はじめての弱音





「陸人ー三番テーブルー!」


「うっす!」


 店長の指示に従って料理を運んで、注文を取って、また料理を運ぶ。


「陸人のやつは今日も良くやってんなぁ」


「何が欲しくてそんなに働くんだが。おーい、陸人―こっちにもビールくれー」


「はーい!」


 いつもの常連さんがかけてくれる声を聞きながら、居酒屋をちょこちょこと走り回る。

 俺以外にも店員がいないわけではないけど、今日は一人休みで穴が開いているからいつもよりも忙しいのだ。


「美味かったぜ、またなー」


「ありがとうございましたー!」


 じゃあな、と手を振って帰っていく常連さんたちに頭を下げる。

 そして、俺が常連さんたちの食器を片そうとすると、入れ替わる様にさらに見知った顔が入ってくる。


「どうも……おやぁ、陸人クン、今夜は『いる』日だったかぁ」


「おお、センセイ。今日はお仕事帰りですか?」


「まあね。今日もブラックスレスレの零細企業から金を巻き上げて来たというわけさ」


 暖簾をくぐってぬぼーっと出てきたのはここの常連の一人、弁護士のセンセイだ。

 いつものように黒ずくめのくたびれたスーツ姿で、黒縁メガネ。

 覇気がなくて胡散臭い空気を纏っているけど、なんだかんだ憎めない人である。


「今日は何ですか? たまには違うもの頼んでみたり……」


「ビールと枝豆。厚焼き玉子」


「はいはい、いつも通りですね」


 俺が注文を取って厨房の方に伝えると、料理が出来上がる前にとりあえずお通しとビールだけ届けに行く。

 ごとん、と机の上にビールのジョッキを置くとセンセイは満足そうに目を細めた。そしてゴクゴクと一気にビールを煽ると、ぷはぁーと息を吐き出した。


「かー、やはりビールの一杯目は最高だよ。こののど越しがたまらないんだよねぇ。

 陸人クンもそう思うだろう?」


「いや俺はまだ未成年なんで」


「大学生なんて酒ギャンブル女に溺れてるものだろう」


「最悪な大学生のイメージ押し付けないでください!」


「そうは言っても酒くらいはこっそり飲んでいるだろう?」


「弁護士センセイの前で下手なこと言う気は出ないですね~」


「はっはっは、僕みたいなたかりの弁護士相手にそんな気遣い無用だよ」


 そう言って枝豆を食ってまたビールを一口。


「しかし……君も、変な子だねぇ、陸人クン」


「俺ですか?」


「だって、酒も女もギャンブルもしないんだろう? じゃあ君、何のためにこんなにバイトしてるんだい? 最近前よりもここに来る頻度が高くなっているだろう?」


「何のためにって、そりゃ金の」


「そんなに稼いで何に使うんだいって意味だよ。前は生活費を稼ぐため、とか言ってたけど、ここ最近はその域を超えているんじゃないかい? 顔、随分疲れてるよ」


「……はは、いやなんでもないっすよ。ちょっと色々ありましてね」


「……まあ、無理には聞かないけどね。酔っぱらいのたわごとだ、忘れたまえよぉ」


 そう言って、センセイはまた枝豆を肴にビールを飲み始めた。


 ……疲れてる、か。




 次の日は、大学の後に土木工事のバイトが入っていた。

 肉体労働。時給は高いがその分キツイという、あまり喜ばしくない労働だが、その分日給が毎回払われる。


「んじゃ、アルバイトはこっちで並んでくれー。給料渡すぞー」


 正社員のおっちゃんの声でアルバイトが並び、貰った茶封筒を大切に抱いて三々五々、更衣室に向かって解散していく。

 俺もその流れに従って、着替えを済ませると帰路に就く。


「お疲れさまでしたー」


 日が落ちかけている道をぼんやりと歩きつつ、頭の中でそろばんを弾いてお嬢がいる残り二週間の生活費について考える。

 まあ、たぶんこの調子でバイトを続けていれば、お嬢にそんな苦労させることなく今の感じで暮らしていけるはずだ。


 ……確かに、ちょっとバイトはキツイ。


 今まで俺の食い扶持だけでよかったのが一人増えて、その分をフォローしなきゃいけない。

 男の一人暮らしと違って、女の子と暮らしていたら細々なものを買い揃えたりする必要も出てくる。


 でも、そこにキツさを感じていることがお嬢に知れれば、お嬢はきっと申し訳なく思うだろう。

 お嬢は優しい子だからな。たぶん、食事をもっと質素にするとか自分も何か内職を、とか言い始めるだろう。


 でも、それはだめだ。


 かけがえさんとの約束と違うし、そもそも俺はお嬢にそこまで負担を背負ってほしくない。俺のことなんかで心を痛めないでほしい。


 だってお嬢は十分今まで頑張っていて、きっとこれからも頑張らなきゃいけない。


 なら、せめて俺の家にいる間くらいは、自然に、肩の力を抜いてほしい。


 ああ、それに―――。


「あれ、空木さん?」


 ぼんやりとした思考に柔らかく入り込んでくる声があった。

 俺が導かれる様にその声の方へと目を向けると、そこには買い物袋を片手にしたお嬢が立っていた。


「お嬢、なんでこんなところに?」


「なんでって、見ればわかりませんか? お買い物です」


 ほら、とお嬢が買い物袋を俺に見せつけてくる。


 周囲をよく見てみれば、いつの間にか俺は家の近くの商店街の中にいた。

 色々考え事をしながら歩いていたから、いつの間にかこんなところまで来ていたらしかった。


 それで買い物中のお嬢と鉢合わせた、と。


 最近のお嬢はカギを使ってちょこちょこ出歩いて買い物をしたりしているから、そんなこともあるかもしれないのか。


「空木さんはバイト帰りですか?」


「え、ああ。まあね。今から帰ろうかと思っていたところ」


「ま。そうですか。でしたら、今から一緒に―――いえ、こちらを先に言うべきでしょうか」


 ふ、とお嬢が微笑んだ。


「おかえりなさい、空木さん。今日もお勉強と、お仕事おつかれさまです」


 ―――ああ、うん、本当さ。


 おかえりなさいと、おつかれさま。


 なんて事のない言葉だ。ロマンチックだとか、劇的だとか、記憶に残る名言だとか。

 そういうのじゃない。誰だって言ったことのある、普通の言葉。


 それだけで、俺はこんなにも救われた気持ちになる。


 疲れなんてすぐにどっかに行っちゃうんだ。不思議なもんだよなぁ。


「荷物、持つよ。重いでしょ」


「え、いえ、お疲れなのは空木さんなのですから―――って、ああ!」


「さーて、帰ろうか! お嬢、置いていくよ!」


「う、空木さん!? なぜ走るんですか!?」


「せっかく外に出たんだ! 体はちゃんと動かしておいた方がいいってこと!」


 ひょいっとお嬢から荷物を取って先に走り出した。

 すると、お嬢も俺につられたように、あわただしく走り出した。


 そうだ、俺はお嬢の笑顔のために働いているんだ。


 そのためなら、働くのなんてちっとも辛くない。


 うん。だから、俺は大丈夫なんだよ、センセイ。


「さー、お嬢! 勝った方は今日の皿洗い当番ってことで!」


「ず、ずるいです! 先に走り出しておいて!」


「勝負の世界はいつだって残酷さ!」


 そうして俺は、お嬢に軽くしてもらった足取りで、家まで駆けて行ったのだった。

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