現の俺のその気持ち
俺が部屋に入ると、彼女は驚きを表すように目を見張った。
「―――空木さん」
「や、二日ぶりかな。変わりなくて何より」
俺が片手を上げて挨拶をすると、彼女の傍にいた古郡がスッと目を細める。
そしてゆったりと余裕を見せた態度で立ち上がると、俺のことを冷たく見下ろす。
「お前、どうやってここまで来た。部外者が易々とは入れるセキュリティではなかったと思うのだが」
「あら、部外者とは誰のことかしら?」
かつん、とかけがえさんが靴を鳴らした。
かけがえさんはいつものように厚顔不遜に胸を張り、不敵に笑い、いつもよりもずっと楽しそうな声音で、俺の隣に並んだ。
「……御伽々かけがえ。愚かな選択をし続けているのがわからんか」
「わたしはかけがえよ。深鏡であり、御伽々でもある、ただのかけがえ。
残念ながら、貴方の言葉より先にわたしを肯定してくれたやつがいたのよね」
「妹を止めに来たのか。御伽々の役目に囚われるなと、姉らしく説教でもしてみるか?」
「いいえ? わたしはあくまで付き添いよ。わたしよりも、まほろにいろいろ言ってやりたい奴がここにいるようだもの」
フッ、とかけがえさんが微笑む。そして、俺に彼女の方を向けて目配せをした。
俺は頷いて、一歩前へと踏み出した。
彼女が少しだけ、身を固くした気がした。
でも、それでも構わずに俺は一歩を踏み込んだ。
「別れに顔を合わせて挨拶もなしとは、君らしくないんじゃない?」
「……何をしに来たのですか。私は、もう話すことはないです」
じっと彼女が身を固めて俺を見返してくる。
その目は頑なで、俺の説得にはもう耳を貸さないというかのような、強い意志を示すかのようだった。
だから俺は大きく息を吸って、はっきりと言ってやる。
「俺は、俺の話をしに来た! だから君の事情は正直どうでもいい! 悪い!」
「は、はい?」
きょとん、とお嬢が目を丸くした。
ちなみに俺の後ろでかけがえさんは爆笑していた。
うるさいのでこの際無視して、俺は腹の底に煮えている気持ちを言葉という形にして吐き出していく。
「まず、君はめちゃくちゃかわいいと思う。あ、容姿とかの話じゃないよ? いや、それも少しはあるけど、それ以上に君は素の部分がかわいらしいと思う。
反応とかがちょっと幼くてかわいげがあるし、聞き上手だから話してて飽きない。すごいよ、君と話してたら俺はそれだけで結構楽しくなるんだもんな」
「あ、あの、空木さん?」
「料理に関しては今さら言うまでもないけど、めちゃくちゃ美味い。レパートリーが豊富で、あと地味に俺の舌に味付けを変えてくれてたりするのが嬉しかったな。君に思われているって気がして、飯食うだけでかなり元気になれた。君が俺のために料理を作ってくれるというだけで、俺はその日を頑張れたんだよ」
「あ、あの―――」
「そして君はちょっと悪戯っぽところもあって、それがまた、なんていうか、嬉しかった。今まで見えていなかった君の側面が見えることで、俺しか知らない君を見つけることできた気がしたんだ。恥ずかしいことだけど、そのことで俺は自分が特別な一人なんだって、そう思えた」
「な、な、何をいうんですか! 急に!」
珍しく―――いや、俺が初めて見た赤い顔で彼女は声を上げた。
「いや、だから俺の話をしに来たって言ったじゃん」
「だ、だから、それが何故急に私を褒めることになるのですかと聞いているんです! こ、こんなの、何か意味があるとは思えません!」
「意味ならある。だってこれは、ずっと俺が君に言いたくなかった本心だから」
僅かに彼女の姿勢が揺らいだ気がした。
俺も、色々考えた。
お嬢が何を思って俺のことを突き放したのかとか、俺のもとに来たのかとか、いざ会いに行ったときお嬢が俺に何を思うんだろうとか。
かけがえさんの言葉で、ほのかさんの助言で、今まで一緒に住んで、見て来た君の姿で、なんとなくそれを推理することはできた。
でも……それじゃあ、意味がない。
俺が推理して、言い当てて、詳らかにしたその気持ちでは意味がない。
そのためにはまず、俺が自分の素直な気持ちを伝えるべきだって思ったんだ。
「俺は、君との日々が本当に幸せだった。君と暮らせることが俺は本当に楽しかった。
俺はさ、俺の子どものころ取りこぼしたものをもう一度思い出させてくれた君に、本当に感謝しているんだ」
だから、と俺は続ける。
「俺はあの日々を手放したくない。だって、俺はようやく子どものころ欲しかったものを手に入れて―――めちゃくちゃ幸せになれたんだ」
そして、俺は笑った。彼女との短くも濃密なこの三週間の思い出を思い起こし、自然と浮かべてしまうその表情で。
「だから、これからも君には俺の傍にいてほしいだ。この三週間みたいに、これから先も暮らしていきたいんだ」
俺はさらに一歩踏み出して、息を吸って、拳を握った。
「もう、俺は君と―――まほろとじゃないと、幸せになれねえよ」
俺がそう言った瞬間彼女は―――お嬢は―――まほろは小さく「ぁ」と声を漏らした。
「そんなの、ずるいです」
ぽろり、とまほろの翠の瞳から雫が溢れた。
宝石のように澄んだ輝きは濡れたように透明な膜に覆われ、そこから雨が降る様に、静かに涙はまほろの頬を伝い、流れていく。
「……貴方にとって、私がありふれた一人だって思ったから諦められたのに、なんでそんなこと言うんですか。
なんで、私を……私じゃないとダメだなんて、いうんですか……」
ぽろぽろと涙を流すまほろは、そこまで喋ってようやく自分が泣いていることに気が付いたのか慌ててぐしぐしと目元を擦る。
だけど、彼女の瞳からの涙は結局止まらずに、まほろはそのままえづくようにしゃべり始めた。
「私、空木さんを騙していたんですよ? 貴方を利用して、自分のためだけに、貴方の都合も考えず、自分がそうしたいという理由だけで、貴方の三週間を奪ったんですよ?」
「俺が気にしてない!」
「これからもまた騙されるとか、思わないんですか。わがままで、自己中で、そんな女なんですよ?」
「それは俺の度量が試されるな。実は俺も自己中なんだと一昨日くらいに気が付いたので、俺との根気比べもやれるよ」
「私、知っての通り面倒な生まれです。投げ出したくなっても、投げ出せないかもしれないんですよ」
「投げ出さない。言ったろ、君に渡したあの鍵が使える場所が、君の家だって。あの鍵、まだ君が持ってるでしょ?」
「私、独占欲強いです」
「俺も今まほろが隣にいないのがめちゃくちゃ嫌だからお相子だな」
自分の顔を覆うように隠して涙を拭くまほろと目線を合わせるように、俺はしゃがんで、「なあ、まほろ」と語りかける。
―――君、どうしたの? こんなところで。
―――えと、その、お父様と、はぐれてしまって……。
―――ということはやっぱり迷子か。
―――なら、俺が君のお父さん探すの手伝うよ。
その直前、いつかの記憶が脳裏に蘇った。
ああ、なんだかいつかの昔にも、こうして俺は誰かと目線を合わせた気がする。
「俺の幸せの形にはもうまほろがいるんだよ。それ以外の幸せなんて考えられなくて、諦めきれないんだ。だから、まほろがもう諦めて、俺のそばに―――」
言い終わるよりも早く、俺の胸にまほろが飛び込んで来た。
俺より細い腕をいっぱいに広げて、俺の存在を確かめるように、強く、強く。
「ずるいです。それに、すごく馬鹿です、空木さん」
「まほろもだよ。マジでバカ。俺と一緒にいたいのなら、最初からそう言ってくれよ。一ヶ月なんて、期限をつけるなよ」
「だって、最初はそれだけで、十分だって、思ったんです。でも、私、だんだんそれだけじゃ、我慢できなくなっていくのがわかって……それが、こわくて……」
「ああもうわかったって。マジでバカだな、まほろは」
俺はぽんぽん、とまほろの背中を叩きながら、そう言った。
つまりは、そういうことだったのだろう。
まほろはどうしても俺と一緒にいたかった。
彼女の中にはそういう小さな願いが最初にあった。
でも次第にその気持ちは大きくなって、その気持ちはいつしか『御伽々の後継者』としての義務よりも大きくなってしまった。
その気持ちをそのままにして俺と暮らし続ければ、いつか俺には災いが降りかかる。
だから、彼女は俺から離れたのだろう。
俺と、父親の思いを受け継ぐための今の状況を守るために。
ああ、ほんとうにバカだ。そのくらい正直に言えばいいのに、まほろは変なところで強がるんだからさ。
「……流石に、承服しかねる話だな」
低い声がどすんと俺たちの目の前に投げかけられた。
「お前たちが和解できたのは、めでたいことだ。俺もあの終わりに何も思わなかったわけではない。だが、それと今の状況は別だ」
古郡は冷たい目で、じろりとこちらを睥睨する。
「御伽々まほろ。忘れたか? 今の状況はお前が作ったものだ。例え、御伽々翁の遺言に従ったとしても―――この三週間の騒動はお前がいたせいで生まれた責任だ。それをどうするつもりだ?」
「それ、は……」
そして次に古郡は俺へと目を向けた。
「お前はその女を引き取るのか。そして、また一緒に暮らそうというのか」
「ああ。そうするつもりだよ」
「若いくせに大層な覚悟だな。だが、そんなこと誰が許す」
「金なら俺が稼ぐ」
「金の問題ではない。これは人間の権利、義務としての話だ」
「―――」
「お前の家にいる間学校はどうする? 行かなければすぐに問題になるぞ。
それに保護者は? 血のつながりのないお前では、その女を引き取ることなどできん。
保険、医療、教育、生活。そのすべてをお前に背負えるのか?」
古郡は俺を静かに見つめたまま、俺を厳しい言葉で詰めてくる。
怒りも、悲しみも、喜びも、楽しみもなく、淡々と道理で俺へと語りかける。
「法律は? 倫理は? 周囲の人の目は? お前たちの関係を許してくれるか?
いいや、誰も許してくれるまいよ。それが社会に生きるということだ」
それは『大人』としての当然の指摘だった。
今までは一ヶ月という短い時間だったから許されたが、本気で俺がお嬢と暮らすことを望むのなら避けて通れない問題が山ほどある。
それを俺に背負うことはできないという当然の指摘。
ああ、そうだそんなもの当然の指摘だ。当然すぎて―――んなもん、俺はいくらだって言い訳を作れるんだよ。
「物語も佳境―――良いところに来ちゃいましたかね~?」
かつかつ、かつん。普通の人とは違う三拍子。
白杖をついて、今までいなかった新たな人物がこの部屋に現れた。
「お久しぶりです、琢磨さん」
「御伽々ほのか……貴様、なぜここにいる」
「なぜって、私、まほちゃんのお姉さんなのですよ~? 妹の一大事には、来るのが普通でしょう~?」
いつも通りほんわかした態度、のんびりとした口調でやって来たのは御伽々ほのか。
まほろとかけがえさんのお姉さんで、俺とかけがえさんが呼んだこの状況をひっくり返す最後のピース。
ほのかさんは杖を器用に使いながら歩いて、かけがえさんの隣を抜けて、俺とお嬢の隣を通り過ぎる。
その一瞬、ほのかさんが俺にこっそり目配せをして、「約束、守ってくれてありがとう」と呟いた気がした。
彼女は俺とお嬢の前に立ち、妹たちを背に背負うとほにゃり、と首を傾けた。
「琢磨さん、まほちゃんが少年くんの家に住むのは許されますよ。だって、私が許しますから」
「……お前が許したから、何になる」
「なんにでもなりますよ~。だって、まだまほちゃんの後見人は決まってないでしょう~?」
後見人、という言葉を聞いた時、古郡の目がハッと見開かれた。
「まさか、ほのか……」
「ええ。私がまほちゃんの―――御伽々まほろの未成年後見人になります。
私には、それができる能力と権利がありますから~」
未成年後見人。
それは親権者―――つまりこの場合は御伽々翁が亡くなった後に、親の代わりにまほろを程する役割を追う人のこと。
その彼女が監督のもと許すならば、まほろは俺のもとに下宿という形で暮らすことだって可能……らしい。
ちなみにこれは俺のアイデアではない。
まほろと別れてかけがえさんに叱咤された後に、俺が頼った居酒屋の常連の弁護士『センセイ』の発案だった。
その時の会話は確かこう。
『センセイ! 俺が合法的に未成年の女の子と同居できる方法を考えてください!』
『ううん!? このボクに犯罪の片棒を担げとォ!?』
『めちゃくちゃかわいい子だから、俺があの子を守ってやりたいんです!』
『陸人クンの発言には危ない部分しかないねェ!?』
最初は俺の言葉に引いていたセンセイだったけど、俺から話を引き継いだかけがえさんの説明によって状況を理解した後は、随分親身になってくれた。
そのことに俺が頭を下げると、センセイは自嘲気味に笑いながら俺の肩を叩いてくれた。
『はは、いや何。たまにはたかりじゃなくて、純粋に人の役に立つために、このボクの力を使ってみたいというだけさ』
『でも……』
『気にしないでくれ。ボクはやりたいことをやっているだけだ。それに……』
『それに?』
『君には酔ったボクを家まで連れて帰ってくれた恩がある。返さないのは、寝覚めが悪い』
そう言って、センセイはほのかさんが未成年後見人となるもろもろの処理と、裁判所に認められるような条件の提示、果ては未成年の子の後見人を姉が引き受けた件例についてありったけ調べて俺たちに渡してくれた。
本当に、感謝してもし足りない。
「そんなもの……認められると思うのか?」
「私、琢磨さんが知っての通り、お金だけはたくさん持ってるんです。
御伽々と関係ないお仕事をしているので、もちろん裁判で戦うというなら私の貯金と、琢磨さんとの資金の勝負になるでしょうか?」
古郡がほのかさんを睨むように、チッと舌を打った。
「……俺への当てつけか」
「いいえ。私がそうしたいと思っているだけですよ~。
私が、まほちゃんには『御伽々』とは関係ない場所で生きる道があってもいいと、そう思うだけです」
しばらく、古郡は黙したままほのかさんを睨んでいた。
だがやがて自分の顔の深い皺を指でなぞって、くつくつと笑い始めた。
「……なるほど、俺は悪役か。さしづめ、おとぎ話のヒロインを攫った悪い魔法使い、とでもいったところか」
そう呟いた古郡は再びまほろに目を向けた。だが、先ほどとは打って変わって、その目は穏やかだった。
「御伽々まほろ。お前は、そいつのところにいられれば満足なのか。そいつのもとに行けば、『普通』とやらは手に入っても、『御伽々の後継者』として生きることは二度と叶わぬだろう」
まほろがこくりと頷いた。
「……いつか、後悔するかもしれんぞ」
「いつかは、そうですね。もしかしたら、私はこの今の選択を後悔したくなるのかもしれません」
でも、とまほろは俺の顔を見ると小さく微笑んで、古郡を真正面から見つめ返した。
「いまは、しません」
古郡が瞼を閉じて「そうか」と呟いた。
どこか、ありえなかった未来を夢想するような声だった。
先ほどまでの厳しさが鳴りを潜めた、ひどく痛々しい静けさを宿した声だった。
「全て、了解した」
まるで、その言葉をかみしめるようにじっくりと間を取って、彼はやがて瞼を開いた。
目を開けた時にはもう先ほどのような痛々しさはなくて、今までと同じ厳しさを宿した冷たさがあった。
「フン、『御伽々』の一族は、本当にロクでもない。好き勝手に状況をひっかきまわし、会社を自分たちの玩具のように扱い、挙句の果てには全てを投げ捨てる。呆れてものも言えん。
貴様らのようなものになど、会社を任せておけるはずもない」
じろりと古郡がまほろと、かけがえさんと、最後にほのかさんを見て……ついでに俺は睨んでから鼻を鳴らした。
「御伽々まほろ、俺が会社は貰う。お前は駆け落ちでもしてどこぞに消えたことにする。
だから、もう二度と会社に関わってくれるな」
「古郡小父様、それって……」
「好きにしろ。お前たちのようなわがままな一族などもう知るものか。
せいぜい好き勝手に、お前の欲しかった幸せを享受しろ」
そう言って古郡琢磨は俺たちの前から去って行く。
現れた時と同じく冷ややかに、厳しく、淡々と、するべきことをしているだけとでもいうように。
ぎゅ、とまほろが手を握ると去り行く古郡の背に頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! 小父様!」
古郡はお嬢の声に振り向くことはなかった。
でも、廊下の向こうに消える前に一瞬だけ見えた横顔は、呆れたような笑みが浮かんでいた……気がした。
そうして、俺と彼女の嘘から始まった同棲生活は、終わりを告げた。
これが俺とお嬢の―――空木陸人と御伽々まほろの、長いようで短い、この一か月間の同棲のことの顛末だった。
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