現の私が欲しかったもの




 久しぶりに帰って来た自室の窓辺の椅子に腰かけて、ぼんやりと外を見る。


 広い庭はいつ見ても美しく、専門の方が毎日丁寧に整えてくれていることがわかる。

 三週間ぶりに帰って来た部屋の中は塵ひとつなく、クローゼットの中の服もどれも皺ひとつなかった。


 どれも『御伽々まほろ』が帰るのを待ち、使用人の人たちが準備してくれていたのだ。


 誰もが羨む恵まれた環境だけど、ここの景色よりも、あの小さな空木さんの部屋の窓から見下ろす景色の方が安らぐ気がした。


 一瞬、鎌首をもたげたその気持ちを首を振って振り払う。


「……今更です。そんなの。今更なんです」


 私は空木さんの全てを切り捨てた。


 そういう生き方を、選んだんだから。


 かさり、と手元の紙が手にあたって音を立てた。


 私はそれを開いて、そこに書いてある文字をひとつずつたどる様に、もう一度読んだ。


 それはお父様から私に残された遺言書だった。

 これを持ってきてくれたのはお父様の秘書の方で、この遺言書の存在は私と、その秘書さんしか知らない。


 お父様が、私に残した最後の言葉。


 そこにはただ短く「御伽々を絶やすな。それがお前の生き方だ」と書いてある。


 本当に短くて、死する父親が娘に残したとは思えないほどに淡々としていて、何も熱は感じない。


 でも、だからこそ、私はその言葉がお父様の本心だったと分かった。


 お父様は生まれた時から冷静で、冷徹で、寡黙で、誰よりも『御伽々』という会社の未来を見据えていた。


 だから私は、その言葉を引き継ぐことにした。


 それを疑うことなくできたということは、やっぱり私は古郡小父様の言う通り、幼くとも御伽々の娘だったということなのかもしれない。


 不意にコンコンと扉がノックされた。


 ぱっと振り返ると、そこにはいつのまにか古郡小父様がやってきていて、私の私室に入ってこようとしていた。

 小父様は私の部屋に足を踏み入れて、どこに腰を落ち着けるか迷うようにあたりを見回していたが、私が目の前の席を手で示すと、どすんと腰かける。


「何かご用でしょうか」


「明日の寄り合いのことだ。株主たちとは別に、幹部の連中で集まることになるだろう。

 おそらく、お前が望んだとおりの状況になるだろうな」


「そうですか。ありがとうございます、古郡小父様」


 頭を下げると、古郡小父様はふん、と鼻を鳴らした。


「なぜこんなことをした」


 こんなこととは、恐らくここ数週間の私の一件のことだろう。


 私は古郡小父様から目線を外して外の庭を見つめながら答えた。


「それがお父様の願いだったので」


「それだけか?」


「おかしいですか? たった一人の父親の最後の願いを叶えたいと思うのは」


「おかしくはないだろう。悪いことだとも思わん。だが、お前たち姉妹の誰かが、御伽々翁の願いに応えるのは、意外ではあった」


「……それは、私も少し、意外だったかもしれませんね」


 誤魔化すように微笑んで、指を組んだ。


 幼いころから、私は『御伽々の娘』として生きることを求められてきた。


 そのためにだけ育ってきた私は、『御伽々の娘』ではない自分を想像できなかった。


 私は、最後まで『普通の幸せ』というものがわからなかったのだ。


 わからないから、憧れた。

 空木さんの言葉に出てくるような、何気ない日々の中にある幸せを自分も手に入れることができたら、それは私の『御伽々の娘』としての生き方を変えてくれる気がしたのだ。


 でも、お父様の遺言を受け取ったとき、自分の責任を思い出した。

 今まで御伽々という家が私にかけてくれた時間、お金、期待。それに応えなければならないと思った。


 それが私に許された唯一の道だと思い出させられた。


 ……でも、でも、たった一つだけ、未練があった。


 それはこの胸にある淡い思いだった。


 はじめて空木さんに助けてもらったときに芽生え、空木さんと共に暮らす中で私で育ったこの気持ち。まだ名前も付けていないこの気持ちと向き合う方法を私は知らなかったのだ。


 だから、空木さんのところに行くことにした。


 一番大好きな人のところで、一番大好きな人の一番近くにいて、一生の思い出を作ること。

 それが私の目的だった。それだけのために私はかけがえさんに時間を作ってもらった。


 空木さんに料理を作ってあげられたとき、今までの努力が報われたって思った。

 朝起きて空木さんの寝顔をこっそり見るのが、楽しみだった。

 玄関先で「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言えた時、まるで新婚だ、なんてことを思った。

 夕暮れの部屋で、空木さんが帰るのを待つだけで、心から満たされていた。

 たくさんの知らないところに連れて言って貰って、たくさんのことを教えて貰った。


 どれも本当に私の中でかけがえがのない思い出で、輝いていた。


 私はこの日々のために今まで生きていたんだって、冗談じゃなくて本気でそう思った。


 私はこの三週間で、もう一生分の思い出を貰ったのです。


 ああ、そうなのです。


 私は「思い出」が欲しかった。


 これから先、『御伽々の娘』として生きていても忘れない記憶。

 どんなにつらいことがあっても、それがあったことを思い出せば耐えられるという安らぎ。

 例えどんな方に嫁いでいくこととなっても忘れない、あの日の喜び。


 そういうものがあれば、私はこの先の長い人生を耐えていけるって思ったから。


 おかしいですよね、私はずっと長い未来よりも、刹那の『思い出』が欲しかったのです。


 でも、もうそれも終わった。


 空木さんとは別れた。きっと、あの人が私を思うことはもうない。

 だって、私は最初から空木さんを騙していたのですから、それも仕方のないことなのです。


 きっと空木さんは幸せになるだろう。


 私に教えてくれた幸せを誰かと重ねて、彼らしく新しい『普通』の中に安らぎを見つけていく。


 だって、空木さんは最後まで私のことを思いださなかったから。

 あの日、助けた女の子のことを空木さんは最後まで思い出さなかった。それだけ、空木さんにとってはありふれていた出来事だったのだろう。


 あの人にとっては、迷子の女の子がいたら手を引いてあげるのは当たり前のことで、だから私はあの人にとって特別な存在にはなれなかった。


 私はあの人の優しさに甘えたどこかの誰かの一人だから、きっと空木さんには次の誰かが現れる。


 だから、空木さんは幸せになる未来にいると思う。

 その未来に、自分がいないのはほんの少し悲しいけれど、私はもう十分だ。


 この三週間の思い出があれば、空木さんのくれた『普通』があれば、私はどんな辛いことにも耐えられる。


 だから、もういいのです。


 私は小さく息を吐き、今までの自分の気持ちをすべて外に出してしまうと、目の前の男性へと向き直る。


「小父様、もうこの家でやることは終わりました。あとは本邸で、明日の総会の―――」


 その瞬間、私の部屋の扉が蹴り破る様に開かれた。


「何も! 終わってない!」


 言葉を失った。


 だってそこにいたのは、間違いなく一昨日別れたはずの彼だった。


「まだ、何も終わってないだろ。さあ、この前切れた電話の続きをしようぜ」


 そう言って彼は―――空木陸人は、私の目の前に三度、現れた。

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