かけがえのないおでん
夜道で深鏡さんに襲われた俺は、とりあえず近くの公園に移動することにした。
たぶん会いに来たのなら何らかの用事があるってことだろうし。
「あちあち。まだ売っててよかった」
とりあえず途中でコンビニで売っていたおでんを買ってきた。
そこそこ遅いから売り切れてるかと思ったけど、運が良かった。
俺が公園に戻ってくると、深鏡さんはいつものようにメイド服―――ではなくパーカーにジーンズという非常にラフな格好でブランコに座って待っていた。
夜の静けさの中に、きいきい、と鉄のきしむ音だけを響かせながら空を見上げる深鏡さんは、濡れ羽色の髪を耳に掛けて、小さく息を吐いた。
夜の黒の中でも彼女の髪の深い色は塗りつぶされず、それどころかより鮮やかな「黒」である自らを明らかにし、夜で髪を飾っていた。
それはまるでどこかの著名な絵描きが描いた絵画の美女のようでもあった。
深鏡さんは俺の存在に気が付くと、いつも通りフッと厚顔不遜に唇の端を吊り上げて見せる。
「遅いわよ空木。深鏡を5分32秒待たせる価値のある買い物だったのでしょうね?」
「細かいな……いや、待たせたのは申し訳ないけどさ。
その代わり価値があるかはわからないけど、あったかいもの買ってきたよ」
ほら、と俺がおでんの入ったプラスチックの器を見せる。
深鏡さんはその器の中をしげしげと眺めると、「ええと」とその整った眉を寄せた。
「これは……」
「おでんだよ。おでん。深鏡さんも食べたことくらいあるでしょ?」
「いえ……申し訳ないけれど、見るのも初めてね。ふうん、これがね。
本当にコンビニになんかにも売ってるものなのね。あまり入る機会がないから知らなかったわ」
「へえ、珍しいね。深鏡さんにも知らないことがあるんだ」
む、と深鏡さんが気に障ったようにかつん、と足を鳴らした。
「空木、なめてもらっては困るわ。おでんの知識程度深鏡は把握済みよ。
おでん。語源は田楽で、江戸時代ごろの女房言葉が転じて「おでん」となったとされるものが主流。
日本料理のうち、煮物の一種であり、鍋料理にも分類されるもの。鰹節と昆布でとった出汁に味を付け、種と呼ばれる様々な具材を入れて長時間煮込む。おでん種には様々な種類があり―――」
「すごいWikipediaから抜粋したみたいな知識だ……」
「…………深鏡は負けてないわ」
どうやら俺の指摘が図星だったらしく、深鏡さんはぷいっとそっぽを向いてしまった。
だが、それでも食べたことのないというおでんへの興味はあるらしく、ちらっと俺の顔と器の中を交互に見ながら、質問を投げかけてくる。
「それで、空木、それは何のおでん種なのかしら? 深鏡の見立てだと、それは玉子とこんにゃくと大根……あと、白いのははんぺんと見たのだけれど」
「お、正解」
流石……と言ってもこの三種くらいなら自分で料理する深鏡さんなら当てられて当然か。
「じゃあ深鏡さん、どっちが何食べる? 俺はやっぱり王道の玉子に心惹かれるものがあるんだけどさ」
「え?」
きょとん、と深鏡さんが目を丸くした。珍しく、あんまり声に張りがない女の子っぽい声も聞こえて来た。
「……深鏡の分も、あるの?」
「え、当たり前でしょ。俺に女子の前で一人だけバクバク食べろっていうの?」
一秒。深鏡さんが俺の顔をじっと見て、やがて空を見上げながら髪をファサっと後ろに流した。
「フッ、どうやら深鏡の負けのようね」
「うん、だから深鏡さんは何と戦ってんの?」
この人定期的に俺に負けを宣言してくるのなんなんだろう……。
「ほれで、深鏡さんは、にゃに食べたいの」
深鏡さんの隣のブランコに座る。
そして、片手がおでんの器でふさがっているため、割り箸を口と空いた片手を使って割りつつ尋ねる。
すると、彼女は俺の器の中を再びしげしげと見つめながら、僅かに端正な眉を寄せて唸った。
深鏡さんはそんな姿すら絵になる様に美しいな、なんてぼんやり思う。
「悩ましいわね。空木はどれが好きなの?」
む、それは難しい質問だなぁ。
大根。王道。味が染みて箸で切れるほど柔らかくなった大根はおでんの主役と言っていい。一口かじればじゅわりと出汁があふれ出すあの瞬間は至高と言ってもいい。
こんにゃく。コンニャクイモとか言う毒素の塊を灰と固めたりなんだりすることで食べれるようにした日本人の英知の結晶。ぎゅむぎゅむとした歯ごたえは食べていて飽きない。
はんぺん。三角に整えてある練り物だ。これも大根に負けず劣らず出汁を吸い、魚由来の旨みと合わさる、おでんの影のエース。
どれも美味い……が、やっぱりこれかな。
俺は箸で玉子を取って、深鏡さんに見せる。
「俺が食うならやっぱ玉子ですね。
まず玉子自体がうまいんですよね。黄身、白身。それぞれがうまさを引き立て合う。さらにおでんとなればじっくりと煮込まれますから白身にもしっかり味がつくのもいいですね。
あと一口で食べるには大きいので齧って食べるけど、そのあと出汁をつけてもう一度味を濃くして食べるみたいな食べ方ができるのもいい。
味わい深く、変化の余地がある、おでんの代名詞ですよ、玉子は」
「めっちゃ喋るわね」
「俺食うの好きですから」
だから、俺としてはこの玉子は俺が食べたいんですけど―――って、あっ!
「はむっ」
俺が箸で持ち上げていた玉子にぱくっと深鏡さんが食いついた。
まるで雛が親鳥から食事を与えられるようでもあったが、不思議とその仕草には気品があって、俺はその様子を呆気にとられたように見るしかなかった。
深鏡さんは口元を手で抑え、目を閉じて少し口を動かした。しばらくすると、こくん、と深鏡さんの喉が動いた。
「フッ、大量生産に重きを置いた粗雑な味わいだけれど、その奥には旨みがある。やや玉子に火が通り過ぎなのがもったいないけれど、それは買ったのが夜遅いせいのようね。
なるほど、確かに悪くないわ。空木、褒めてあげる」
「褒めてあげる……じゃないんだが? 俺も玉子食べたかったんだけど?」
「あら、それは知らなかったわ。なら、残りの玉子は空木が食べるかしら? この深鏡と間接キスができるという栄誉がついてくるわよ。得したわね」
「それ言われてはい食べます、って言ったら俺が間接キス目当てみたいになっちゃうでしょうが」
「あら、そうかしら?」
そうだよ、と恨みがましく深鏡さんを睨んだが、当の本人はどこ吹く風で、それどころか少し楽しそうですらある。
「じゃあ空木。続きを深鏡に食べさせてくれるかしら? その玉子、次は出汁につけてからね」
「え、食べさせるの?」
「当たり前よ。だって深鏡は箸を持っていないの。ほら、早くなさい」
あ、と深鏡さんが口を開けて俺の方に顔を差し出した。
目を閉じてじっと俺の動きを待つ深鏡さんは無防備にもほどがあった。
俺を信頼してくれている、ということでいいのだろうか。
いや、どちらかというと俺を男扱いしてないからできることかもな……。
俺が深鏡さんの口に玉子を入れてやり、俺自身も余った大根を口に放り込んだ。
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