エピローグ





 とんとん、と包丁が動き、まな板を叩く音がする。

 くつくつ、と湯が煮立ち、味噌の香りがほのかに香る。

 じうじう、と油が跳ねて、フライパンに熱された空気を肌に感じる。


 今日もまた、俺の朝は彼女の料理で始まった。


 小さなワンルーム。狭い台所と、家具が所狭しと置かれた小さな部屋。

 そこに俺たちは暮らしている。


「いただきます」


「はい。めしあがれ」


 手を合わせて挨拶をして、彼女の作ってくれた料理を口に運ぶ。


 今日のメニューは焼き鮭、味噌汁、玉子焼き、そしてごはんの朝和食の重鎮オールスターズ。


 焼きたての鮭は醤油をかけなくてもよく味がついている。箸を入れるとほくりとほぐれ、皮は一緒に食べれるようにパリパリに燻して焼いてある。

 甘めの味付けの玉子焼き、わかめとなめこの間違いのない味噌汁、炊き立てのごはん。


「ふー、美味い」


「ま。それなら何よりです」


 いや、本当に文句なくおいしい。

 このご飯をまた食べられるんだから、俺も恵まれていると思う。


 とか考えていたら、不意に対面からくすくすと笑い声が聞こえた。


「どうかした?」


「ふふ、いえ。こうしてまたお料理を作ってあげる日が来るとは思わなかったので。

 少し、嬉しかったのです」


「……まあ、うん。俺も、それはありがたいよ」


「ふふ、照れていらっしゃるのですか?」


「べ、別にそんなことないけど……」


「ま。そうでしたか。

 本当は、昨日の夜もご飯を作って差し上げたかったのですけれどね」


「まあ、昨日は家に帰ってから一緒にご飯を食べるとかそんな余裕なかったもんなぁ」


 古郡のおっさんの前に立ったのは昨日のことなのに、もうひどく昔のことのように感じる。


 今後、御伽々グループがどうなっていくのか気になるところだけど、まあきっとあの人ならうまいことやるんだろうな。


「あ、そう言えば100万」


 古郡のおっさんがムスカ大佐みたいに俺に渡した100万円、返し損ねてるな。

 参った、会いに行くときに返そうって思ってたのに忘れてた。


 ええと……、あ、ほらまだ俺の部屋にあるもん。

 分厚すぎる紙束が無造作に床に転がっている。警戒心がなさすぎる。


「流石にこれ持ったままなのは落ち着かないな」


「貰っちゃっていいのではないでしょうか。小父様にとってはたぶんお小遣いみたいなものですよ?」


「スケールがデカすぎる! そうだね! 御伽々の家にとってはそうかもね! でも俺にとっては俺が一年間まあまあ頑張ってアルバイトとして稼げるくらいの金額なんです!」


 ので、できれば返したい。このお金に頼ると、なんか俺はだめになる気がする。


「でしたらかけがえさんか、ほのか姉様経由でお返しするのがいいかもしれませんね。

 私はもう、あちらの家には行けませんが、姉様たちは違いますから」


 そうか。なら今度うちに来た時にでも頼むとするか。

 あの二人も今度からちょくちょくお嬢の顔を見に来るって言ってたし。


「……」


 目の前で、おとぎ話の中にいるみたいな綺麗な子が静かに料理を食べている。


 ……。

 ほんとにかわいいな、この子。こんな子と、俺はこれからも一緒に暮らしていくのだ。

 そのためにセンセイに頼んで判例探してもらったり、いざというときの弁護を頼んだり、ほのかさんに頼み込んだり、かけがえさんと走り回ったり、まあ色々したのだ。


 全部そのためとはいえ、本当に彼女はいいのだろうか……と、考えるのは失礼だ。


 彼女は俺を好いてくれている。


 それはきっと、間違いない。


「あら、どうかしましたか?」


 俺の視線に気づいたのかこてん、と首を傾げられた。


「ああ、いやお嬢がさ―――」


「ま」


 俺が口を開いたら、彼女がかなり不満そうに声を漏らした。

 今まで聞いた中でもトップクラスに不機嫌そうな「ま」だった。


「え、なにお嬢? 俺なにかしちゃった?」


「つーん」


「あのー」


「ふーん、です」


 俺が呼びかけてもお嬢は返事をしてくれず、それどころかぷいっとそっぽを向いてしまった。

 一体何がそんなに不満なのかと考えたけど、しばらくすると一つの答えに行きついた。


 だけどそれは俺としてもなかなか恥ずかしい。

 思わず気持ちを紛らわせるように頭をかきつつ、俺もお嬢から視線を外して口を開く。


「あー、?」


「はい。なんでしょう」


 お嬢が―――まほろがにこっと笑って答えてくれた。

 どうやら俺の答えは正解だったらしい。


 俺は気恥ずかしさを紛らわせるように、本題に、まあこっちはさらに恥ずかしい話題になるけど、その本題を切り出した。


「あ、あのさ、まほろって、いつから俺のこと、その、好き、だったんだ?」


 ああくそ、なんか情けないこと聞いちゃった。いや、違うんだよ。

 ちゃんと理由があってさ、なんというか、聞いてくれない?


「いや、ほら、初日にまほろは、俺の家に好きだったから来たとか言ってたじゃん。

 いま思えばあれはあれで本気だったんだろうし……」


 まほろは俺の家に同棲するときの文句は嘘だったけど、それ以降はあまり嘘はなかったように思う。

 それなら初日に「俺が好きだから来た」って言ったのも嘘ではなかった……と思う。

 そうすると「五年前のことなんて、覚えてませんよね」というまほろの言葉もたぶん嘘じゃない。


 俺には心当たりがないけど、もしそれが俺とまほろの始まりだったとするなら、俺は何とかしてそれを思い出したい。


「あの、俺たちの本当の初対面って、いつなんだ?」


 そういう気持ちも込めて、俺が問いかけると、まほろは指を唇に当てて「んー」と考え込んだ。

 そして少しの間をおいて、ふ、と花が咲くような、今までで一番の笑顔を俺に見せてくれる。


「私は教えてあげません。知りたいなら、自分で思い出してくださいね?」


 片目を瞑って、指で唇を縫い留めたまほろは、そう言って今度はいらずらっぽく笑って見せる。


「そりゃひでえよ……」


「ま。私との出会いを思い出せない方がひどくないですか?」


「だから思い出したいんですけど!?」


 俺の叫びに、お嬢が楽しそうにくすくすと肩を揺らした。



 ―――たくさんの「はじめて」を彼女と過ごした。


 短い時間でたくさんの彼女の笑顔を見せてもらった。

 何気ない日々の中でたくさんの彼女の言葉を聞かせてもらった。

 俺の欲しかった毎日の中でたくさんの彼女との思い出をもらった。


 きっと、俺たちはそうやってこれからもこの毎日を、俺たちの欲しかった『普通』の日々を過ごしていく。


 大変なことだってたくさんあるだろう。常にめでたしめでたしで終わるわけではないだろう。だってこれはおとぎ話じゃないんだから。


 それでも、俺たちはこの現実を選んだんだ。

『御伽噺のお嬢様』から、どこにでもいる『普通の女の子』としての現実を。


「ああ、そういえばまほろ、忘れてることがあるよ」


「忘れてること?」


 なんだ、いつも俺に言ってくれていたのに、自分が言うとなるとぴんと来ないんだな。


 俺は微笑んで、おとぎ話のお嬢様ではなくなった―――現実の俺の隣にいてくれる彼女にその言葉をかけた。


「おかえり、まほろ」


 まほろはその言葉に少しだけ言葉を失って、やがてはにかむように答えた。



「―――ただいま、『陸人』さん」






〈了〉

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没落お嬢様と同棲することになったが、やたら甘々で困ってる。 世嗣 @huhanazekakanai

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