第198話 これより奥

「名まえ……わたしの、名まえ――」

「――こちらです、ミリアム様! さぁ!」


 上の空になりぽつぽつとうわ言を零しながら長い廊下の豪奢な絨毯の上をさまよっていたミリアムの手首の辺りを強引に、しかし優しく掴んだ恰幅のいい壮年の侍女が声をあげる。


「こちらです! どこから魔族の強襲があるかわかりません! さぁ、こちらの部屋にお入りになって!」


 北側へ集結した騎士や兵士やや荒くれもの、或いは冒険者達は聖王の良く通る声に背中を押されたり、また別の者は覚悟の高見へと引っ張り上げられる――。

 気合の入った戦士の集団はいよいよ士気を高ぶらせ、それでいて静かな城門の前、暗がりの中で月の光をその剣や、斧、鏃に鈍く反射させた。


 その数、およそ二十五万――。

 それに加えて魔術を扱えるものがおよそ百八十名。しかし、依然としてガーリラウヤからの援軍は見えない。遠く西の空で淡く光る原因は信仰国単体で防衛の術式を発動させた光だ。

 そして敵軍の規模は不明。


 雷鳴の如く轟く兵たちの声はミリアムのいる部屋にも届いたが、彼女の心を揺さぶるには至らなかった。


「ミリアム様もご準備を。こちらを身に着けてくださいませ!」


 侍女が取り出したのは、ミリアムが意識を失う前に身に纏っていた白銀の甲冑だ。

 それはカナメたちの一行が大事にしまい込んで、決して軽くはない重量を担いでアルジエナまで運んできた。

 両手を広げさせていそいそと皮革の留め具を装着して、ミリアムの装備を整える女中。


「……ぴったり」

「ミリアム様が、ヘイリッテの町へ参られた際に身に着けていた者と聞いておりますゆえ――」

「わたし……が……?」

「左様です。次は御足を――」


 聖戦はこの日、来たる。

 冬の大六角が最も輝きを放つ夜から三十九日後、それは未明かもしれないし早朝や昼かもしれない。

 はっきりとわかってはいないが、だからと言って朝日と共に目を覚まし顔を洗って朝食を済ませ戦地に赴くなどと悠長に過ごすわけにはいかぬと、日付が変わるその瞬間には総員が戦闘態勢をとれるよう準備をしていた。


 間もなく暦の上ではその日。三十九日後。


――聖戦。


「戦いが始まる前に、ミリアム様。準備を整えてお隠れになるのです」

「……ミリアムは、たたかう人よりやさしい人のほうがいいな……」

「優しいから戦うのです、さぁ護身にこの剣をお持ちになって。参りましょう――」

「剣? ……このもよう。バラのお花かな?」

「ええ、薔薇の意匠でございますね、これもミリアム様の持ち物だそうです……時間がありません、さぁ、早く!」

「どうして知っているの? わたし、知らないよ、このよろいも、けんも」

「…………早く!」


 ミリアムに付きっきりの侍女は、もしかすると事情を聞かされていたのかもしれない。それでも、剣の振り回し方も覚えてはいない彼女――纏った軽鎧も薔薇の意匠が刻み込まれた剣も、一枚の肖像画さながらに様になっているいで立ちをした彼女の弱弱しい手を引いて、安全であるとされる城の地下まで足早に向かっていく。


「バラ……『ふさわしい』って、なに――?」



 *  *  *



「ついぞ、逃げなかったか。ランダリオとて根性が座っていない訳ではない。それどころか類まれな才能があるだろうな……だが逃げたのだ。無理だと泣き言を言った」

「あん? ……あァ、あの若ぇのか。まぁ、それなりじゃねえか? 相手が俺じゃなけりゃそこそこいい勝負はできるだろうよ」


 鍛錬は終えた――技は盗んだ。

 その鍛錬は、日々一つずつ奪っていった。

 初日には視覚を。目隠ししたうえで『剣聖』とまで云われた男と向き合い、打ち合った。

 その翌日には耳の穴に綿を入れられ、息遣いを感じることを禁じられた。打ち合うほどに生傷をつくり、それでも日が落ちるまで棒切れを振る。


 その日が終わると、相対する人間は剣聖ほどとはいかない力量ではあるものの二人になっていた。

 それでも打ち合う。


 何が見える?


 自身の中では地獄が見えていた。

 それでも振るう。


 ある時は鬼が見え、ある時は友が見えた。

 それでも振るう。


 ある日棒切れを取り上げられた。

 それは修行場とされる広場のどこかにあらかじめ置かれていたが、どことなく予感してそれを拾いに行こうとすれば全力の三人が阻んだ。


 それが終えると――正確には終わっていない、視覚と聴覚を塞がれたまま一時的に日常へと戻り、しかしその日常のどこにいても剣は振り下ろされた。


 飯の最中、風呂に使っている時、小便をしている時。

 それでもトキハルは退けた。ある日、打ち合いには魔術師が加わった。


 何が見える?


 ある日、唐突に自分自身が見えた。

 それが見え始めると、次に世界が見えた――気がした。


 妻と娘とトキハルが桜の木の前で笑いあい、そこへ友が土産を持って丘を駆けあがってくる。

 それは、セカイだった。


「……何が見えるかね?」


 剣聖とまで呼ばれた老人は冷や汗を流してトキハルに問いかけた。

 空気の振動や殺気、果ては魔力の流れや視線までを男は肌で感じ始めていたように見える。


 彼を取り囲む剣士や魔術師は、修行を重ねてから二十二日の後、三十人を超えていた。

 その剣戟や魔術を涼しい顔――目隠しをして耳に綿を詰めた異様な姿のまま――で紙一重躱しきった彼は不機嫌そうに言った。


「……今まで見えてなかったモン。今まで見る必要がなかった、ってぇのに見ちまっていたどうだっていいモン……」


 剣聖の首筋は粟立った。

 そこにいながらに自らの鍛錬もかねて修行に立ち会っていたランダリオでさえも気後れし――もとい死の恐怖を感じてしまう。


「これより奥にゃあもういけねえだろうな……ほんならこいつを差し当たって“奥義”って呼ばしてもらう――」


 剣聖は怒声を張り上げて三十名を身を隠すように自身の背後に立たせ、魔を滅ぼすために剣に込める『圧倒的な聖』を防御に集中させる。

 それは魔術師が急いで練り上げる魔術の障壁も同じく。


「技に名なんぞつけねえ主義だが、こいつぁ俺の生きた証だ……」


 身構えた彼らは肩透かし――トキハルは途中で棒切れをを収め、目隠しを取り耳の綿をかっぽじって地面に放り投げ、剣聖と呼ばれる老人を見た。

 気迫だけで手練れの剣士を後ずさりさせたものの彼は興をも放り投げて、鋭くも柔和な目線を剣聖へ向けた。


「礼でも言っとくか。もっと高ぇところに行けた気がするぜ」

「……そんなものは後に取っておけ。テリプへの謝罪も」

「俺ぁなんもやってねえよ。ひと眠りしたら戦だ」


 この男こそが真に剣の頂――。


 考えることは止めた。そう時間もあけずに聖戦が始まる。

 この男がいれば敗北に終わることなど。


 脳裏によぎったが今日は体を休ませただ、備える。

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