はじめてのデート


「ここが……そうなんですね」


「ええ。ここがそうですよ、お嬢」


 おとぎ話から抜け出してきたような清潔感のある服装に、先日買った大きな白い帽子をかぶったお嬢がほえーと目の前の建物を見上げる。


「ここが噂の、『水族館』ですか……」


 うん。そういうわけで電車を乗り継いで、やってきました水族館。


 お嬢に「どこに行きたい?」って聞いたところ「水族館に行ってみたいです」という答えが返って来たので、かけがえさんに電話で確認を取って休みの日にやって来た、というわけだ。

 もちろんお嬢が大っぴらに出歩くのはよくないのだけれど、かけがえさんは「今は割と上の方も安定してるから、念のために顔を隠してるなら構わないわ」と言われた。


 俺には御伽々グループのことはよくわからないけれど、かけがえさんが言うなら間違いないと思う。


「でも水族館でよかったの?」


 入り口でチケットを買いつつ、隣で俺が操作するのを興味深そうに見ているお嬢に話しかける。


「ええ。昔から一度行ってみたいなぁと思っていたんです。ですので、行きたいところと言われるとここが思いついたんです」


「あ、お嬢水族館来たことなかったんだ。やっぱ、家の方針とかでこういうところは連れて来てもらえなかったの?」


「ああ、いえそういうわけではなくて。

 ただ、動物園や遊園地は御伽々ウチの会社でも経営しているんですけど、水族館は取り扱ってなくて、視察でも来たことがなかったというだけなんです」


「経営と来たか……」


「ええ。なんでもそちら方面の人材を確保できなかったから手を出せなかったと聞いています」


 こういう話を聞くとやっぱりお嬢は俺と違う世界にいた人なんだなぁ、なんて思う。


 券売機で入館チケットを買った俺は、それをそのまま隣のお嬢に手渡そうとした。

 だが、いつの間にかお嬢は俺の方ではなく、少し離れたところを見つめてぼんやりしていた。


 お嬢の視線の先に俺も目を向けると、そこにはなんだかイルカとクジラがデフォルメされたようなでかいボードと戯れる家族連れがいた。

 あの、記念写真とか取る用の顔をはめる穴があけてあるやつ。


 お嬢はそれをじっと見つめていて、俺がチケットを差し出したのに気が付かなかったらしい。


 俺はその姿がちょっと面白くて、笑み混じりにお嬢の肩をちょいちょいと肩を叩いた。


「記念に写真でも撮る? いい記念にはなるかもよ」


「ま。私のこと、子ども扱いしてませんか?」


「でもお嬢、ちょっとうらやましそうに見てたよ」


「そんなことありません。ただ、ちょっとだけ見覚えがなくて興味深かっただけです」


「そうだね、そういうことにしておくよ」


「う、空木さん本当ですからね! あんまり意地悪な言い方をすると怒りますよ!」


「ははは、ごめんって」


 ジトーっと睨んでくるお嬢に軽く笑いつつ、チケットを手渡した。

 お嬢はしばらく俺とチケットとを恨みがましく交互に見ていたものの、「ほんとうにうらやましいわけではないですからね」と念押しをして、チケットを受け取ってくれる。


 こういうところは、年相応だな、なんて思う。


 水族館に来たことがない違う世界の女の子の中にも、確かに俺と同じような『普通』さが眠っていて、それに少しだけ安心する俺もいる。


 うぃーん、と自動ドアをくぐって館内に入る。それが何となく面白くて、小さく笑ってしまった。


「空木さん、それほど私を子ども扱いしたいですか」


「ああ、ごめんごめん。お嬢のことを笑ったつもりじゃなかったんだ」


「では、何を?」


「ただ俺、この自動ドアから建物の中に入る瞬間が結構好きでさ。なんか、別世界に来た、って空気感って言うのかな。そういうのを肌に感じるんだよね」


 俺の言葉に今度は、お嬢が小さく笑う番だった。


「ふふ、それはまた、空木さんも随分子どもっぽいのではないですか?」


「え、いや誰にでもあるでしょそういう気持ち」


「なら、そういうことにしてあげましょう」


 先ほどのジト目はどこへやら。

 楽しそうにくすくすと笑うお嬢によっぽど言い返そうと思ったけれど、お嬢の機嫌が直ったのでまあいいか、と流すことにした。


「さて、進もうか。お嬢は知らないかもしれないけど、水族館は順路が決まってるから、その通りに進むんだ」


「そうなのですね。では、エスコートをお願いしますね」


「これは責任重大だな……」


「ちなみに、以前かけがえさんと動物園に行ったときには、かけがえさんはすべての動物の生態について解説して本職のガイドさんの仕事を奪う勢いでエスコートしてくださいました」


「それはもうガイドさんが不憫でならないよ」


 披露したんだろうな、動物図鑑を完コピしたみたいな知識を……。


 その後、俺たちはゆっくりと順路に従って、水族館を進んでいった。


 小さな水槽の中鎮座する貝。きしきしと足を動かすカニなんかの甲殻類。

 きらきら鱗を乱反射させて泳ぐアジ。水槽の光が落とされる中うすぼんやりと光るクラゲ。

 巨大な水槽の底でのそのそと泳ぐ大きなナポレオンフィッシュ。狂暴な顔とにょろりとした体のウツボ。

 なぜ同じ水槽の魚を食べてしまわないのか不思議なサメ。テレビで見た姿そのままに子どもを伴って泳ぐカメ。

 円柱型の水槽の中を天に昇る様に泳ぐペンギン。硝子坂の向こうにいる子どもを興味深そうに見つめているイルカ。


 お嬢はそれをゆっくりと、ゆっくりと歩きながら眺めて、時には水槽の前の説明文を熱心に読んで、俺に感想を伝えてくれた。


 俺たちを追い越していく速足の子どもの声を聴きながら、俺はお嬢の言葉に頷いたり、「サメが他の魚を食べないのはエサを十分に貰ってるからなんだって」とか「やっぱりペンギンも室内飼いで日光に当たらないとストレスで参っちゃうんだって」みたいな誰でも知ってるような相槌を打って、お嬢のペースに合わせて歩いた。


 うっすらとした明かりの中、水槽の前で魚を見つめるお嬢の横顔はまだ中学生だっていうことも忘れそうになるくらい綺麗だった。



 ―――五年前のことなんか、覚えていませんよね。



 こうしてお嬢の横顔を見ていると、数日前のお嬢の言葉が蘇る。


 結局、俺はお嬢にまだその言葉の意味を問いただすことができていなかった。


 きっと聞いてもお嬢にははぐらかされてしまう気がしたというのもあるけど、やっぱり俺に全く心当たりがないというのが俺の気持ちを鈍らせていた。


 五年前。お嬢が言っていた何かの記憶。

 俺の知らない、お嬢の記憶。


 俺たちは、どこかで会っているのだろうか。


 俺の覚えていない俺を、お嬢は覚えているのだろうか。


「なんだか、水族館って人の一生みたいですね」


 不意に、お嬢が水槽のガラスに手を触れて、呟く。

 その目は水槽という狭い世界を泳ぐ魚に、何かを重ねているようだった。


「順路が決まっているけれど、どこをどのように見るかはそれぞれで決まっている」


 俺たちの後ろを、他愛もない雑談をしながら追い抜くカップルがいた。


「説明文をじっくり読む人もいれば、魚の泳ぐ姿を見る人もいる。見ない人だっている。絵を描く人だっていました。誰と歩くかも自分で選んで、何を思うかも縛られないんです、ここは」


 どこか遠くで子どもが笑う高い声と、それを注意する親の声が聞こえた気がした。


「順路という、時間みたいに一定の流れをゆっくり歩いていくのはみんな同じだけど、それでもどう進むかは、とても自由」


 どこか寂しくて、どこか達観した言葉だった。中学生の子どもらしくない、どこか上の方から客観視したような、そんな感想。


「水族館、気に入らなかった?」


 俺が問うと、お嬢はふるふると首を振って、ふ、と俺に微笑む。


「すごく、素敵な場所です。私、気に入っちゃいました」


「それは良かったよ。連れてきた甲斐があった」


 ああ、そうだ、連れてきた良かった。


 御伽々グループの末娘としての、彼女の遠さ。

 その中にあるただの女の子としての、近さ。


 それを感じる。水族館という非日常の場所のおかげだろうか、今までよりもお嬢の内面が見えている。


 順路を進み終わると、名残り惜しくも水族館とはお別れになる。


 お嬢のペースに沿ってゆっくりと進んだせいか、俺たちが水族館を出るころには次第に日が暮れ始め、太陽が夕日へと姿を変えようとしていた。


 その中を手を繋いだ家族連れが、楽しかったね、なんて話すカップルが、ゆっくりと歩幅を合わせる老夫婦がそれぞれ帰路についている。


 それを見ながら、お嬢は呟いた。


「みんな、家に帰っていくんですね」


 どこか寂し気で、どこかうらやましそうな声音。入館の時に、家族写真を撮る人たちを見ているときもお嬢はこんな顔をしていた。


 もしかしたら、お嬢は『家族』に何か自分の思いを重ねていたのかもしれない。

 自分のもういなくなった父親と、もういない母と、今は一緒に暮らしていない姉と、半分血のつながらない姉とを、思い出していたのかもしれない。


 家に帰っていく人たちを見て、ありえない『もしも』を考えたんだろうか。


 だとしたら……俺は、このプレゼントを選んだのは、ちょっと正解だったかもしれないな。


「なあお嬢、手、いいかな?」


「はい? いいですけど……」


 周囲の人々がそうするように帰ろうしていたお嬢を呼び止める。

 彼女は俺の言葉に不思議そうに首を傾げたけど、俺の頼みを断ることはなく、すぐに手を差し出してくれた。


「今渡すものでもしれないけど、はいこれ」


 俺はそんな彼女の手に、ポケットから取り出したものを乗せてやる。


「これは?」


「うちの合鍵。ないと不便でしょ?」


「え―――」


 お嬢が目を丸くした。


 そして、自分の掌の上に載ったカギと、俺の顔との間で視線をなんでも行き来させる。


 はは、驚いてる驚いてる。


「う、空木さん、こんなもの」


「本当はもっと早く渡したかったんだけどさ。まあ、かけがえさんとどのくらい出歩いても問題ないか? みたいな話をしてたら長引いちゃってさ。

 ようやくかけがえさんとそこら辺の折り合いをつけられたんだよね。カギがあればお嬢も俺がいない間に買い物に行ったり、散歩したりとかできるだろうし。まあ、行くとしても商店街くらいまでで抑えてほしいけどね」


 お嬢は何かを言いかけていたけど、俺はそれを遮るように言葉を繋げる。

 そして、少しだけしゃがんで、俺の肩ほどしかまで身長がない彼女と目線を合わせた。


「お嬢、このカギが使える場所が、君の家だ」


「―――」


 一ヶ月だけの仮初だけど。いつか、お嬢が出ていくけれど。こんなのおとぎ話みたいな、泡沫の夢でしかないけど。


 あの小さな部屋は、俺とお嬢の家なんだ。


「……家。あそこが、私の」


 きゅ、とお嬢が手の上のカギを握った。そして、宝物みたいに胸元で抱いて、しゃらりと首を傾けた。


「まるで、プロポーズみたいですね」


「えっ」


 そういうつもりはなかったけど……やべ、カギ渡すのってそういう意味になる?

 俺が思うよりも何かしら大きな文脈が生じるのか?


 俺の脳裏でイマジナリーかけがえさんが「まほろに手を出すことの意味、わかるわね?」と囁いて来て、頬に汗が流れる。


 俺のそんな焦りを知ってか、知らずか、お嬢は小悪魔のように言葉を紡ぐ。


「ふふ、冗談です。ほんとうに、空木さんは騙されやすいですね。

 将来、悪い女の人に騙されないか心配です」


 また、からかわれたな。これ。


「……ええ、今現在まさに悪い女性に騙されているので気を付けようと思いましたよ」



「ま。それは大変ですね。お相手は誰ですか? 私、注意しましょうか?」


「楽しそうっすね、お嬢」


「そういう空木さんは不満そうですね」


 お嬢が踊る様にステップを踏んで家へと、手に持つカギが使える場所へと進んでいく。

 楽しそうに、寂しさなんて感じさせない足取りで、年相応な無邪気さで。


「さあ、帰りましょう。今日はデートのお礼に腕を振るいますから!」


「それだと日頃のお礼にここに連れて来た俺の気持ちと釣り合わなくない?」


「ま。でしたら、また来週もお出かけに連れて言って貰わないといけませんね」


 強かに、けれど子どもっぽく、彼女は笑った。


 その姿に俺も困ったように笑い返して、たまには風野のアドバイスも役に立つな、なんて思ったのだった。


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