はじめてのお誘い


 19時と少し。今日の土木工事のバイトが終わり帰路に就く俺は、正社員のおっちゃんっからもらった茶封筒の中身を確かめていた。


「ひい、ふう、みい……これでしばらくは大丈夫そうだな」


 とんとんと古びた階段をのぼって、アパートの角にある自室まで向かう。

 古びたドアノブに鍵を突っ込んで、ガチャリと開ける。


 すると部屋の中からとたたと足音が聞こえてきて、俺がちょうど家の中に入るころには彼女は微笑みと一緒に玄関で俺を待ってくれていた。


「おかえりなさい、空木さん」


「ただいま。ごめんね、遅くなって」


「いいえ、いいえ。ちっとも遅くなんかありませんよ。ごはんにされますか? お風呂にされますか? どちらも準備できていますよ」


「んー、メシにしたいな。正直もうペコペコでさ。腹の中でロックバンドでもされてるか疑うレベル」


「ま。それは一大事ですね。いまお味噌汁温めますから手を洗って待っててください」


 お嬢が髪を揺らめかせて台所へ向かったのを見て、俺も手を洗いに洗面所に向かった。

 手を洗うついでに顔も洗って仕事先の疲れが万一にも表に出ないように心がける。


 お嬢は人の感情の動きに結構目ざといからあんまり心配させないためには俺もそれなりに気を遣ったりする。このくらいなんでもないんだが、お嬢はちょっと過度に心配しがちだからな。


 あくびをひとつかみ殺しながら羽織っていたジャケットを脱いで俺が食卓に着くと、ほどなくしてお嬢があらかじめ作っていたらしいおかずと白米、味噌汁を並べてくれた。

 今日のおかずは日本の定番メニュー肉じゃが。何とも男が喜びそうなチョイスだ。もちろんおれだって大喜びである。


「いただきます」


「めしあがれ」


 熱さを気にするのももどかしく、まず味噌汁に口をつけて汁を啜った。

 いま温めてくれた味噌汁はしたがぴりつくほどに熱かったが、よく出汁が取られたシンプルな味わいは汗をかいていた俺の体に素早く馴染んだ。


「は~~~、うまい」


「ま。大きな息ですね」


「それくらいうまかったってこと。疲れてる時に飲む味噌汁は染みるよなぁ」


「空木さん、なんだかおじいさんみたいですよ?」


 箸を手に持ったお嬢はくすくすと肩を揺らして笑った。


 そんな彼女に肩をすくめつつも、俺の目線は次のおかずへと向かっている。

 汁物を飲んで体を温めた。ならば次はガツンと肉じゃがで飢えを見たいしたいところだ。


 まず器の中のじゃがいもを箸で取る。醤油、砂糖、酒などで甘辛くつけられたじゃがいもはほんのりと食欲を掻き立てる茶に染まり、強く箸で掴めば崩れてしまいそうだった。

 だが、すっかり溶けて小さくなっているということはなく、ぜひとも大きく口を開けて米と一緒に頬張りたいサイズ。


 俺はそれを肉と一緒に口に入れるとガツガツと米と一緒にかきこんだ。

 噛めばほくりとほどけ、煮つけられた醤油と砂糖の味がじんわりと染み出してくる。いっしょに口に入れた肉からも噛むほどに旨みが溢れ、俺の口の中を旨みの飽和状態へと叩きこんだ。


「お嬢、今日も美味いです」


「それは良かったです。空木さんはいつもちゃーんと『おいしい』って言ってくださるから作りがいがありますね」


「美味いもんを美味いっていうのは普通ですよ」


 その後、俺がものも言わずに夕飯を食べるのを、お嬢はにこにこ見ていた。

 お嬢自身もいつも通り品を感じさせる仕草でゆっくりと食べていたようだったけれど、俺が三杯目の飯のお代わりをする頃にはちょうどよく俺と一緒に「ごちそうさまでした」と手を合わせた。


「ふう……」


「ほう」


 そして二人そろって食後のお茶を飲む。

 ここ最近ですっかり「いつも通り」となった、俺とお嬢の食事のサイクルだった。


 ……そう言えば、今ってお嬢をデートに誘うチャンスか?


 いや、同じ家に暮らしているんだから誘う機会はいくらでもあるんだけど、こうして腰を落ち着けて話す機会となると、今が一番いいタイミングな気がする。

 いまなら風野に聞いたアドバイスけっこう覚えてるしな。


 と、言ってもどう切り出したものか。


 残念ながら俺は女子をデートに誘ったことなんてない。まずったな、デートの誘い方も風野に聞いておくべきだったな。


 ううむ……。


「空木さん、どうかされたんですか? まるでワトソン博士がシャーロック・ホームズから難解で迂遠でいじわるな言い回しをされて頭を悩ませているようなお顔ですよ」


「どんな顔?」


 いや、まあ、悩んでも仕方ないか。

 お嬢に変に隠し事をしてもいいことがあるわけでもない。ここはストレートに聞いておこう。


「いやさ、お嬢が来て今週末で二週間じゃん? でもその間お嬢は基本的に家にこもりっきりだし、今週末とかどこかでかけないかなって」


 きょとん、とお嬢が目を丸くした。


 でも「どこかに、でかける」とゆっくりと俺の言葉を繰り返すと、困惑するように俺へと問いかける。


「そ、それはまさか、デート、の、お誘い、ですか?」


「ま、まあ、そんな感じかな。どちらかというと、日ごろ家のことをしてくれているお礼も兼ねてって感じだけど」


 なんだか言い訳がましい言葉を続けてしまう。

 別に悪いことをしているわけではないのに、なんだか居心地が悪いというか……何とも気恥ずかしい。

 これがデートに誘うっていうことなんだろうか。


 ああ、駄目だ。なんとなく恥ずかしくて言わなくてもいいことまでぺらぺらと口から言葉が出てきてしまう。


「いや、別に無理してお嬢を連れていこうって言うんじゃないよ? もし行きたいところがあるなら連れていくって言うか。ほら、俺はお嬢に『普通』の中の楽しいことを教えるって言ったわけだしそれを遂行する責任があるというか? もちろん嫌ならいいし―――」


「いやなはずありません!」


 がたっとお嬢が立ち上がって声を上げて、なぜかお嬢自身が自分の声のデカさにびっくりしていた。

 どうやら反射的に叫んだせいで思ったよりも大きな声が出てしまったらしかった。


 お嬢は少し赤い顔を咳払いで誤魔化しながら正座しなおして、「とにかく」と言葉を繋いだ。


「いやなんてことは、ありません。空木さんがお誘いしてくれるなら、ぜひしたいです、『デート』」


「そ、そっか。それは、なんていうか、光栄です?」


 なんとなく俺とお嬢の間に曖昧な空気が流れている気がする。白いというか、桃色というか、なんか甘ったるいのか、爽やかなのか、酸っぱいのかよくわからない、そんな感じの空気。


 いや、そんなものは全て俺の幻想だ。今この部屋に漂ってるものなんて肉じゃがの甘い醤油の匂いくらいのものだ。


 気持ちを切り替えるために頭をかきつつ、切り出した。


「ええと、お嬢はどこか行きたいところある? 俺はあまり行きたいところはないし、お嬢の行きたいところがあるなら合わせるよ?」


 まあ、それもかけがえさんに「ほんとうにそこに行っても大丈夫か?」みたいな確認をと手からじゃないと実際に行けるかはわかんないんだけども。

 それでも、言うだけはタダだし。


「そうですね……」


 お嬢が腕を組みつつ「むむ……」と唸り、やがて俺を見つめて来た。


「空木さん私は―――」


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