第126話 成長
焼けるような夕暮れ。
明り取りから差し込む日差しは道場の中を夕日の色に染め上げる。
もっぱら、雑巾がけをして目を閉じ、質問をされてはそれに答えて、折檻を喰らってまた、雑巾がけ。
その繰り返しの日々を過ごしてきた。
そんな日々の何を仕上げるというのか。技などは何も教えられていない。
トキハルは思い返す。
音を、光景を。
言葉を、剣を。
技を心に焼き付け、その御前試合の土壇場で粗削りながらも形にしたトキハルを、ツユリはよく理解していた。
教える必要はない。
図らずもトキハルが言ったように、盗んだのだ。
門下の者への指導は聞き耳を立てるトキハルにも吸収され、師範代の剣筋はいつしか折檻の木刀を受けるうちに見切り、師範であるツユリの所作はトキハルの心に沁みついた。
その証左として。
「――見事……隙一つ見当たらぬ」
褒めようと思ったわけではない。
しかし、力を込めるでも緩めるでもなく木剣を持ち、洗練された所作で対峙する若い門下の末席に思わず、といった様子で感嘆の言葉を漏らす。
だがトキハルにとっても、隙が見当たらないのは同じことだった。
「さて、トキハルよ。何が「――なぁおっさん、何が見えるよ?」」
隙が無ければ作ればよい。
敢えて不躾な口調をとって散々と問われてきた言葉を、意趣返しのつもりで我先と師範に問う。
「ははは、何も見えんな。差し当たって脅威となるようなものなど、何も」
「こんの野郎っ!」
挑発をしたつもりが、逆に挑発をされて頭に血が上った様子の無礼者が先手を打つ。
洗練された型から放つ、剛の剣。
これを喰らえば木剣とてただでは済まぬだろう、そう思いながら右手から迫る剣戟を躱しその小手を払おうと左足に重心を移そうとするが。
残像さえ残すのではないかというほどの速度で師範を喰らおうとするその若者と一瞬目が合うが、その目に心を乱したような色はない。
(挑発に乗ったと芝居を打ったか……だが、甘い)
トキハルが振るう木剣を、同じく木剣で軽くたたいて力を流すと少しだけ体勢を崩し、彼の左肩へと隙が現れる。
すかさずそこへ打ち込もうと小手へ視線を合わせて囮にし、木剣を打ち込もうとしたがしかしツユリは半歩飛び退き体を縮める。
体勢を崩されたかのように思われたトキハルはその力を利用しながら回転し、先ほどまでは隙を伴う左肩があった辺りを半月を描いて切り上げた。
「くそ、乗ってこねえか」
そのまま左肩へ打ち込んでいれば腕を打たれたでは済まなかっただろう。
身体を動かしたからではなく、頬を伝って顎から落ちた冷や汗が一滴、道場の床を叩く。
(見えておるよ、トキハル。鬼でも食らってしまいそうな、静かで大きな一匹の狼が)
自信を持って放った一撃が躱されると不満気な表情を浮かべたトキハルに、今度はツユリから仕掛ける。
清流のごとく静かな剣が水平に放たれると、張り詰めた鋼の糸が首に絡みつくような錯覚を覚えてトキハルは腰を落としてそれを避ける。
だが、そこへ飛んできたのは、蹴り。
咄嗟に腕を盾としその足を受けたが、今度こそ本当に体勢を崩してしまいこれはまずいと転がって距離をとる。
あわや自身がいた場所に雷のように落ちてくる剣戟と、少し遅れて頬を撫でる風圧に冷や汗を流したのは今度はトキハルの方だ。
「蹴りなんて有りなのかよ!」
伝う汗をぬぐう暇も与えずに見事な足遣いで対峙する者との距離を初めからなかったかのように詰めたツユリは刺突の姿勢。
一瞬の間、目を閉じて神経を尖らせたトキハルはどうにも穏やかな陽だまりのような気配を感じ取り、それが陽動、殺気がこもっていないことを悟る。
刺突と見せかけた一撃は虚、次の攻撃をいかにして躱すか案じたトキハルが目を開けると刹那の間、目に映ったのはツユリの後姿。
凄まじい速度で体を回転させて己に迫る剣の一筋は水平線のように厳かにそこに在った。
先ほど研ぎ澄ませた神経の残りかすで必死に横薙ぎの剣を躱すと蹴りに備えて体を守る。
だが、やって来たのは天から降り注ぐ隕石が如き一閃。
木剣を水平に、頭上に構えて受けようとするがこれは悪手と咄嗟に切り替えてまた、身を転がして避ける。
ツユリの剣が放たれたところを見れば、いままで一生懸命磨いた床に、今度は傷ではなく穴が開いている。
「……死合の場においても剣気が見えるようになったか、見事だ」
「……ありがとうございます」
「ふふふ、ありがとうございます、か」
門下生は思う。
最早、門下のどの者も、師範代といえども、あの無礼者には敵わない。
毎日毎日、雑巾がけをして床を磨いていたと思われていたうつけ者は、いつの間にか流派の教えを盗んで見聞きし、己の技を磨いていたのだ。
師範の剣は、泥臭く躱す無礼者にあたらない。
無礼者の剣は、ふわりと浮いた煙を切るように、師範の体を直撃することはなかった。
決着をつけるのは、若さゆえの体力か、はたまた無礼者の人生の、倍以上を剣に生きた者の経験か。
何度も打ち合い、躱しながら消耗した体力の行き着く先、二人の神経は研ぎ澄まされていった。
無論、両者ともに負けるつもりは毛頭ない。
(トキハル、お主の成長のためにも。しっかりと、敗北を経験させてやる)
「……示神心刀流が名代ツユリ ナガサダ、参る」
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