はじめての居眠り

「おい、講義終わったぞ」


「お、おお……」


 ゆさゆさと揺すられた刺激に、思考を支配していたまどろみを振り払う。

 しぱしぱと瞬きをすると、俺の隣で呆れたように息を吐く人物に焦点を合わせる。


「おお、風野か……起こしてくれてサンキュー」


「風野か……じゃないよ。教授、絶対お前が寝てるの気づいてたぞ」


「げ、マジ?」


「ああ。途中お前の方をじーって見てたから間違いないね」


 それは、やっちまったな。

 ううむ、次からはもうちょい気合い入れて講義を受けなきゃな。


 ノートは……おおう、見事にミミズが這ってるな……。これの解読にはちょっと骨が折れそうだ。


「風野、ノート貸してくれないか? 俺のノートはマジで何書いてあるかわからん」


「貸し一つな」


「いつもお前が休んでるときは俺がノート貸してるんだから、差し引きしても俺の貸しの方が多いだろ」


「おっとこいつは藪蛇だったか」


 風野が「昼休み終わるから早めに映せよ」と差し出してきたノートをありがたく受け取り、自分のノートと風野のノートを見比べて解読を始める。

 そんな俺を見つつ、風野はやれやれと首を振った。


「ま、オレが言えた義理じゃないけど、講義は真面目に受けた方がいいんじゃねえの?

 せっかく空木は優等生で通してんだし、もったいないだろ」


「わかってるよ。今日はちょっと油断しただけだ」


「またバイトか? ほどほどにしとけよ、お前が体壊したら金稼いでも仕方ないだろ」


 それはまあごもっとも。


 俺がノートを改めて取り直していると、横に座った風野がたぷたぷとスマホを触り始める。

 そして、「ほー」とか「へー」とか言いつつ、指を動かしていた。


「なに見てんだ?」


「んー? 経済ニュース」


 そう言って風野は俺にスマホの画面を見せてくる。


「……また御伽々グループのこと見てんのかよ、風野は」


「いいじゃねえか、ここ一か月で最大のニュースだぜ、御伽々グループのことは」


「だとしても、見たって面白いもんでもないだろ」


「いやいやそんなことねえよ? ほれ、見てみ? この古郡琢磨ってオッサン。亡き会長の跡を継ぐって、張り切って会見してるんだぜ? 熱量もやたらとあるし、中々見物だぜ」


 そう言って風野はスマホを操作して、古郡ふるごおりの会見を再生した。


 画面の向こうの厳しい顔をした50代くらいの壮年の男性はフラッシュをたかれながらも厳しい顔を崩さず、淡々と、けれどどこか熱を感じさせる口調で「御伽々翁氏の穴は私たちが埋めていきます」と述べていた。


「古郡琢磨。かなりのやり手ってニュースには書いてあったけど、この人が案外次のトップになっちゃったりすんのかねえ」


「……さあな。俺にはわかんないよ、そんなことさ」


 風野の言葉に適当に相槌を返したが、俺はこの古郡という人を知っていた。


 一度だけ、お嬢の屋敷を訪れていたのを見たことがある。

 静かで、冷たくて、そして厚い。まるで巨大な岩のような人物だった。


 昔かえがえさんが教えてくれたが、なんでも御伽々の分家筋の人らしく、血筋をたどればお嬢の従兄弟にあたる人なのだそうだ。

 御伽々の家は当主となれなければ『御伽々』を名乗ることは許されず、権力闘争に負けた当主の兄弟は婿養子に行って名字を変えなければならないのだという。


 そういう事情もあって、こうした分家と御伽々本家はあまり中がよろしくない……ということらしい。


 この古郡という人もその例に漏れずお嬢には当たりが厳しく、以前はお嬢がうつむきがちに彼と相対していたのをなんとなく覚えていた。


 俺としても、あまりこの人は好きになれない。


 ぱたん、とノートを閉じる。


「うっし、終わり。風野、ありがとな」


「あいよ。じゃあ生協売店にでも行くかぁ。俺は今日は唐揚げ弁当がいいんだけど、残ってるかねえ」


「別にパンでいいだろ。安くてうまいし」


「俺は健全な男子大学生なの。一日に一回は肉っぽいものをがっつり食べないと満足できないの」


「家で食べればいいんじゃないの?」


「自分の料理じゃイマイチ満足しきれないんだよ。

 あーあ、隣の部屋に住んでる美人の女の子が『これ作り過ぎちゃって……』って美味いものくれないかなぁ」


「具体的には?」


「寿司とか?」


「肉じゃないじゃん……」


 あと寿司作りすぎて差し入れてくれる女性が隣の部屋に住んでる確率はたぶん宝くじ当たるより低いと思う。

 手巻き寿司とかなら差し入れてくれる可能性はまだあるかもしれないが……。


「あれ、なんかえらく混んでるな?」


 俺と風野が教室から出て生協食堂に向かっていると、中庭の一角がやたらと人で込み合っているのに気が付いた。

 がやがやと何かしゃべりながら集まる人たちは、どうやら何かを囲いながら見守っているようで、緩やかな半円を描くようにしてそこにいた。


「なんだ、公開告白でもしてんのか?」


 興味深そうに風野がそちらに歩き出したので、俺も一応その後に続いた。


 風野と俺は、人込みの隙間を縫うように少し背伸びをすると、その半円の中心を覗き込んでみた。


 そこにいたのは、一人の女性だった。


 彼女は中庭のベンチに腰かけたまま、大きなカンバスを広げて手を動かして何かを熱心に描いているようだった。

 周囲にいる人はみな、その彼女の絵が出来上がっていく様子を、まるで手品でも見るように興味深そうに見ていた、というわけだった。


 ただ絵を描いているだけなのにこれほど人の注目を集めるとはいったいどんな絵なのだろうかと、カンバスを覗き込もうとして、はたと気づく。


 この人の姿に、なんだか俺は見覚えがある。


 纏う雰囲気は柔らかく、極限まで薄い金の髪は、俺が一番近くにいる彼女のようにふわふわだ。

 それに日本人離れした整った顔立ちと、ひと際目を引く大きな翠の瞳。


 ゆったりとした服を着ているから体のラインはわかりにくいが、たぶん胸はかなり大きい。

 そしてその側には、日常的に使用されていることがわかる真っ白の杖が置いてある。


 少々見覚えがないところもあるが、彼女はまるで……。


「お嬢、みたいだ」


 そうだ。彼女は、なるで俺の同棲相手『御伽々まほろ』をうんと成長させたような、それに近い雰囲気を纏っていた。

 お嬢よりはタレ目気味で、眠たげな眼をしているが、お嬢とすごく似ている。


 そう思っての呟きが俺の口から出た瞬間、今まで黙々と絵を描いていた彼女がパッと顔を上げた。


「―――あ、ようやく来たんだね~」


 彼女はそう言うと、握っていた筆を傍らにあった杖に持ち替えて、杖を支えにした立ち上がった。


「そこの君、すこーし時間、もらっていいかな~?」


 かつ、かつ、かつん。人より一拍多い三拍子のリズムを刻み、彼女は人込みをする抜けるように俺と風野がいる方へと歩いてくる。


 隣の風野がヒュウ、と口笛を鳴らして恭しく杖を突く彼女へと手を差し伸べた。


「おっと、お嬢さんオレに何か御用ですか? それなら……」


「あ、君じゃないんだ~。ごめんね~」


「―――アッハイ」


 そしてあっさりと振られていた。何してんだ。


 彼女は、風野の横をすり抜けて、そして俺の前までやってくると足を止めて、ほにゃりと微笑んだ。


「私、君に会いに来たんだ、空木くん。かけちゃんやまほちゃんからお話は聞いてるよ~?」


 かけちゃん。まほちゃん。たぶん、あだ名だ。


 そして、この名前に該当する人物を俺はそれぞれ一人しか知らない。


 なら、つまりこの人は……。


「うん、きっと空木くんが思っている通りの人物だね~?」


 そして彼女は再び微笑んだ。

 それはどこか、俺の知る二人の人物と近いものを感じさせる微笑みで……、本当になのだということを俺に納得させるようだった。


「私の名前は御伽々ほのか。妹がお世話になってるみたいだね~」

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