと喋っているうちに、背中も洗い終わってしまった。身体の前面は流石に洗ってもらえないので、自分でごしごしとタオルを擦る。自宅の風呂場でふたりきりだと緊張していた様子の日和も、こうして周囲に他の人がいることで羞恥心よりも社会性が勝っているらしい。恥ずかしがるよりも先に、真面目ちゃんでいようとする性格が勝つようだ。
あとでちゃんと、労ってあげよう。
「はい、おしまい」
「ありがとう、日和」
「どういたしまして。次は私の番ね」
背中を向けてくれた日和を、谷汲はごしごしと洗っていく。鏡に映る日和の顔が、のんきに惚けていた。周囲にいる他のお客さんのことも気にせず、今は谷汲のマッサージを楽しんでくれているらしい。一生懸命に、それでも痛くない程度に力を加減しながら日和の背中を洗う。
「日和の背中、ちっちゃい」
「むっ。猫背になってあげているのだ」
「さいでございますか」
谷汲がからかうようと、日和は口を尖らせた。その様子が可愛くて、つい笑ってしまう。そんな彼女の反応を見てからかわれることを察したのだろう。日和もすぐに笑顔になり、ふざけ合うように言葉を交わしていく。久しぶりの外出も悪くない。雨の日だって、ちょっと頑張れば楽しめるのだ。
「はい、終わり」
「ありがとー」
泡を洗い流し、日和が立ち上がる。それから、くるりと振り返った。
「んじゃ、お風呂いこ」
「ん。どこから行く?」
「もちろん、泡が出るとこ!」
濡れた床に滑らないよう、ふたりで手をつないで歩く。
知り合いがいたら嫌な噂を立てられそうだと思いつつ、谷汲は幼馴染の手を離さなかった。
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