第183話 蒼

右目。


毒? 傷? ごみでも入ったか?

このまったくなにもない虚無の空間で?


 否、痛みは現世の体で感じるのだ、今現在痛みを感じるというのならば、心が――。


「……ぅうううううう! 痛ぇええええ」


 目を押さえて蹲ったカナメは他の感情を持つ余裕がなかった。

 痛みと、欲。目、欲と痛み。


「ふえ? ちょっと、どうしちゃったの、大丈夫? ナルシマ君!」


 先ほどまで子供のように泣いていた精霊王は、尋常ではなく何かに痛めつけられるカナメの様子に束の間動揺を見せたが、すぐさま気を取り直した。


「光の精霊ちゃん、水の精霊ちゃん! ちょっとだけ私のもとへ戻りなさい! あ、炎の精霊ちゃんは今回はその辺で見ていて頂戴ね」


 精霊王ウィシュナがそう声をあげて呼び寄せれば、それぞれ右の手と左の掌の上で力強く佇み、そして王が目を閉じて小さく息を吐くと、彼女たち――ホーリィとシズクは綿毛と水滴の様な形――概念そのものへ姿を変えてしまった。


 しかし輝きは、潤いは――そして一時とはいえ精霊の力を取り戻したウィシュナは。


「光の精霊よ、穢れを。影を抑えるため清く輝きなさい。水の精霊よ……今こそ主が為お前の本分を果たすがいいわ。聖なる癒し、生命の水――【アキュエルクト・フォス・クルステルシ】――」


 泣いて腫らした目は今ではすっかりと元の雪の様な色白の美貌――透き通るような肌へ姿を変えて、見る者の視線を全て吸い寄せる桃源郷の花の様な唇を動かした。

 その口から生み出されたのは誰がどう見ても――それが神だとしても“精霊王”の力の片鱗だ、そう言うに違いない。


 ウィシュナが彼の方に掌をかざせば、神の楽園に流れるせせらぎの様な清く美しい水流がカナメを包みこむ。


「ううう! ううぅうう……」


――ここはどこだ?


 痛みが去るとカナメの思考に真っ先に浮かんだのはそれ。

 死んでしまいたいと思うほどに魂の目をほじくり返すような痛みで錯乱していた彼が、解き放たれた後に抱いた感情だ。


「ナルシマカナメ君、体は――ううん、それは魂が感じた痛み。でも大丈夫、きっと大丈夫。きっと君の力が蠢いただけ……一過性のものだよ。大丈夫、私達が付いているから」

「精霊……王――」


 目の前でうずくまるカナメに目線を合わせるように優雅にしゃがみ込んだ彼女の目には、知恵と慈しみが源泉のようににじみ出ている。

 その姿を見るとカナメはつい『精霊王(仮)』とは呼べなくなってしまっていた。


「まだ、不十分かな。ごめんなさい、君を呼び出したのは他の誰でもない私だったよね。辛い役目を与えてしまったみたいだね? でも――おっと、時間切れみたい。きっと覚えていると思うから、何が起きたのかは私に聞いて頂戴ね? じゃあ、また……」


 少しだけ寂しそうな表情を浮かべた精霊王はそっと微笑みを浮かべて優しく声を掛け、そして。


「…………」

「ついに、力を取り戻したのか? そっちこそ大丈夫か? おい、ウィシュナ」


 正に片鱗を見た。

 先ほどのウィシュナの姿、慈愛と知慮があふれる神にも似た存在は――。


「ゥ……う」


 手で口元を押さえて具合が悪そうにしている。

 彼女のもとを離れると光の精霊と水の精霊は、それぞれホーリィとシズクへと戻った。


「ウィシュナ?」


 彼女の名前を呼んで顔色を窺うと口元を押さえながら小さく首を横に振った。顔色は透き通りすぎて血の気も通っていない『蒼』へと変わっていた。


「大丈夫かよ! 副作用か!? 何か僕にできる事な――」

「う、うぷ――おえぇえぇれれれっ」


――魂の、吐瀉。


「うわ、きったな」


 特に汚いという概念が視認できるわけではない。彼女が吐いた魂の吐瀉は虹色に輝き、白に溶けてゆくだけ。

 しかし、その状況だけ見ると確かにそうだ。汚いと言ってカナメの常識では何一つ間違いはない。


「汚いって言ったぁー! 精霊王なのに、私! 精霊の王のにぃー」


 四つん這いの恰好で子供の様に泣きじゃくる彼女は大粒の涙を流した。


「だった? お前は精霊王(仮)だろう? そう落ち込むなよ? 精霊王だってゲ○吐くときだってあるさ」


 励ますつもりなどはない。彼に彼女をフォローする気持ちなどはない。ただ、彼女が三千年も世界を救う誰かの事を思って過ごしたと考えると、少しだけ気の毒だと思った。


「ちがぁう、違うの……精霊ちゃん達の力をうまく使えながっだぁ……まぢがえじゃっだんだぁ……」

「お前が間違うのなんて日常茶飯事だろ? 気にするなよ、世界は何とかするさ――」


 カナメは講義がそろそろ終わっているだろうと考えた。

 すなわち、もう帰ってもいいだろうと結論付け、この場を去ろうとしてホーリィとシズク、ホムラ三人と目を合わせた。

 彼女たちははとても悲しそうな眼をしていた。


 しかし、ウィシュナはカナメに縋りつきながら、べしょべしょに泣きながら懇願した。


「がえじでぇぇぇ~~」


 先ほどの威厳はすでに鼻水と涙を依り代に亜空間まで吹っ飛び、彼女は正しく精霊王【仮】であった。


「なんだよ、何のことだ? 何を返せってんだよ」

「間ぢがえだぁ~、君に精霊王の加護を……わだぢの加護を与えたつもりだったのにぃ」


 嫌な予感がして訝しそうに眉を寄せた転生者、彼の目に少しだけ違和感を感じたホーリィは目をこすってもう一度つぶさに観察したが、その違和感はすでにどこかへ行ってしまっていて、いつもの少しとぼけている割に意志の硬そうな眼があるだけだった。


 かたやもう一人、主の脚に手をまわして縋りつくように泣きじゃくっている女の姿を見た。


「わだしの加護をあげたつもりだったのにぃ~~、『精霊王の加護』の全権をわだじぢゃっだのぉ~、がえじで! 返してよぉぉ~」

「落ち着けよ、何言ってんだお前! 水でも飲め。 なぁ、シズク」


『ぁあ~――』


 用事を済ませてすぐさま消えたシズクが真っ白なティーカップへ注いだ水を精霊王へ手渡すが、彼女はカナメの脚に縋りついて鼻水と涙をこすりつけるだけだった。


『主殿』

「ホムラ。ちょっとこの精霊王(仮)落ち着かせてくれよ、そろそろ精霊術の講義に戻らなきゃ――」


 精霊術を使いこなすために魔力が必要。そして魔力のないカナメはヒントを得るため講義を受ける。

 だが、一方は杞憂で、一方は解決された。


『主殿、どうやら彼女は。精霊王の『加護』を渡すつもりが、間違えて『精霊王の加護』を渡してしまったようだ』


「……は? どういうこと?」


『つまり、“主殿が精霊王”となったのだ――』


 彼が抱いた感想はこうだった。


“また面倒臭い状況にしやがって――”

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