はじめての「おやすみ」





 ということで、今日はもう寝ることとなった。


 お嬢が俺の部屋に来たのは22時くらいで、深鏡さんと話したりお嬢と話したりしていたから、もうすっかり夜も深い。

 そろそろ寝なければ明日にも響いてしまうだろう。


「じゃあ、お嬢はベッドで寝てくださいね。俺はベッドの対角線上の場所で雑魚寝するんで。

 あ、ベッドの布団とかシーツとかは今日ちょうど洗濯して干したからふかふかで気持ちいと思うんで、では!」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


「あ、はい」


 早口で言い残してシュババッと俺の狭い部屋の対角、シンクがあるあたりにブランケットを持ってダッシュしかけた俺の服の袖を、お嬢が控えめにつかんだ。


 くっ、無理すればほどけるのに短いとはいえ使用人やってた頃の習慣で言いなりになってしまった。


「空木さんのお部屋なのに私がベッドなんておかしいです。空木さんがベッドで、私がお布団なのが普通ではないでしょうか?」


「いやいや俺のご主人様を雑魚寝なんてさせられるわけないでしょ!?

 しかも布団がないからブランケット一枚で寝るんですよ?!

 お嬢には無理ですって」


「ま。それは聞き捨てなりません。私、それほど弱くはありません」


「いやお嬢は大切にしなきゃいけないんだよ。俺のご主人様なんだし……」


「……空木さん、座ってください」


「いやそうは言っても」


「座ってください」


「あ、はい。座ります」


 お嬢は俺を座らせると、子どもに言い聞かせるようにゆっくりと俺に語る。


「いいですか、空木さん。ここは誰のお部屋ですか?」


「俺の部屋ですね」


「ですね。ではそのお部屋にあるベッドは誰のベッドですか?」


「まあ、俺のベッドですね」


「では、私はこの部屋ではどういう立場ですか?」


「俺の雇い主です」


「いいえ、いいえ。違います。私はこのお部屋では居候です」


「それはそうかもしれないけど……」


「私はこのお部屋では居候です」


「あ、はい。わかりました。話続けてください」


 お嬢、変なところで強情なんだよな……。


 彼女は口元を手で抑えてわざとらしく一つ咳ばらいをする。


「こほん。で、私は居候です。

 つまり、今まではともかく、このお部屋では私は空木さんより立場が下です」


「まあ、この部屋に限ってなら、そうかもしれないですね」


「でしょう? だから、このお部屋でベッドに寝る権利があるのは空木さんだけなんです。

 だから、床には私が……」


「いやいや言いくるめられませんからね!?」


「ま」


「そんな不服そうに頬を膨らまされましても……」


「では、仕方ありません」


 ほっ、と胸をなでおろす。

 どうやらお嬢もわかってくれたらしかった。


 じゃあ、俺が床でお嬢は―――。


「なら、二人でベッドに寝ましょう。これなら公平です。ええ、これで手を打ちましょう」


「打てない打てない打てない打てない!」


 どうしてその提案が通ると思ったの!? さっきよりもやばくなってんですよ。


「ま。空木さん、わがままはだめですよ」


「これはわがままじゃなくて意見の申し立てです! 付き合ってもない男女が一緒に寝るなんて許されるはずないでしょう! インモラルです!」


「そうでしょうか?」


「疑いの余地もなくそうです!」


 俺が叫ぶと、お嬢は腕を組んで「本当にそうでしょうか」と小さく首を傾げた。


「確かに男女がいっしょに寝る、ということに昨今は大きな意味を見出されています。

 でも雪山で遭難した人たちは抱き合いお互いの体温で暖を取ることもあるそうです。

 また、親子兄弟姉妹が寝所を共にすることを不健全だという人がいるでしょうか。いいえ、いいえ、いません。なぜならそれは信頼を示す行為であり、そこに他意はないからです。

 なら、空木さんと私が同じベッドに寝ても問題はないのではないでしょうか」


「そもそもここは日本の都心のぼろいアパートの一室で、俺たちは血のつながりのない赤の他人!」


「ま。空木さんは強情ですね」


「強情なのはお嬢だよ。そろそろ折れてほしいんだけど……」


「過剰に特別扱いするのはやめてほしいだけです」


 またもや、やや子どもっぽく頬を膨らまして、お嬢は俺に反抗の意思を示す。

 だが、これに関しては俺も譲れない。


 俺は深鏡さんにお嬢を任されているのだ。

 そんなお嬢を床に寝かせるなんて、とてもじゃないができるわけがない。

 ましてや一緒に寝るなんてことも。


「というか、そもそも相手がお嬢じゃなくても年下の女の子を床で寝かせたりできませんって。

 なのでこれは、特別扱いではなく、女の子扱いです」


「女の子扱い、ですか」


「はい。

 ……だから、ここらへんで手を打ってくれませんか、お嬢?」


 お嬢がじっと俺を見つめた。

 翠の瞳は俺の心すら見透かすようで、俺はまるで蛇に睨まれた蛙のように体をこわばらせてしまう。


 だが、最終的にはお嬢は小さくため息をついて、俺から目をそらした。


「わかりました。あんまりわがままばかりで困らせてもいけませんね。

 今日のところは、私がベッドを使わせていただきます」


「はい、そうしてください」


 今日のところは、とかいう前置きは聞かなかったことにしよう。

 とりあえずお嬢が納得してくれたんだし、これでいいことにしたい。うん。


「ああ、でも空木さん、寝るのはお台所の方じゃなくてベッドの近くにしてくださいね。

 あんまり遠いと、避けられてるのかって心配になっちゃいます」


「え、いやお嬢それは……」


「ま。空木さん、まだ私と口論がお望みなんですか?」


「はい。近くで寝ます……」


 そんなこんなでお互い着替えて―――もちろんお嬢は洗面所の方で俺からは何も見えないし聞えない場所で―――しまうと、お嬢はベッドに入り、俺はブランケットをかけて床にゴロンと寝転がった。

 季節は夏が過ぎ去りつつある秋口。

 このくらいならブランケット一枚でもそれほど寒くはないし、風邪をひくこともないだろう。


 ちなみに寝間着は俺の使ってないジャージを貸した。なんでも寝間着は持ってくるのを忘れたらしかった。


「ま。ぶかぶかです」


 お嬢がだぼついた袖をまくりながら、ふと思い立ったようにすんすんと鼻を動かして俺のジャージの匂いを嗅いだ。

 そして、ほにゃ、と頬を緩めた。


「ふふ、空木さんのにおいがします」


「あ、臭かったらすんません。一応洗濯はしてるんすけど……」


「いいえ、いいえ。そんなことありませんよ。

 なんだか安心する、空木さんの匂いです」


「……そっすか」


 ……心臓に悪いのでそういうこと軽率にしないでほしいこのお嬢様。


「電気消しますよ、お嬢」


「はい、おねがいします」


 俺がリモコンを操作すると、ぴ、という小さな音と共に部屋の明かりが消えていく。

 電灯はすぐに消えることはなく、まるで日が沈むように外縁から暗さを増していき、一秒後には俺とお嬢のいる部屋に暗がりの帳を下ろした。


「お嬢、眠れそうですか?」


「ええ、ええ。問題ありません。おふとんも、シーツも、まくらも、とても気持ちいですよ」


「それならよかった。じゃあ、寝ちゃいましょう」


 俺の言葉に、すぐ隣の暗がりの中で僅かに頷く気配がする。

 そして、その暗がりの中にいる姿の見えない彼女は、囁くように口を開いた。


「おやすみなさい、空木さん」


「―――」


「空木さん? どうかしましたか?」


「え、あ、いやなんでもないよ。うん、おやすみ、お嬢」


 ……ちょっと、びっくりしてしまった。


 なんか、誰かにおやすみって言われて眠るのがあんまりにも久しぶりだったから。

 ひとり暮らしを始めて長かったものだから、誰かに「おやすみ」って言ってもらえることを忘れていた。


 そのことが、なんだか思ったよりも俺の心を揺らした。


「……」


 お嬢にとっては何気ない言葉だったのかもしれないけど、なんか今の一言は、思ったよりも俺の奥の方まで届いた。


 ひょんなことから始まった同居だけど、もしかしたらそう悪いことではないかもしれない。


 俺はそう思って、静かに眠りに落ちていった。


 ……。


 …………。


 ……………。


 ……いやゴメン嘘全然寝れねえ!


 近くに自分以外の存在があるのめっちゃ落ち着かない! 緊張する!


 だっていま俺とお嬢すぐ隣にいるんだよ?


 いやベッドの高さがあるし、暗いからお嬢の顔が見えたりとか、俺がうっかり寝返りを打って触れちゃったりとかはないんだけど、隣で自分以外の息遣いがあるだけで、こう、なんか落ち着かない。


 ドキドキはしないけど、なんかソワソワはする。


 気持ちとしては修学旅行の夜になんかやたらと周囲の友だちがどうしてるのか気になる感覚?

 あれに近い気がする。


「空木さん」


「ひゃいっ!?」


 うおーーっ、急に名前呼ばれたせいでめっちゃでかい声出ちゃった。

 誰だ? あ、お嬢が呼びかけたのか。


「まだ、起きてらっしゃったんですね。眠れないんですか?」


「まあ、少し考え事を。というか、それを言うならお嬢こそ。

 もしかしてやっぱり寝心地悪かったですか?」


「いいえ、いいえ。そんなことありません。

 むしろ、空木さんのにおいがするのでちょっぴり安心するくらいです」


「そ、そっすか……」


「ま。空木さん、照れてらっしゃいますか?」


「そ、そんなことありません。俺は普通だよ」


「ふふ、そうでしたか」


 くすくす、と鈴が鳴るような笑い声。

 なんだかからかわれている気がする。俺の方が年上なのに。


「私、『普通』を知らなかったんです」


 そう言ってお嬢は顔も見えない夜の中、とつとつと語る。

 もしかしたら、いまお互いの顔が見えないからこそ、語れるのかもしれない言葉を。


「お父様は私とすごく年が離れていて、だからかあまり顔も合わせたことはありません。

 お母様は私を産んだときに亡くなってしまって、顔も知りません。

 お姉さまはいますけど、色々あって『普通』の関係とは言えません。

 学校の人も、屋敷の人も、私とはどこか距離を取っています」


 でも、とお嬢が言葉を続ける。


「空木さんは私に、『普通』を教えてくれたんです。

 私が雇い主でも。

 御伽々の娘でも。

 お父様が亡くなっても。

 空木さんは、変わらないままです。

 私、それにすごく救われてるんです」


「別に大したことじゃないですよ、そのくらい」


「ええ、ええ。空木さんには当たり前かもしれないですけど、私はそれがすごく嬉しかったんです」


 お嬢の声は、いつしか震えていたような気がした。

 もしかしたらずっと不安で、今も少し泣いていたのかもしれない。


 気丈にふるまって、いつもと変わらない笑顔と態度で俺と接していたから大丈夫なのかと思っていた。


 でも、お嬢は親を亡くしたばかりなんだ。

 祖父と孫ほど年が離れていて、まともに話していない、同じ家に住んでいたわけでもいない人でも、家族だったはずなんだ。


 そんな人を無くして、辛くないはずがなかった。


 でも、俺は思ったよりもお嬢に頼られていたんだな。

 不謹慎かもしれないけど、そのことは少しだけ嬉しいかもしれない。


 だからか、少しだけ俺もお嬢にもう少し深くまで聞いてみよう、なんて思ってしまった。


「お嬢、なんで俺のところに来たんですか?」


 深鏡さんは「空木しか信頼できないから」と言っていた。

 でもそれは深鏡さんの理由で、お嬢が俺を選んでくれたのにはまた別の理由がある気がした。


 しばらく、俺の質問には返事がなかった。

 もしかして眠ってしまったのだろうかと、俺が不安になり始めたころ、ようやくその質問に対する答えが返ってくる。


「それは、私が空木さんを好きだったからです」


「へー、そうだったんす――――――は、ハイッ!?」


 思わず体を跳ね起こしてしまって、お嬢の眠っている方を見ようとして、暗闇から笑い声が聞こえてくる。


「お嬢、俺をからかいましたね?」


「ま。ごめんなさい。ただ、空木さんがとてもびっくりされているのがおもしろくて……ふふ」


「なんか、お嬢、ここにきていらずらっぽくなりました?」


「もしかしたら、そうかもしれませんね」


 顔が見えないけど、きっとお嬢はめちゃくちゃ今楽しそうな顔してるんだろうな。


 六歳も年下の子にからかわれてしまった。くそう。


 深鏡さんが「まほろの笑顔は嘘くさいと言われている」とか言ってたけどやっぱ的外れだろあれ。

 こんな愉快な子が、中身がない薄っぺらなお嬢様とかないって。


 はあ、と俺は一つ大きなため息を漏らす。


「それで、本当の理由は何なんです?」


「ほんとうの、ですか?」


「うん。俺を好き……こほん、とか、まあそういうからかう目的以外の答えがあるんでしょう?」


「―――そうですね。そうですね……」


 一拍置いて、答えが返って来た。


「いまはまだ、ひみつです。知りたいなら、自分で考えてくださいね、空木さん」


 こしょり、と耳元に声が溶けていった。


 まるで悪魔が囁くように、密やかに。

 まるで天使が労わる様に、柔らかに。



 ……いややっぱり寝れねえって!?




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