はじめての朝ごはん




「……さん、……ぎさん」


 誰かに呼びかけられている気がする。

 いやしかし、俺はこの狭いワンルームにひとり暮らしのはずで、だから俺を起こす人なんていない。


 なあんだ、ならこれは気のせいだな。


 大学生活が始まって一年と少し。ひとりで暮らすのにもすっかり慣れ切ったと思っていたが、まさか俺に寂しさが残っていたとは。

 やれやれ、厄介な幻聴だ。


 俺は布団をかけなおしてもう一度寝なおそうとしたが、その手がきゅっと握って止められる。


 え? 誰の手?


「空木さん、何をぶつぶつ言ってらっしゃるんですか? もう朝ですよ」


 朝一番、ねむけ眼の俺を迎えたのは、おとぎ話のお姫様みたいな女の子だった。


「……お嬢?」


「ま。まだ寝ぼけてらっしゃるんですか。これから一緒に暮らすってお話したじゃないですか」


 あー……、あー?

 ああ、そう言えばそうだった。俺はお嬢と同棲することになったんだった。


 夢みたいな出来事だったけど、どうやら昨日のことは現実らしかった。


 慌てて体を起こして、はたと気づく。

 部屋がほんのり暖かい。それになんだかいい匂いもする。


 これは、食事の匂いだ。台所の方でくつくつと鍋で味噌汁が煮えている様子も見えるし、まず間違いない。


 ならば今度はそれをだれが作っているかという疑問なのだが、これに関しては答えは一つしかない。


「空木さん、もうすぐご飯できますから待っててくださいね」


 いつの間にか台所へと戻って、包丁を動かしている御伽々まほろ。彼女が料理をしていた。

 服は昨日俺が貸したジャージのまま。

 ダボつくからか上の方までまくられた袖からは生白い腕が覗いている。


「……なんでお嬢が料理してんの?」


 なんか今日起きてから質問ばっかしている気がする。


「なんでと言われましても、私、居候ですから。このくらいするのは普通ではないですか?

 あ、すみません、冷蔵庫の中にあったもの勝手に使っちゃいました」


「あ、いやそれは別にいいけど……。

 って、そもそもお嬢は俺のご主人様なんだけど!? 料理作るのなら俺では!?」


「でもこれからはしばらく生活費から住む場所から空木さんのお世話になるわけですし……」


「だからってわざわざお嬢が料理なんか―――」


 言いかけて、ぐう、と腹が鳴った。

 ふふ、とお嬢が口元を抑えてからかうように笑んだ。


「お話はごはんを食べてからにしませんか? せっかく作ったのでおいしいうちに食べてほしいです」


「いや、でもお嬢」


「あ……空木さん、私のごはんなんか食べたくなかったですよね。

 勝手に食材も使っちゃったし、そもそもかけがえさんほど上手でもないですし……」


「食べまァす! ありがとうお嬢!」


「ま。ほんとうですか?」


 くそう。そういうしょんぼりした顔されたら食べざるを得ないだろ。

 まあ、どちらにしろお嬢の好意は無碍にはしたくないしな。


 でも、お嬢って料理とかできるんだろうか。


 だってお嬢はお嬢様だったわけだし。自炊とかしたことないだろうしさ。

 と、思っていたのだけれど、いざ目の前にお嬢の料理が出されるとそんな心配がてんで見当はずれの心配だったと分かった。


 ほかほかの白ごはん。お店に出すように整ったオムレツ。そして作り立ての味噌汁。

 和洋折衷。日本人ならたまに出会う感じの組み合わせでの献立が並んでいた。


 正直言って、めっちゃうまそうだった。


「えと、いただきます」


「はい、めしあがれ」


 お嬢に見つめられつつ、おそるおそる箸を手に取る。

 そして、まずは味噌汁をのもうとして、中の具がワカメとネギであることに気づいて、直感的に「あ、これ俺好きだ」と思った。

 だってワカメとネギって、なめこと豆腐くらい外れねえ具だもん。


 そして案の定うまい……いや本当にうまいな!?

 ほんとにこれ俺の家にあったもんで作った料理なの?


 味噌汁で体を温めた流れで、今度はオムレツに目を向ける。

 柔らかめでやや半熟気味に作れられたオムレツはするりと入って、簡単に一口サイズに切り分けることができた。

 そのまま口の中にオムレツを運び、その味わいに体が震えそうになる。


 これもうめえな……。

 俺がいつも適当に作る醤油かけて食ういり卵とかとは違う深みがある。なんだろう、この美味さ……あ、玉ねぎか。薄切りにしていためた玉ねぎが中に入ってるんだ。

 だから単調じゃないし、触感にも味にも深みがあるんだ。

 そして、これめっちゃ米に合う。


 あー……、美味い。いつぶりだろ、誰かの手料理とか食ったの。


「あの、空木さん、お口にあったでしょうか?

 すみません。和食で揃えた方が良かったのでしょうけど、私のレパートリーだとこれが一番手堅く作れて……」


 あ、やべしまった。あまりの美味さに言葉を失っていたらしい。

 お嬢を心配させてしまった。申し訳ない。


 なので、ここははっきり感想を言わせてもらう。


「お嬢」


「は、はい……」


「めっっっちゃ美味いです。俺、ここ一年で食った中で一番だと思います、これ」


「ま」


 俺の言葉にお嬢は少し安心したように表情を緩めて、すぐに口元を抑えて声を漏らした。


「ふふ、それは褒め過ぎだと思いますけど、お気持ちはいただきますね」


「いやいやマジですって。こう、なんていうか、ああ俺ってこういう料理好きだったなって思い出すって言うか。自分のために作ってもらった手料理を食べるのとか久しぶりで……」


「あら。空木さん、かけがえさんのお料理をたまに食べさせてもらっていませんでしたか?」


「え? あー、まあそれはそうなんですけど……」


 まあ、確かにたまに深鏡さんは俺に飯を恵んでくれた。

 だけどあれっていつも「いつかまほろに食べさせるための試食をしなさい」とか言われてのことだったんだよな。


 だからまあ俺のためってわけでもないし……。

 いいやそれをわざわざお嬢に言いはしないけどさ。


「まあとにかく、めっちゃうまいですお嬢の料理。どこで習ったんです?」


「花嫁修業の一環で。手習い程度ですがかけがえさんにも教えていただいていましたし。

 花嫁なら殿方の喜ぶ料理くらいは心得ているべき、と」


 なるほど、あの一週間にやたらと入っている習い事か。

 あれはいつか結婚して、どこか名家に嫁いだ時に役立つようにと聞いていたが、ここまで本格的にやってるとは。


「でもお嬢が嫁ぐ相手くらいになれば、お手伝いさんが料理してくれるんじゃないんすか?」


「ま。私も女の子ですよ? 自分の手料理で好きな人を満足させたいって気持ちはあります」


「そうなんですか」


「そうなんですよ」


 そうらしい。


 お嬢がご飯を食べさせたいくらい好きな相手。

 俺はよく知らないけど、許嫁でもいるのだろうか。


「それで、どうですか?」


 気づけば、お嬢の宝石のような翠の瞳が、俺のことをじっと見つめていた。

 まるで何かに期待するように、俺の答えを待つように、じっと。


「それで、どうですか? 私のごはん、満足ですか?」


「え、ああ、うまいよ」


「ま。それはよかったです。がんばってきた甲斐がありました」


「うん? いつか来る日のために頑張ってたんだよね」


「はい。今までの努力が報われそうで良かったです」


 お嬢の言葉は曖昧で、何かをぼかしているようにどこか要領を得ない。

 なんか大学入試の現文読解やらされてる気分になる。


 ……って、やべ、いつの間にかそろそろ家でないと間に合わない時間だ!

 今日は一限あるから急いで行かないといけねーんだ!


 慌ててごはんの残りをかきこんで手を合わせる。


「ごちそうさま! 美味かったです! ごめんお嬢最後慌てて食べちゃって!」


「あ、お粗末様です。空木さん急にどうされたんですか?」


「大学あるの忘れてたんだ! 今から出るから!」


「ま。それは大変ですね」


「うん! あ、だけどお嬢はゆっくり食べてな!」


 えーと準備……は、リュックに全部教科書入ってるからいいや。パソコン入れて、あ、着替えてねえ!

 ここで着替え……は、できねえから風呂場に行って着替えなきゃ!


 わちゃわちゃとあわただしく着替えを終えてジャケットを羽織るとリュックを背負う。

 よし、今から出れば十分間に合う!


「ごめん今からちょっと出るからお嬢一人にしちゃうけど、今日2限までだから! 13時までには帰ってくるから!」


「はい。わかりました。ならそれまでここで空木さんを大人しく待っておきますね」


「ごめんな。なるべく早く帰ってくるから。あ、本! 本とか漫画とか、あとテレビとか好きにしていいから、あと……」


「もうわかりましたから。はい、このお部屋で好きにさせていただきます。

 ですから、ほら」


 ぐい、とお嬢が俺の背中を押して、玄関まで俺を連れていく。

 そして少し首を傾け、ふ、と微笑んだ。


「いってらっしゃい、空木さん」


「え、あ、おお……、いってきます、お嬢」


 家を出て、扉を振り返る。


 いってきますを言うのもずいぶん久しぶりだった。

 「いってきます」も「いただきます」も「ごちそうさま」も、一人だとあまり言わない言葉だもんな。


「これから、俺とお嬢で暮らすんだな……」


 くそ、改めて字面にするとやばいな。

 これ深鏡さん以外の人に知られたらえらいことになるぞ。

 ご近所さんにバレようものなら一発で警察に通報、手首に手錠を頂戴しかねない。


 うん、頑張ってなるべくバレないように立ち回らないとな。


 鍵を取り出して、アパートの前に止めてある自転車の鍵を外して自転車に跨る。

 そして、なんとなく最後に自分の部屋のある方を振り返って、窓の向こうから俺を見ているお嬢に気が付いた。


 お嬢は、俺と目が合うとカーテンの隙間から控えめに手を振って、ぱくぱくと口を動かした。

 俺の間違いでなければ、たぶん「がんばれ」とか言ってくれている気がした。


「……うっす。がんばります」


 その仕草に何となく気恥ずかしくなった俺は、小さく手を振り返して、大学まで自転車を滑らせた。

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