第140話 桜一片、欲と春

 ――ちぃとばかし、時間をくれ。


 結局口をついたのはこんな言葉だった。

 頭は冴えている。やることは明確。

 自分にとってどんな行動をとるのがいいか、客観的に考えても大体わかる。

 ただ少し、自信がない。


 我が子さえ守り切れなかった人間が、世界を救う旅に出る。


 それを、サクラが。

 トワが、セッタが。

 彼らがどんな顔で送り出してくれるか。


 きっと笑って、喜んで背中を押してくれるだろう。


 そう思い込んで自分だけ残りの人生を送ることを、誰でもない自分自身が許容できる自信が。

 要するに今は亡き家族や友の優しさにあたりを付け、そんな風に過去を上手く丸め込んだ自分を、許せるか。


 その自信がない。


 ――いいさ。トキハルの人生なんだから、よく考えればいいさ。


 そう言ったのはどうにも年下には感じられない、意味不明の力を使う、黒髪の少年だ。


 遠目からでも強力な火炎の奇術を使って鬼を焼いた、少女。

 彼女に張られた頬を擦りながらトボトボと歩き、草木も眠りにつく深夜、久方ぶりに昔寝床にしていた地蔵の小屋に来た。


 くるぶしの高さほどの雑草が生えている中で石が転がっていない場所を見繕い、ちょうど地蔵の横顔と月が視界に収まる場所へ寝転がった。


「……セッタ。俺ぁどうすりゃあ、いいんだろうな」


 答えは、ない。


 風に揺られて葉がこすれる音、ほど近くを流れる小川のせせらぎだけが耳と心に届いた。


「トワ……不自由はなかったか?」


 夜風はまだ少し肌に冷たく、酒に火照った頬の熱を奪った。


「サクラ…………お前も外の世界が見てぇと思うか? チンケな父親の眼を通して写った景色でも、喜んでくれるのかよ……」


 応える者は、いない。

 この世には、いない。


 ふと吹いた春風がトキハルの眼を掠めて瞬いた。

 半身を起き上がらせ目をこすってから目を開ければ地蔵の被った笠の裏に、古びた紙切れが張り付けてある。


 気に留めることもなく再び寝転がったが、何か引っかかる。


「……笠なんて被ってたか? お地蔵さんよ」


 記憶の中の地蔵はつるつるの頭。

 再び紙切れに視線を移すと、


 ――“時春”


 紙切れの隅に見慣れた字でそう書いてあるのが分かって慌てて飛び起きる。

 一瞬顔の前で地蔵に手を合わせ、丁寧にたたまれた紙切れを剥がしてみると、これは手紙。馴染みのある字で書かれた、自分への手紙だった。


 学のない自分でも文を読めるか心配したが杞憂、トキハルを良く知った彼は、読める字と読めない字は把握してくれていた。


“――時春。気恥ずかしいものだ。漢のお主などに文を書くとは。しかし面と向かって言うは尚、気恥ずかしい。

刀は気に入ったか。三日三晩ねずに打った刀。手入れをおこたるはゆるさん。


この文を読んでいるという事は、なにかにふてくされているのか、上手くいかなくてねっころがっているのだろうな。

しかし、構わん。そのようなときもあるだろう。


近頃では、人が魔の者におびやかされているという。

お主の腕っぷしは、お前だけが好きにしてよいものではない。

自分のために力を振るうは鬼に同じ。

誰かのために振るえ。その剣を振るえ。


平和であれば、越したことはない。

気落ちするのは許そう。

泣くことも、許す。

構わん。負ける事さえ、許す。


死ぬことは許さん。

挫けることは尚、許さん。


人のために生きるというのは、何も自分を捨てるという事ではない。

お主が歩んだ道程だけが、お主の人生だ。

しかし、そこに火を灯すのは、他者であってもいい。


この文に、気付かなくても構わん。

それならお主は上手くやっているのだろうから。


文章は苦手だから、お主にうまく伝わらぬかもしれぬが、伝わればよいなと思う。


追伸

お前に刀を届けたのち、団子屋の娘、カエデに想いを届けようと思う。


友より”



「……そうかよ」


 ゆっくりと立ち上がり、手紙を袖にしまって歩き出す。


 向かう先は、墓前。

 自分を地上に残して天に上った皆は、それなりに身分のある者達。セッタも、トワも。その子、サクラもだ。

 一族の者が立てた立派で高価な石とは別に、綺麗な岩を拾って海が見える丘。つまり自分の家のほど近くにそれらを運んで墓石に見立て、彼らの好んだものを並べた。


 自分だけの場所。

 しかしここに来れば悪夢と嗚咽が溢れ出てしまい、寄り付くことはなくなったのだが、夜風が心地よい今夜は、これまでと異なり心は凪いでいた。


 寝静まった冒険者共はさておき徳利を持ち出して、家族の名を冠した刀を鞘から抜き地面に突きたてて、骨は埋まっていない墓石に酒を掛けた。

 猪口に注いだ酒は月を映す。


 月と、海と、刀。


 穏やかな夜が永遠であればいいと祈り、自分も酒を煽る。


「――眠れないのか?」

「うる……ああ」


 静寂を切り裂いたのは、冒険者の少年。反射的にうるさいと言いかけ、張られた頬の痛みを思い出してただの返事をすることにした。


「悪いな、賑やかな連中でさ。その、骨とか折れてないか?」


 謝罪を述べるとともに、半眼になって仲間の失態による怪我の心配を。

 それほど応えていない。身体の方は。


「へ……なんでもねえ、こんなもん。応えた、っちゃあ応えたが――時にてめえ、なんだって“世界を救う”なんて戯言を吐きやがる?」

「ああ、最初は嫌々だったんだけど……段々と、この世界が好きになって来たんだ――いや、ちょっと違うかな、きっと【欲】が出てきたんだと思う」

「欲、だぁ? それだけの理由でか? 英雄にでもなりてえのかよ」


 呆れたように、白けたように。

 信じられない、といった様子でトキハルは茶化した。


「そうしたいな、ってだけだ、今のところは。けど、本当にこの気持ちが僕の気持ちなのかは、分からない。一時の気の迷いかもしれない。けど――」


 歯切れ悪く言葉を切った少年の顔にトキハルは視線を向けた。


「なんだって欲から始まるだろ? 人間は。 食べたい、楽したい、生きたい、死にたい、何もしたくない。全部、欲だ。いいじゃないか好きにやれば。別に悪いことをしているわけじゃないし」

「…………」


 少年の双眸には、夢と言うにはどこか薄暗く、欲とそっけなく言うには高尚な何かが渦巻いていた。


「聖人君子か、欲の塊か。何だってんだ、てめえは」

「そんなわけないだろ。人間以外の何に見えるんだよ」


 いつだったか、師の今際の際に言ったのだった。それを思い出した。


 ――何が見える。


 死に逝く師に、希望を持たせたいと肩肘を張って言った言葉だが、今は違う。

 はっきりと、おぼろげに。しかし、見た。


「……未来だ」

「酔ってんのか? まあいいや、何に縛られてるかは知らないけど、そんなの自分で切ってくれ。一緒に来いよ、トキハル!」

「……どいつもこいつもうるせえな――いや、ありがたく同行させてもらうとするか。この目に外を焼きつけて、冥途の土産に――おっと、俺ぁ多分地獄に落ちるんだろうが、どうにかして届けてやらぁ」


――天国の娘と妻。そして友へと。


「示神心刀流、“ツユリ トキハル”……なんの因果か知らねえが、腐れ縁のダチが“人のために剣を振るえ”と、可愛い娘が“父は強い”と、ちょいとおせっかいな女房が“生きろ”なんぞと言いやがるもんだから、渋々てめえらのご立派な目的の道中、お守りを引き受けてやらぁ!」


 自分で切れと言われても、そんなものはすでに切れている。

 生きろというのは呪縛では、今のところなくなった。

 刀を握った手はもう震えることはないだろう。


 ――何が見える?


「何にも見えねえよ……これから見るんだ、世界が救われるってところをよ」


 どこから舞ってきたのか、一片の花びら。

 毎年、冬があけて暖かくなってくれば辺りを彩る、あの花だ。

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