4章 うつつのまほろば
現の夢が覚めるとき
その日、大学から家への帰り道、いつもと違う雰囲気を感じていた。
上手く言葉にできないけど、何か心がざわついて落ち着かなくかった。
でも、歩けばいつかは家につく。
時が流れていくように、日が沈んでいくように、道は必ずどこかに通じていて、俺をひとつの終わりへと連れていくのだ。
「……三週間、か」
お嬢と一緒に暮らし始めて、いつの間にかそんなに立っていたのだ。
かけがえさんとの約束まで残り一週間。
一週間後、お嬢が俺の家から去ったとき、また使用人とご主人様の間柄に戻るのか、もう俺が使用人として雇ってもらうことはないのか、それはわからない。
でも、確かなことは俺とお嬢は今のままではいられないということ。
それだけは、間違いないのだ。
お嬢と一緒に遊ぶことも、お嬢の手料理も、お嬢と休日に出かけることも、俺の日常からは消えてなくなる。
まるでそれが幻だったように。泡沫に見る夢だったように。すべて消えてしまう。
それは、いったいどんな気持ちなんだろうな。
「……ん? なんだ、あれ」
俺の部屋にあるアパートの前に、見慣れない黒い車が停められていた。
ざわり、と再び胸がざわつく。
俺が残りの距離を歩いて進むのももどかしく、半ば駆けるようにして行く。
「……鍵が開いてる」
扉に手をかけた時、普段はかけてあるはずの鍵の感覚がなかった。
これを開けることができるのは大家さんか、この部屋の鍵を持つ俺か、そして、カギを渡してあって、部屋の中にいるお嬢だけだ。
ドアノブに手をかけたまま唾を飲み込んだ。
……嫌な予感がする。でも、開けないわけにはいかない。
俺は、現実を見て、それで考えなきゃいけないと思うから。
息を吐いて、少し脳に酸素を送る。
そして俺は、扉を開いた。
目の前に広がったのはいつもと変わらない俺の部屋。
でも、ここ数週間で当たり前になっていた「おかえり」の言葉はなく、ただ部屋の真ん中には一人の男が胡坐をかいて座っていた。
俺は、この男の名前を知っている。
「
ほのかさんから聞いていた、お嬢を探している御伽々の幹部、その筆頭とも言われた人物。
彼は俺が名前を呼ぶのを聞くと、ほう、と片眉を吊り上げた。
「俺のことを知っているか。大方御伽々かけがえか御伽々まほろにでも聞いていたのだろうが、まあそれなら話は早い」
古郡は膝に手を置いて、支えにして立ち上がると俺を見下ろすように目線を向ける。
……でかいな。俺が173くらいあるけど、その俺よりも頭一つ分高い。
彼はその感情の見えない瞳で俺を見据えて、そして冷ややかに言い放つ。
「今までご苦労だった。御伽々まほろはこちらで引き取る」
その言葉に、今まで冷静に保とうとしていた俺の脳は沸騰した。
「お前が、お嬢を攫ったのか! お嬢をどこにやった!」
「……穏やかじゃないな。それに、お前の言い分には誤りがある」
「なに、言ってんだ。あんたがずっとお嬢を追い回してたから、俺はお嬢を匿うことになって……」
スッと古郡の目が細くなる。
「なるほど。そういう筋書きか。お前はそう聞かされていたのだな」
筋書き? 何を言ってるんだこいつは。お前が、全部悪いんじゃないのか?
なのになんで、アンタは俺をそんなに哀れんだような目で見ているんだ?
「ひとつ、お前の言葉を訂正しよう。俺は確かに御伽々まほろを追っていたし、今はその身柄を預かっているが、俺のもとに来ることを望んだのはあの女だ」
「は?」
お嬢が、自分から? 何言ってんだ、こいつは。
お嬢がそんなこと望むわけないだろう。
だって、お嬢はずっとお前らみたいなやつから自由になりたくて、そのためにお嬢を俺は匿わないといけなくて、かけがえさんはずっと御伽々の幹部たちと交渉をしていて……そうだろ、そうじゃないと、変じゃないか。
「信じられないなら、自分で聞け」
古郡は自らの言葉に困惑する俺に、何を思ったのかずっと手に持っていた携帯を押し付けてくる。
俺はそれを恐る恐る耳に近づけた。
「……お嬢?」
「空木さん、帰られたのですね。今日は出迎えられなくて申し訳ありません」
「いや、そんなのどうでもいいって! 怪我とか、あと乱暴されたりとかしてないか!?」
「ええ、大丈夫です。古郡小父様はそういうことはされる方ではありません。
今は小父様の部下の方の車の中にいます」
「そ、っか……よかった……」
お嬢の声を聞いて肩から少し力が抜けた。
よかった、古郡の言ったことは嘘ではなかったらしい。
……いや、じゃあ嘘じゃないのなら、なんでお嬢は自分から、古郡のもとに行ったのだろう。
俺がそう思ったとき、電話の向こうでお嬢が小さく息を吐くのを感じた。
まるで何かを躊躇うような、でもどこか安心するような、そういう息を。
「空木さん、ぜんぶ嘘だったんです。ぜんぶ」
「……は?」
急になにを、言っているんだ。
「空木さん、ほんとうは、貴方が私を匿う必要なんてなかったんです」
お嬢はそう切り出した。
「かけがえさんは空木さんに『御伽々の幹部たちは私を探している』と説明しましたよね。あれは、嘘です」
「本当は私のことをあの状態の中で探す人はいませんでした。いえ、もちろん私の存在を重要視する人はいましたけど、私の言葉一つで後継者が決まるほど私の言葉は重くなかったはずです。私はまだ子どもで、仮にも御伽々グループは大きな会社なので」
「だから、私は空木さんのところに隠れたのです」
何を、言っているんだ。
「私がいなくなれば、幹部の方たちは私を探すでしょう。それはある意味私を中心に物事が動くようになることを意味していて、次第に私でなければ次のトップは決められないという思考につながっていく」
「つまり、私はただ逃げているだけ、見つからないようにしておくだけで、自分の立場を強くできる」
「そう、私は何もする必要はない。ただ、見つからなければよかった」
「何を、言ってるんだよ、お嬢」
「どちらにしろ私は御伽々に縛られた人間です。逃げようが逃げまいが、最終的には捕まって、御伽々のために生きることになります」
「お父様が亡くなってもその生き方は変わらないでしょう。『御伽々』を残すために自分を磨き、そしていつかは会社のために、『御伽々』のためにどこかに嫁いで行く。そういう生き方をする運命です」
「だから、いっそのこと、自分ですべてを決める側に回ればいいと考えるのは、自然なことではないでしょうか?」
「だから、何言ってんだって言ってるんだよ!」
その声は自分が思うよりもずっと震えていて、ほんとうに自分の声か疑ってしまった。
普段のお嬢ならそんな俺をからかうように笑いそうだったけど、でも、今のお嬢はそんなことはせず、ただ、淡々と質問に答えてくれた。
「貴方を利用していたんです。私、ずっと。最初から」
最初から。あの日の、俺のもとに匿ってくれと頼みに来た日から?
「それこそ、嘘だろ。お嬢は本気だった。本気で俺に匿ってくれって頼んでて、本気で、俺を信頼して……本気で、俺に人間としての好意を持っていてくれていたはずだ」
「……ええ。私は本気で空木さんを好いています。人として、使用人として。その上で、貴方のことを利用したのです」
「…………なんだよ、それ」
いっそのこと全部嘘だって言ってくれればよかった。
それなら俺はいやそんなはずないだろ!って叫んで、この目の前の男をぶんなぐってでもお嬢のもとに行って、お嬢の本当の気持ちを聞き出すのに。
なのに、肯定なんかすんなよ。
肯定されたら、疑えないだろ。お嬢のこの言葉が本当だって、信じるしかないじゃないかよ。
俺のことを純粋に信頼したうえで、利用したんだって。
「なんで、そんなことを……」
「私が御伽々翁の娘だからです。御伽々のために生き、御伽々のために死ぬ、そういう娘だからです」
淀みのない答えだった。
だから俺は、もうお嬢に何も言えなかった。
それだけ、その言葉には強い意志が込められていたから。
「今まで、ありがとうございました、空木さん」
そうして通話は切れた。
それが、お嬢と俺の、最後の会話だった。
足の力が抜けて座り込んでしまった俺に、古郡は淡々と語った。
「御伽々ほのかは御伽々翁から何も引き継げなかった女だった。
御伽々かけがえは、御伽々翁の才覚を最も色濃く継いだ女だった」
そして、と古郡は続けた。
「御伽々まほろは最も強く御伽々翁の精神性を引き継いだ女だった」
「精神性……?」
「人柄、と言い換えてもいい。
『御伽々』という家は昔から人に取り込み、話術で騙し、好かれる様に自らを変えていく、人たらしの一族だ。御伽々まほろは、そういう一族の後継者に選ばれ、育ってきた」
人たらし。人に好かれる、その一族。
「彼らの見せる好意は嘘ではない。彼らの見せる思いは嘘ではない。彼らの行動は嘘ではない。
嘘ではない、その上で、自分たちの思いを『御伽々』のために使える。
そういう人間性と、天性の運、そうしたものを引き継いだのがあの女だ」
そう言えば、いつかかけがえさんが言っていた。
お嬢は当主の御伽々翁と似たところがあるって。
運とか、人柄とか……そういう、ことだったんだろうか。
「お前もまた、そうした御伽々の蜘蛛の糸にからめとられた人間の一人だ。
……同情はする。しかし、それが『御伽々』という一族だ」
古郡の声がまた、どこか哀れむような色を宿していた。
「もとより、お前だってこんな関係が長く続くと思っていたわけでもあるまい。
法律的にも、倫理的に見てもあの女とお前の関係には問題がある。
俺がこうして秘密裏にここにきて、お前に語り掛けているのはお前に同情している面もあるからだ。お前もまた、御伽々の被害者だとな」
ああ、わかってる。法律的にも、倫理的にも許されないなんて、ずっと俺だって思ってた。
ここにいる間お嬢は学校にも通ってない。
外に行くときだって人の目を避けるようにしたままだ。
そんな生き方がずっとできるわけない。
でも、そんなことわかっていても、俺はあの子に……。
「お前にあの女を幸せにすることはできん。あの女の幸せは、あの女にしか決められん。
そしてそれは、ここにいることではなかったようだな」
拳を握った。爪が食い込んで、掌の皮を突き破って俺の手の中にぬるりとした感触が伝わって来た。
でも、その拳を振り下ろす先を、俺は見つけることができなかった。
「これは手切れ金だ」
目の前に、どさり、と金の入った封筒が投げ渡された。
すごく厚い。たぶん、100万円くらいあるんじゃないだろうか。
俺が顔を上げると、古郡は静かに俺を見つめていた。
「御伽々かけがえから話は聞いている。一カ月無事に匿えたら100万という約束をしていたのだろう。
その金額は俺が代わりに払ってやる」
その言葉を最後に古郡が俺の前から立ち去っていく。
玄関で靴を履き替えてドアノブに手をかけて、そして、最後に俺を少しだけ伺う。
「全てを忘れて生きろ。どちらにしろ、あの女のそばにお前がいることは許されなかったのだから」
そう言い残して、彼は去った。
俺は……その言葉に何も言えず、目の前に残された金を見続けることしかできなかった。
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