かけがえのない逃避行
「……ちょっと、予想を外してしまったわね」
街の人込みに紛れて、深鏡をつけていた尾行のほとんどは撒いてしまったと思っていた。
現にそれらしい人は深鏡の視界の中にはいない。
けど、明らかに見られている。
背中に、首筋に、張り付くような誰かの視線を感じる。
それも一つや二つではなく、かなりの人数だ。
「フッ、深鏡も人気になったものね」
お父様が死ぬ前はこれほど興味を持たれることなんてなかったのに、今になってこんなにモテモテなんて、深鏡も罪な女ね。
……最も、連中のお目当ては深鏡じゃなくてまほろの方なのでしょうけど。
「でも、深鏡を舐めないことね」
近くを歩いていた女性の集団の後ろついて、息と歩調を合わせて人の流れのままに身を任せる。
視線は未だ深鏡にべったりと張り付いているけれど、いくらなんでも全ての方向に注意を配るなんてできない。
人がすれ違う一瞬、ほんのわずかに生まれる深鏡の身体を人混みが覆い隠すのと同時に、深鏡は自分の身体を近くの路地に滑り込ませた。
大通りから抜けて人通りも少ないここでなら追って来たらわかるし、何より人混みのせいで深鏡が監視から抜け出したことに気が付くのにも遅れるはず。
「フッ、この程度で深鏡を追い詰められたと思ったのかしら。深鏡のことを舐め過ぎね」
「ならば、この程度で俺を撒けたと思っているお前も、俺のことを舐めすぎかもしれないな」
「―――ッ」
突然、目の前に人影が現れた。
いえ、違うわね。こいつは最初からここで深鏡を待ち構えていた。
「あからさまに尾行の数を増やしてそれを深鏡に悟らせたのも、深鏡をここに追い込むためだった、と。やるじゃない」
「お前ほどの女を尾行の質で追い詰めるのは不可能だ。こちらはこちらの利点を使って量で攻めさせてもらった」
「姑息ね」
「三週間近くも泳がせてやっていたことを思えば慈悲があるとすら思うが?」
かつん、靴が地を叩く。
真っ黒のスーツと、分厚く長いコートはまるで死神のローブのよう。
顔に刻まれた深い皺と、冷たく厳しい表情は彼の年齢を本来のものよりも高く見せるのに役立っているよう。
ほんとうに、こんな男の顔、もう見たくなかったのに。
「久しぶりだな、深鏡かけがえ。いや、御伽々かけがえ、と言い換えるべきか」
「ハッ、改革派の筆頭の貴方がこの深鏡に何の用かしら、古郡琢磨」
「呼び捨てとはな。昔通り琢磨小父様でも構わんのだがな」
「まほろを追い回すストーカーに何が悲しくて様なんて付けなければならないのかしら」
後ろは……駄目ね、いつの間にか人で固められている。
二、三人は制圧できるかもしれないけど、その後はどうしようもない。
この状況に追い込まれた時点で、深鏡の負けはもう決まっていた。
袋小路のねずみ。この雄々しく強かな深鏡なら獅子であるべきなのに。
「ふむ」
じろり、と古郡が深鏡を睥睨した。いえ、正しく深鏡の隣にいるべき人物に、というべきかしら。
「お前だけか、まほろはどうした。一緒にいるんじゃないのか」
「さあ、何のことかまるで分らないわ」
大丈夫。誤魔化せる。まだ、なんとか。
そうだ、誤魔化さなければならないの。だって、まだ約束した一ヶ月に届いていない。
そのために深鏡は今まで動いていたのだから。
「……なるほど、今までやっていたのは陽動だったわけか。
そうまでして何を……いや、欲しかったのは時間だった。そんなところか?」
嫌になるくらい察しがいい。
だから昔からのこの人が苦手で、恐ろしくて、少しだけ尊敬していた。
古郡は「どうしたものか」と声を漏らしながら、自身の顔に触れて深い皺をなぞるように指を動かした。
「なあ、かけがえよ、俺はお前を評価しているのだ」
そして、急に古郡は深鏡に語り始めた。
「深鏡かけがえ。お前は御伽々翁の娘の中で最も才能にあふれている。
御伽々翁は、最も自身の才覚を色濃く継いだお前を『深鏡』に押し込んだ。
あまりにも馬鹿らしい、血筋で人を見るあまりに、磨けば光る玉を磨かず捨てるなど」
「お世辞なら結構よ。何が目的なの?」
「別に世辞ではないのだがな」
まあいい、と古郡は呟いた。
「御伽々まほろの居場所を教えろ。それで、この馬鹿らしい権力闘争を終わらせる」
「妹を売れと?
ハッ、ありえない提案ね。何が悲しくて貴方が権力を手に入れる手伝いなんか」
あまりにもありえない提案に思わず嘲笑が漏れてしまった。
でも、もし今の頼み方で深鏡がホイホイとまほろの居場所を吐くと思っているのなら、あまりにも愚かしい。
笑わない方が無理よ。むしろ腹を抱えて呵呵大笑しなかった深鏡を褒めてほしいくらいね。
古郡は目を細める深鏡を静かに見つめ返し、淡々と言葉を繋げていく。
「俺はいままほろのことを追っている。
確かにそれは、このくだらない権力闘争を終わらせるためだ。だが同時に、それは御伽々まほろに指名されたから、という理由だけで行われていいものかは、俺は甚だ疑問に思っている」
「話が長い。簡潔に言いなさい」
「……」
古郡が黙り込んだ。
もしかして、ちょっと傷ついているのかしら。
「俺は会社のトップに立つのは、その資質があるものであり、それは私ではなくてもいいと思っている、ということだ」
「……どういうこと?」
す、と古郡が深鏡を指差した。
「お前だ。深鏡―――いや、御伽々かけがえ。お前が後継者となり、今の会社を立て直せ」
「……は?」
頭が真っ白になった。
こいつは、何を言っているの?
深鏡が、後継者? お父様の?
「馬鹿に、しているの。深鏡は、妾の子なのよ」
すぐに言葉を切り捨てるつもりだったのに、口にした言葉は自分が思うよりもずっと掠れていた。
「御伽々翁の血を継いでいるのなら十分だ。凡夫の姉と、幼く未熟な妹に比べれば、お前が選ばれるのが道理だ」
―――なぜ、お前がそうなのだ。
もういない父親の声が脳裏に蘇る。御伽々と名乗ることは許されず、『深鏡であれ』と深鏡に言いつけた、あの時の表情が蘇る。
「俺はお前を誰よりも見込んでいる。お前は若く、才覚に溢れ、誰かの上に立つことに向いている。
そして、お前もまた俺と同じく血に恵まれなかった人間だ」
そう言って古郡琢磨は―――、分家故に初めから御伽々の当主となる道を閉ざされていた男は深鏡に語り掛けて来た。
「もちろんタダでとは言えん。お前が御伽々まほろの居場所を教えて、俺につくというならば、俺はお前が後継者となる道を全力で整えてやる」
「深鏡が、後継者の……」
「最もお前はまだ若い。最初は俺のもとで仕事を学ぶ必要があるだろうが、そのくらいは我慢してもらいたいな」
さて、と古郡が自身の顔の深い皺をなぞって、再び深鏡に語り掛けた。
「もう一度聞こう、御伽々かけがえ。御伽々まほろはどこにいる?」
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