大人になると言うこと

 コーヒーゼリーが食べられるようになれば、大人だと思っていた。

 なんとも子供じみた話である。

「似たようなもんで、仕事してれば社会人だと思っていた時期があるんですよ」

 今もそうだけど、と谷汲が言葉を続ける。

 今日は日和がどうしても始めたいと言っていたアルバイトの面接に同行していた。普通ならあり得ない、と一言で斬り捨てられてしまうようなことだが、谷汲と日和の間柄では普通に成立する。なぜかと真剣に問われても、谷汲は仲が良い幼馴染だから、だけで説明を終えてしまうだろう。嘘みたいだけど、本当の話だ。これには、アルバイトの面接にひたすら落ち続けた日和が最後に選んだ候補地に理由がある。

 日和がアルバイト先に選んだのは、彼女の実家の酒屋さんだ。

 大学を辞めてすぐ、逃げるように谷汲の部屋に転がり込んできた日和は、二年もの間自宅へ戻っていない。彼女の親は娘のことをちゃんと愛していたはずだけど、日和の動向に対してはかなりの放任主義だ。突如として行方不明になった娘が、働きたいと戻ってきたのを平然と受け入れている。叱りつけるでも、心配するでもなく、何事もなかったかのように茶の間に通されてしまったから、谷汲はひどく拍子抜けしていた。

 日和は世界が終わるんじゃないかというほど心配していたのに、杞憂だったのだろうか。店頭には並んでいない、日和の両親の趣味で集めているのだろうお酒が並ぶ棚を眺めながら谷汲は言葉を締めくくった。

「大人になるのも、社会人になるのも、どっちも難しいですよね」

「そうね。谷汲ちゃんもいいこと言うじゃない」

 日和のお母さんは谷汲のことを覚えてくれていたようで、暇潰しのお喋りに付き合ってくれた。差し出されたお茶請けの御煎餅をかじりながら、谷汲は幼馴染の面接を眺めている。形式ばかりの面接だ。日和の両親は、働きたいと手を挙げた娘をはねのけるような人じゃない。それは谷汲も、充分に理解していた。

「紀保、本気なんだね?」

「うん」

「……分かった。それじゃ、一緒に頑張ろうか」

 どうやら、面接は終わったようだ。やはり合格してしまったか、と残念な気持ちもある。日和が働かなければずっと一緒なのに、と谷汲は僅かに頬を膨らませる。谷汲が仕事を終えて帰ってくるまでには日和もアルバイトを終えて戻るだと語っていたがそれは難しいだろう。定刻通りに終わる仕事ばかりじゃない。それを、谷汲はよく理解している。

「それじゃ紀保、ペンを持って」

「はい」

「ちゃんとメモするんだよ」

 それから、日和の父親は仕事を始めるにあたっての約束事を説明していった。日和はA4のコピー用紙に、父親が口頭で教えてくれるやるべきことをリスト化していく。一生懸命に書き取る様子は、まるで小学生みたいだ。

 そっと手元を覗き込むと、最初の行には「お客さんへ笑顔の挨拶をすること」と書かれてあった。今の日和に出来るのだろうか。無理だと思う。日和は昔から人見知りをするタイプで、初対面の相手に対してなかなか心を開かない。それが接客業なんて、無謀すぎる。

 だけど、日和の父親はそんなことお構いなしのようだった。

「そんなに、きーちゃんが心配?」

「……はい」

「ふふっ、谷汲ちゃんは優しいのね」

 谷汲よりもずっと近くで幼少期の日和を見ていたはずなのに、彼女の母親は何も心配していないという風に笑う。日和が家を出ていった日も、彼女はそんな顔で日和を見送ったのだろうか。

「――――」

 父親が話す仕事上の心得を、日和は熱心に書き取っている。親子と言うべきか、教師と生徒のようにも見える。

 彼の言葉に耳を傾けていると、谷汲の様子に気付いたようだ。やるべきことリストの文字列をじっと見つめる日和から離れて、彼は谷汲に向き直った。日和に似て、少し背の低いお父さんだ。接客をしているときの、笑っている目元も日和とよく似ていた。彼は何を言うよりも早く、谷汲へと頭を深々と下げる。何も心当たりがない谷汲は、ただ困惑した。

「あの……」

「君には感謝しているんだ。本当に」

「……話が見えないっす」

「紀保は不器用な子だからね。私達では、娘の心までは救ってあげられないんだ」

 そんなことはない、と言い掛けた言葉を飲み込む。

 谷汲と日和は幼馴染だ。彼女の両親とも、それなりに顔馴染みにはなっている。でも、谷汲が日和のことをすべて知っているわけじゃないように、家族と一緒にいる彼女がどんな顔をしているかは知らないのだ。彼女は、谷汲の前ではいつも明るく振る舞っていた。いつだって笑っていて、彼女を元気付けようとしてくれていた。それはきっと。ふたりが緩やかな共依存関係にあるからだった。

 日和が気張らなくても接することの出来る数少ない相手が谷汲で、谷汲が存分に甘えられる相手が日和なのだ。そこに理由はない。偶然にはまったパズルのピースがあったとして、その凹凸の輪郭を正確に把握する必要もないのだから。

 念のため、谷汲は聞いておくことにした。

「日和とは、連絡を取ってなかったんですよね」

「谷汲さんと一緒だって分かっていたからね。心配はしてなかったよ」

「……知ってたんですか?」

「紀保が本心から頼れるのは、この世にキミひとりだから」

 爽やかな顔で、日和の父親は寂しいことを言った。

 言い返そうとした谷汲は、彼の言葉に実感以上の信頼が込められていることを悟る。それは日和が真面目な子だと知っていて、彼女が不誠実なことをしないだろうという信頼だ。それは谷汲が日和の一番の親友だと知っていて、彼女が日和をないがしろにしないだろうという信頼だ。放任主義のように見えて、彼なりの子育ての理屈があるのかもしれない。

 だからこそ、谷汲は言っておくことにした。

「日和は返しませんよ」

「帰ってこないだろう、君と一緒に居たいんだから」

「……そうですかね」

 いつか離れ離れになるんじゃないかと、薄っぺらな不安が谷汲の心を覆っている。

 それを拭ったのは、やるべきことリストの暗記を終えた日和自身だった。

「なっちゃんは心配性だなぁ」

「でも、日和はたまに意地悪だから」

「それくらいでちょうどいいんだよ。わたし達はさ、お互いに足りないところを埋め合って生きてくのが丁度良いの」

 ふふん、となぜか得意げに胸を張る。根拠ない虚勢を抱いた日和をみて、谷汲は薄く笑った。谷汲が自堕落に生活するのを、日和はちゃんとたしなめてくれる。千鳥足で正しい道から離れていく谷汲を、彼女はしっかりと手綱を握りしめることで助けてくれるのだ。それなら、谷汲に出来ることは何だろう。考えて、考えて、やっぱり何も思い浮かばない。

「私は、日和の側にいることしか出来ないよ」

「それでいいんだよ。……あ、でも、たまに愚痴とか聞いてほしいな」

「……それだけ?」

「それだけ。でも、なっちゃんにしか出来ないことだよ」

 分かった、と絞り出すように応えた谷汲に、日和がそっと近寄る。それじゃ早速、と日和がやりたいことリストの一番上に書かれた文字列を指差した。

「私、人付き合いが苦手なんだけど!」

「うん。知ってるよ」

「でも、ちゃんと働いてみるから。へこんだら助けてよね!」

「……日和にとっての、大人って何?」

「へ、どしたの急に。うーんとね、」

 仕事が出来ること。

 色んな人と関われること。

 頼って、頼られて、社会人として生きること。

 日和が挙げた大人の特徴は、眩しいほどに真面目なものだった。。他人と比れば随分とゆっくりしたペースで日和は大人になっていく。親元を離れて暮らしても、家事を万全にこなせても、お酒が飲めるようになっても、それは彼女にとって大人になった証にはならない。羽化の速度は人それぞれなのに、日和はいつも無理をする。ほんの少し背伸びをして、傷ついて、それでも無理をして。耐え切れなくなった日和は、壊れる前に谷汲の元へと転がり込んだ。

 もう十分に、彼女は心を癒したのだろうか。親の元とは言え、苦手な接客業を選ぶ彼女は、また無理をしている。それを承知で、彼女の父親は受け入れているのだろうか。谷汲には分からない。分からないけれど、それが絆なのだと理解した。

 何度傷ついても、日和なら立ち上がると信じているのだ。何度日和が倒れても、谷汲なら救えると信じているのだ。傷付きながら成長していくのが大人になることだと言うのならば、日和はまだまだ子供のままでもいいのに。そんな風に思ったけれど、口に出すのは止めた。

 きっと、それは日和自身が望んでいないことだから。

 日和が前に進むなら、谷汲は背中を押すしかない。

 でも、それでも。日和が離れていかないことだけは願っても良いだろう。

「私、日和がいないと生きていけないよ」

「だいじょーぶ。なっちゃんのお世話も手を抜かないから」

「……うん。お願いね」

 幼馴染の手を握って、谷汲は身体を寄せる。

 ふたりがただの幼馴染ではなくなっていることに、日和の両親は気が付いている。何も言わず、自分たちのペースで大人になっていく子供達に慈しみの視線を向けた。日々連綿と続いていく生活に、意味なんてものはないのだろう。

 それでも好きな人と笑える時間が大切なことを、日和の両親は知っている。谷汲の手を握った日和が柔らかく微笑むのを見て、彼らは安心したような笑みを浮かべるのだった。


 アルコールの助けを借りながら、ふたりの生活は続いていく。

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アルコール&アンコール 倉石ティア @KamQ

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