はじめての揺らめき




 深鏡……じゃなくて、かけがえさんと別れて部屋に戻った俺は、とりあえずお嬢をベッドに寝かせた。

 電車から降りてまあまあ歩いたけれど、ついぞお嬢が起きることはなかった。


 服選びに時間もかけたし結構疲れていたのかもしれない。


「んー……、それは俺も、かな」


 ぐぐっと伸びをすると体のどこかでぱきっと骨が鳴った。

 どこが鳴ったのかはよく知らないけど、俺はこういう伸びをしたときに骨が鳴る音が割と好きだったりする。


 さて、お嬢が寝ているうちに夕飯の準備でも……あら?


 ふと気づくと背後で誰かが身じろぎした気配がした。

 振り返ると、先ほど寝かせたはずのお嬢がいつの間にか体を起こして、俺の方をじっと見つめていた。


 彼女は少しだけ首を傾けて、ふ、と微笑んだ。


「おはようございます、空木さん」


「あれ、お嬢起きてたの?」


「いえ、今起きました」


 なるほど、寝かせた拍子か、それとも俺が動いた拍子か、そのあたりでお嬢は目覚めてしまったらしい。

 まあ、別にずっと寝ていてほしかったわけでもないし、別に起きたのは構わないんだけども。


「空木さん、今日はありがとうございました」


 ぺこり、とお嬢が俺へと頭を下げた。


「えーと、服のこと? そんなに気にしてもらうほどのことじゃないけどな」


「いいえ、いいえ。私のパジャマに、私服に、それに帽子まで……随分なお金遣いをさせてしまいました。そのことにはきちんとお礼を申し上げないと」


「いいっていいって。確かに一度俺が払いはしたけど、あとでそこら辺の経費も含めてかけがえさんに貰う予定ではあるしさ」


「かけがえさん、ですか」


 きょとん、とお嬢が俺の言葉を繰り返した。

 そしてもう一度「かけがえさん」と小さな声で、でも何かを噛み締めるように呟いて、目を細めて微笑んだ。


 ……なんだろう、ちょっと圧を、感じる?


「空木さん、私のことは未だに『お嬢』なのに、かけがえさんは『かけがえさん』なんですね」


「えっ、いやそれは……」


 にこり、とお嬢がさらに優しい笑みを向けてくる。


「私が眠っている間にずいぶんいろんなことがあったようですね」


「そ、それは……」


「かけがえさんが名前を呼ぶことを許すのって、ものすごい信頼の証なんですよ?」


 俺としては『かけがえさん』と呼ぶことに大きな意味はない……たぶん。

 だって、俺はかけがえさんからそれを求められたから呼んでるわけで。

 ほらさやっぱり『深鏡』って、一人称にしてる割にはいろいろ思うところがある名前らしいし、それをずっと呼び続けるのもどうかという気持ちもあるというか……。


 俺がどう説明したものかと焦りつつわたわたと空中でろくろを回していると、目の前の少女がふるふると肩を揺らしているのに気が付いた。


 これは……、まったく。


「お嬢、また俺をからかってますね?」


 俺がため息混じりにそう問いかけると、お嬢が纏っていた緊張感をすっと解いた。

 そしてくすくすと笑いながら口元を隠す。


「ふふ、ごめんなさい。ただ、少し期待してしまっただけなんです」


 期待? なんの?


「私に、言い訳してくれるか、でしょうか」


 ぱち、とお嬢が片目を瞑って悪戯っぽくそう言った。


「……まだ、俺の事からかってますね?」


「ま。心外です。すこしだけ、すこしだけ、反応が見てみたかっただけです」


 言いつつも顔が明らかに面白がっている。絶対にまだ俺をからかってるつもりでいると思う。

 けど、ひとしきり笑ってしまうとお嬢は満足したらしく、だんだんと表情がひどく静かなものへと変わっていく。


「ほんとうは、さっきの感謝の言葉はかけがえさんのことも含まれてます」


 かけがえさんの?


「私が眠っている間に、私の気持ち伝えてくださったんですよね」


「―――」


 それは、まさか俺とかけがえさんの話を―――。


「言っておきますが、聞いたわけではありませんよ? ただ、なんとなく、『かけがえさん』と呼んでいるということは、そういうことなのかなって」


 指を組んで、解いて、また組んで、お嬢はとつとつと語る。


「かけがえさんは私にとって大切な家族で、ずっとそばにいたかけがえのないお姉様です。

 かけがえさんもまた、私のことを家族として扱い、妹としてかわいがってくださいました。

 でも、やっぱりかけがえさんにとって私は半妹なので……」


 その言葉の続きをお嬢は明確に言葉にしなかった。


 でもそのすごく寂しそうな横顔から、なんとなくどんな関係になったのかくらいは予想がつく。


 以前お嬢は「昔はもっと近しかった」とか言っていたし、昔は今よりずっと『姉妹』らしい距離感だったんじゃなかろうか。

 今ももちろん二人は仲良しだとは思うけど、俺が『姉妹』と教えられるまで気づかれない程度には、ちょっと距離感が遠い。


「お嬢は、やっぱりかけがえさんが好きなんだね」


「ええ、ええ。大好きで、尊敬していて、自慢のお姉様です」


 胸を張る様にお嬢は肯定する。

 しかし、浮かべた笑顔を少し陰らせて「でも」とつないだ。


「やっぱり私は妹だから、それ以上にはなれないから、かけがえさんは素直に言葉を受け取ってくれない気がしていました」


 それは、そうかもな。


 かけがえさんはお嬢のことをすごく大切にしていた。好きなのが伝わって来た。間違いなく、御伽々まほろという少女の一番の理解者は姉である深鏡―――御伽々かけがえ以外にあり得ないだろう。

 でも、そんなかえがえさんだからこそ、御伽々まほろという少女の優しさを知るからこそ、お嬢の言葉を信じ切れなかったかもしれない。


「かけがえさんは姉様や私がいても一人だったんです。私を守るために、私をひとりにしないために、自分が一人でいることを選んでくれたんです」


 それが深鏡かけがえとしての彼女の生き方だったのだろう。

 彼女にとっての『かけがえのないお嬢様』を孤独にしないために、自分が耐え続けることが。


「ですから、空木さんには期待していたんです、私。

 もしかしたら、空木さんならかけがえさんに踏み込んでぶつかって行っちゃうんじゃないだろうか、って」


「あー……、俺への期待値高くない?」


「ま。そんなことありませんよ。『かけがえ』さんと呼ぶことを許されているということは、実際にそうなった、ということでしょう?」


 にこ、と微笑むお嬢。


「おかげで、すこしだけ、安心してます。

 今の騒ぎが終われば、かけがえさんが、私のためだけじゃなくて自分のためにも、自分に優しい生き方をしてくれるんじゃないかって。

 ……空木さんのおかげですね?」


「過大評価だって。案外、お嬢が直接言えばうまくいったかもよ?」


「でも、実際にかけがえさんにぶつかっていったのは貴方でしょう?」


 そうは言われてもやっぱりだましているような気分になる。

 頭をポリポリとかきつつ、なんとお嬢に言うべきかを頭の中で整える。


「俺は確かにかけがえさんといろいろ話したけど、それはやっぱり俺がそうしたかっただけで、お嬢が期待してくれてたようなことは何もしてないよ。

 なんというか、俺はただかけがえさんとお嬢について余計な気を使いたくなかったというか……」


 うん、俺がかけがえさんといろいろ話したことのスタートは、「俺が気を使いたくなかった」ってところなんだし。

 だから、お嬢にかけがえさんのことでお礼を言われるのは、正直お門違いなのだ。


「――――」


 ぽそり、とお嬢が何かを言った気がした。


 でもそれは俺にはよく聞こえなくて。なんと言ったかを聞き返そうとしたものの、お嬢はふるふると首を振って、わざとらしく「そうだ」なんて呟いた。


「そろそろご飯にしませんか? いま冷蔵庫に空木さんが特売で買ってきてくださったキャベツがあるので、ロールキャベツにしようと思うのですけど。お好きですか?」


「え、あ、ああ。うん、好きだけど……」


「なら、すぐに準備しますね。待っててください」


 とたた、とお嬢が冷蔵庫の方に駆けていく。俺はその背中を見送りながら、ぼんやりとよく聞き取れなかったお嬢の言葉を頭の中で巡らせていた。



 ―――五年前のことなんか、覚えてませんよね。



 俺がお嬢と知り合ったのは、半年前。迷子になっていたお嬢を交番に連れて行った時が初めてだ。

 五年前にお嬢と会った記憶はない。そもそも俺は大学進学を機にこっちに来たから、お嬢と面識があるわけがないのだ。


 なら、お嬢の言葉はどういう意味なのだろう。


 しばらく考えたけれど、俺の中に答えが浮かんでくることはなかった。


 ただ、水面の揺らめきのように一瞬だけ笑顔の中に現れたさみしそうな横顔だけが、ひどく印象に残っていた。

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