はじめてのテレビ
午前の講義が終わって今日の分の講義が終わったので、風野と別れて自転車に乗って自宅へと帰る。
風野は俺を心配そうな目で見ていたが、「大丈夫!」と親指を立てておいた。
俺がお嬢に手を出さない限り深鏡さんが俺を殺すことはないだろうからな。
そして俺はお嬢に手を出さない。
だから俺が殺されるようなことにもならない。
完璧な三段論法だ。きっと数学のテストだったら100点貰える解答だろう。
「よし、着いたっと」
きい、と自転車を止める。
いつもように家の前の駐輪場にチェーンでつないで鍵をかけると、そのままとんとんとアパートの階段をのぼっていく。
大学や近くの商店街からもやや離れているので、新しめのアパートだが家賃は相場よりもやや安め。
一階と二階にそれぞれ五部屋ずつあるここは、俺のような金銭的にそこまで裕福ではない学生などがメインに暮らしているようだった。
ちなみに一回の角の部屋にはオーナーである大家のおばあさんが暮らしているっぽい。
「このあとはお嬢の日用品の買い物もしないとな。ああ、そういえば商店街のスーパーがセールやってるっけ」
ちゃりちゃりと手の中で鍵を転がしつつ、自分の部屋の前まで思考を纏める。
やることは多い。なにせお嬢とは一ヶ月も暮らさなければならないのだから。
鍵を開けて、いつものように扉を引いて中に入ろうとする。
「あ、空木さん! おつかれさまです!」
ぱたぱた、とお嬢がこちらに駆けて来た。
服装はいつの間にか俺の貸していたジャージから着替えて、控えめなフリルのついた白いワンピース。
そしてお嬢は俺に微笑んで、こちらに手を伸ばす。
「お疲れさまです、空木さん。お荷物、受け取りますよ」
「え、ああ。うん、ありがとう。でも重いよ?」
「ま。私、箸より重たいものを持ったことがないって思われていますか?」
「流石にナイフとフォークの方が重そうだし、それくらいは持てる筋力があるとは思ってるかな」
「私、これでも合気道も嗜んでいます。何なら空木さんより強いかもですね」
その言葉通りお嬢は俺のリュックサックをひょいっと受け取り、部屋の中まで運んでくれた。
たしかに言った通り俺が思うよりも力があるらしかった。
だがお嬢はその途中、いたずらを思い付いたかのように「あ」と声を漏らすと、ふ、と微笑んで振り返った。
「このやり取り、なんだか新婚さんみたいですね?」
「はいはい、そうですね。ありがとうね、お嬢」
「むー、空木さん、私の扱いが雑です」
不満そうに俺をジトっと睨むお嬢の視線を受け流しつつ、ジャケットを脱いで椅子に掛けた。
昨日の夜から、お嬢が普段よりも子どもっぽい気がした。
俺がバイトをしていた時はもう少し肩ひじを張った感じがしたんだけどな。
「お勉強、どうでしたか?」
「普通かなぁ。友だちと顔を合わせはしたけど、それ以外は先週と大して変わらないよ。
あ、お嬢お茶飲む? パック麦茶だから口に合うかはわかんないけど」
「いえ、いただきます。私、お茶葉なら緑茶も烏龍茶も麦茶も好きですから」
それは安上がりなお嬢様だ。
二つのグラスに二人分。それぞれ麦茶を注いで、座卓に置いた。
お嬢と俺は対面に座ってそれに一口口をつけて、ふう、と息を吐く。
一気に飲み干した俺と違って、お嬢はゆっくり舌の上で味わってからこくり、と喉を動かしていた。
こうしたところでも育ちの差を感じる。
「ところでお嬢は午前は何をしてたの? 特に本とかは読んでないみたいだけど……」
「テレビを、少しお借りしました。空木さんが帰ってくる少し前までは見ていたのですが」
「へえ、テレビか。お嬢のことだし、政治ニュースとかかな」
お嬢はかなり頭がいい。
家の方針で戯曲なども観劇してきたから雑学も豊富だし、英語もしゃべれるバイリンガルだと深鏡さんが言っていた。
たまに読んでいる本もなんだか分厚くて、難しいタイトルがついていた気がする。
そういうお嬢なら見るのなら恐らく自分の実利になることだろう。
そう思っての質問だったのだけれど、お嬢はやや恥ずかしそうに口をごにょごにょと動かした。
お嬢?
「そ、その、実は、恋愛ドラマを見ていました……」
恋愛ドラマ。お嬢が。
「ち、違うんです! チャンネルを回したらたまたまあっていて、いや、自分から見るつもりはなかったのですけれど。
ただ、あ、こういう恋愛とか素敵だなあとか思って見ていたらいつの間にか時間が経っていて。
いえそうではなく、ただあまりお屋敷では見る機会がなかったもので出来心というか……」
ごにょごにょごにょにょ。
誰に言い訳しているのか、お嬢は慌てたように早口で言葉を重ねる。
その様子がちょっと面白くて、俺は思わず笑ってしまった。
恋愛ドラマを中学生のお嬢くらいの年頃の子が見るのなんて普通なのに。
「くく、そっか、気づいたら時間が経っていたのなら仕方ないね」
「あ、わ、笑いましたね空木さん! 別に夢中になっていたとかは本当になくて!」
「うんうん。おもしろいよね、ドラマ。最近のは案外馬鹿にできないクオリティがあると俺も思うよ」
「生暖かい目はやめてください!」
お嬢も案外かわいいところあるんだなあ、なんて笑いながら俺は立ちあがる。
お嬢の「時間は相対的ですから私が夢中になっていたとかはなくて」とかいう言葉を背で受け止めつつ、俺はめあてのものを探した。
ええと、確かこの辺に……あ、あったあった。
「ですから空木さん……わぷっ」
「はいはい、わかったわかった。だからとりあえずお嬢はこれ被ろうか」
「これは……ぼうし、ですか?」
「うん。俺が夏とかに使ってたやつ。深鏡さんは大丈夫とは言ってたけど、まあ念には念をね」
俺がお嬢に被せたのは男物の黒いキャップ。
おとぎ話のお姫様みたいなお嬢にはアンバランスすぎるけど、顔を隠すには十分だろう。
「じゃ、行こうかお嬢」
「行く?」
こてん、とお嬢が小さく首を傾げると、やや大きめの帽子がその動きに従うようにズレた。
「まあ言うなれば、社会勉強、だね」
俺は帽子のズレを直してやりつつ、そう言って笑って見せた。
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